人物ページ / 関東の代官頭・検地と用水・小室陣屋の主

伊奈忠次いな ただつぐ

伊奈忠次とは?

三河で天文19(1550)年に生まれ、家康の関東入国にともなって代官頭となり、今の埼玉県伊奈町にあった小室の陣屋を拠点に、検地・新田開発・用水・街道の宿駅の整備を進めて、徳川家の関東支配の土台をつくった人物です。

官名の備前守から名をとった「備前堀」の名は、今の埼玉県北部や茨城県水戸市の用水に残ります。

家康の嫡男・信康に仕えたのち三河を離れ、天正10(1582)年の伊賀越えに従って徳川家に戻ります。
天正18(1590)年、家康の関東入国にともない代官頭となり、翌年に小室へ陣屋を構えます。
文禄2(1593)年の千住大橋から、慶長15(1610)年の水戸の備前堀まで、各地で橋・用水・堤を手がけます。
慶長12(1607)年ごろには将軍秀忠の政権の中枢に加わり、慶長15(1610)年6月13日に61歳で亡くなりました。

三河から——信康の家臣、堺、そして伊賀越え

忠次は天文19(1550)年、三河国幡豆はず郡小島(今の愛知県西尾市)の城主・伊奈忠家の嫡男として生まれた。はじめは家次と名のっている。伊奈氏は信濃の伊那の出で、忠次の祖父の代に徳川氏に仕えたとされる。父の忠家は永禄6(1563)年の三河一向一揆で一揆側につき、小島を追われた。のち父子は家康の嫡男・松平信康に付けられるが、天正7(1579)年に信康が自害すると三河を離れ、堺にいた伯父のもとに身を寄せた。

1582年 伊賀越えに従い、徳川家に戻る

天正10(1582)年、家康が堺を訪れていたときに本能寺の変が起こる。忠次は家康の伊賀越えに従って三河へ帰り、再び徳川家の家臣となった。天正14(1586)年に家康が駿府へ城を移すと近習(主君のそば近くに仕える役)に加わり、家康の五か国で行われた検地で才能を示して重く用いられた。

1590年 小田原攻めの道と兵糧を受け持つ

天正18(1590)年の小田原攻めでは、駿河・遠江・三河の三か国の道路の普請、富士川の船橋の整備、軍勢の兵糧の輸送をまとめて担った。小田原城に入っていた兵糧の受け取りや、雨の中の渡河をめぐって秀吉に意見した話も、のちの『徳川実紀』に伝わる。

関東の代官頭——小室の陣屋から、関東の直轄領へ

天正18(1590)年8月、家康が江戸城に入ると、忠次は大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱らとともに代官頭(徳川家の直轄地を治める代官たちを束ねる役)となった。武蔵国足立郡小室と鴻巣で1万3千石(1万石とも)を与えられ、翌天正19(1591)年、沼を控えた小室の寺(閼伽井坊)の屋敷を接収して陣屋を構えた。忠次はここを拠点に、用水と川の工事、新田の開発、検地、中山道などの宿駅の整備を進めた。

三人の判 直轄領の文書は、三人の連名で

関ヶ原の戦いのあとの慶長5(1600)年12月、家康は、これからの直轄領の支配を大久保長安・伊奈忠次・彦坂元正の三人の連名の文書で行うよう命じた。翌年には三人の連名で、三河・遠江の寺社に寺の領地を認める文書や、東海道の宿場ごとの伝馬(宿場で人馬を用意する決まり)の定めを出している。今の静岡県磐田市には、初代の中泉代官としての忠次が慶長7(1602)年7月5日に出した文書が伝わる。

関ヶ原のころ 関所を守り、荷を運ぶ

慶長5(1600)年の上杉討伐では、房川(今の栗橋)の関所を守った。関ヶ原の戦いでは小荷駄奉行(兵糧や物資の運搬を受け持つ役)を務めている。忠次は、合戦よりも実務の役人として才能を発揮した人物とされ、関東では100万石にわたる土地の支配を受け持った。その農政は「伊奈流」と呼ばれ、のちのちまで幕府の基本の政策として受け継がれた。

備前堀と大橋——各地に残る、忠次の名の用水と堤

忠次は、のちに従五位下・備前守に任じられた。各地に残る「備前堀」の名は、この官名からきている。仕事は関東にとどまらず、木曽川の堤や富士川沿いの検地にも及んだ。

千住大橋 文禄2年に始まった、隅田川の最初の橋

家康の命を受けた忠次が奉行となり、文禄2(1593)年に架橋が始まって翌年に完成した。当時の荒川(今の隅田川)に架けられた最初の橋で、はじめはただ「大橋」と呼ばれ、ほかの橋ができてから千住大橋と呼ばれるようになった。

武蔵と上野の備前堀 1604年、1年で掘った用水

慶長9(1604)年、忠次は利根川から水を引く用水路を、1年という短い期間で開いた。今の埼玉県本庄市・深谷市・熊谷市を流れ、約1,400ヘクタールの水田をうるおす「備前渠用水路」で、「備前堀」の名で親しまれ、埼玉県で最も古い用水路の一つとされる。上野の玉村(今の群馬県玉村町)でも、忠次は荒野に用水を引いて新田を開き、農民を移して新しい村をつくった。

水戸の備前堀 千波湖の水を、田へ

慶長15(1610)年、水戸に封じられた徳川頼房の命で、忠次は千波湖の水を下市の南を通して引く用水路を掘った。水戸の那珂川右岸の低地を田に開くための工事で、「伊奈堀」とも呼ばれる。

御囲堤と岩淵 木曽川の50キロの堤、富士川の間宿

慶長14(1609)年、家康の命を受けた忠次は、木曽川の左岸に約50キロの堤防「御囲堤」を築いた。いくつにも分かれていた流れを固め、洪水の害を減らすためである。同じ年の8月には、富士川の舟運の船着場があった岩淵村(今の静岡県富士市)の検地を行った。このとき幕府は、岩淵村を宿場と同じような町並みにするよう命じている。これが、東海道の吉原宿と蒲原宿のあいだに置かれた間宿(宿場と宿場のあいだの休みどころ)岩淵の始まりである。

江戸の政権へ——代官頭をこえて、秀忠のもとで

慶長8(1603)年に江戸幕府が開かれると、忠次は代官たちを動かして幕府の直轄領を治め、川の工事や検地、新田の開発、年貢の取り立てにあたった。慶長12(1607)年ごろ、家康が駿府に移ると、大久保長安は駿府の大御所家康の側に、忠次は江戸の将軍秀忠の側に属し、それぞれの政権の中枢に加わった。忠次は代官頭の立場をこえ、年寄に近い役割まで果たすようになる。

最期 慶長15年、61歳で江戸に没する

忠次は慶長15(1610)年6月13日、江戸で61歳で亡くなり、鴻巣の勝願寺しょうがんじ(浄土宗)に葬られた。墓は大正11(1922)年に埼玉県の史跡に指定されている。家康が大坂夏の陣で天下人の地位を固める5年前のことだった。

伊奈家のその後 小室の家は旗本に、次男の忠治は利根川へ

遺領は嫡男の忠政が継いだが、忠政は元和4(1618)年に亡くなり、その子の忠勝も翌年わずか9歳で没したため、1万3千石は取り上げられた。弟の忠隆が旗本として小室郷8か村を与えられ、陣屋はそのまま残った。一方、忠次の次男・忠治は利根川の流れを東へ移す工事を本格的に進めた。伊奈氏は代々関東郡代と称し、利根川の流れの付け替えなどに業績をあげていく。

伊奈忠次の疑問に答える

利根川の流れを東へ変えたのは忠次?

忠次ひとりの仕事ではない。文禄3(1594)年、利根川の流れの一つだった会の川を締め切った工事については、忠次が指揮したとする資料と、忍城主だった松平忠吉の命で家老の小笠原吉次が指揮したと伝える資料がある。利根川を東へ移す工事を本格的に進めたのは、次男の忠治とされている。

小室の陣屋には何が残っている?

今の埼玉県伊奈町小室に、土塁や堀、道の跡が残り、「表門」「裏門」「蔵屋敷」「陣屋」といった地名も伝わる。昭和59(1984)年の発掘調査では、形が障子の桟のように見える障子堀が見つかった。障子堀は戦国時代に後北条氏の城などで使われた堀の一種といわれ、今は埋め戻して保存されている。陣屋跡は昭和9(1934)年に「伊奈氏屋敷跡」として埼玉県の史跡に指定されている。

伊奈町の名は忠次から?

そうである。今の埼玉県伊奈町の名は、忠次がこの地に陣屋を構えたことからつけられた。

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参考にした資料