讃岐東部 / 三好一族の地域拠点 / 長宗我部氏との前線

十河城

現在の高松市十川東町、称念寺を中心とする台地にあった中世城館です。在地の十河氏が築いた地域拠点へ、阿波三好氏から十河一存と十河存保が相次いで入りました。十河城は「鬼十河」の居城というだけでなく、讃岐東部の武士と阿波の三好氏を結び、のちには長宗我部元親の進出を受け止めた城です。

高松市十川東町 十河一存 十河存保 長宗我部氏の侵攻
最初に押さえる

十河城を理解する四つの要点

  • 讃岐平野東部の微高地に築かれ、空堀、池、谷、急斜面を組み合わせて守る中世城館でした。
  • 在地の十河氏が、阿波三好氏から十河一存を迎えたことで、城は四国と畿内を結ぶ三好一族の地域拠点になりました。
  • 一存の死後は、兄・三好実休の子である十河存保が家を継ぎ、阿波・讃岐で長宗我部氏と争いました。
  • 現在は称念寺が本丸推定地に建ち、北側の空堀、西側の鷺の池、東側の急斜面などから城の地形を読めます。

なぜ讃岐東部に城を置いたのか

讃岐平野を見渡す

城は周囲より一段高い台地上にあり、四方の見通しが利きます。平野の集落と耕地を押さえ、近隣の武士をまとめる在地領主の本拠に向いた場所でした。

阿波へ通じる

讃岐東部は阿讃山地を越えて阿波国へつながります。十河氏と阿波三好氏の養子縁組は、地理的に近い二つの地域を一族関係でも結びました。

畿内へ兵を送る

讃岐は瀬戸内海を通じて淡路・摂津へつながります。一存は十河氏の地域基盤を持ちながら畿内で転戦し、三好長慶の軍事力を支えました。

空堀と自然地形を使った城

高松市の文化財解説では、称念寺境内が本丸跡と考えられています。北には現在も分かる大きな空堀、西には鷺の池、東には急斜面があり、人工の堀だけでなく池や谷を防御へ取り込みました。

奈良文化財研究所の全国遺跡報告総覧には、東西を川と谷に挟まれた舌状の微高地に、土塁で囲む方形居館と複数の曲輪が付属した可能性が記録されています。遺跡の分布は東西約200メートル、南北約500メートルの広がりで整理されていますが、これは石垣で囲まれた一つの郭の寸法ではありません。寺院、田畑、道路による改変を含む広い城跡の範囲として見る必要があります。

在地の十河氏から存保の時代まで

南北朝期
植田氏から分かれた吉保が十河へ入り、十河氏の祖になったと高松市の解説は伝えます。
16世紀中頃
三好長慶の弟・一存が十河氏を継ぎます。十河城と周辺勢力が、阿波・淡路・畿内へ広がる三好一族の網に加わります。
1549
一存が江口の戦いで長慶方の勝利に貢献。讃岐の基盤が畿内政治を支えたことを示す戦いです。
1561
一存が死去。実子・重存はのちに三好義継となり、十河家は実休の子・存保が継ぎます。
1570年代
三好長治の死後、存保は阿波三好系勢力の再建も担います。十河城は一城の支配を越え、阿波・讃岐をつなぐ拠点になります。
1582
長宗我部元親が阿波・讃岐へ進出。中富川で敗れた存保は、勝瑞や十河城をめぐって抗戦を続けます。
1584頃
後世の軍記『南海通記』では、長宗我部軍の圧迫を受けた存保が十河城を離れ、屋島を経て京都へ向かったとされます。
1585–87
存保は豊臣方に属し、四国平定後に讃岐で所領を得ますが、天正14年12月の戸次川の戦いで戦死します。西暦では1587年初めにあたります。

一存と存保では、城の役割が違う

十河一存

在地の十河氏を継ぎ、讃岐の人脈と兵力を長慶政権へ接続しました。本人は畿内で活動することも多く、十河城は遠征を支える地域基盤でした。

十河存保

一存の甥で、実休の子です。三好一族の中心人物が相次いで失われた後、阿波・讃岐に残る三好系勢力をまとめ、長宗我部氏の侵攻に対抗しました。

長宗我部元親

土佐から阿波・讃岐へ勢力を伸ばし、十河城を東讃侵攻の重要目標にしました。城の攻防は、三好氏の広域網が長宗我部氏の四国統合へ置き換わる過程にあります。

「大軍の籠城戦」は、遺構と軍記を分けて読む

十河城が長宗我部氏の侵攻を受けたことは、公的な文化財解説や地域史で共通して確認できます。一方、何万という兵数、攻城の細かな場面、落城年の表現には、後世に編まれた『南海通記』『十河物語』など軍記の影響があります。

確実に見やすいのは、台地、空堀、池、土塁、曲輪といった遺構・地形、そして同時代文書で追える存保の動向です。勇壮な物語をそのまま実況記録とせず、城の構造と複数史料を組み合わせて見るのが大切です。

現在の城跡で見られるもの

  • 称念寺を中心とする一帯が高松市指定史跡「十河城跡」です。本丸があったと考えられる場所には、後に将兵を弔う寺が建ちました。
  • 北側の空堀、西側の鷺の池、東側の急斜面から、自然地形を利用した守りを読み取れます。
  • 土塁や曲輪の一部は確認できますが、寺院・参道・水田化などで地形が変わっています。現在の境内線をそのまま戦国期の郭境とみなすことはできません。
  • 天守や高石垣を備えた近世城郭ではありません。地域領主の館と防御施設が広がる中世城館として見る城です。

参考にした資料