天正壬午の乱とは?
何が起きたのかを、順に置く
誰が、どこを見ていたのか
| 徳川家康 | 三河・遠江・駿河を基盤に、甲斐・南信濃へ勢力を広げます。危機から帰った直後の大きな拡張です。 |
|---|---|
| 武田勝頼 | この争いの前に滅びた武田氏の当主。武田氏の旧領が、各勢力にとって大きな争奪対象になります。 |
| 北条氏政 | 関東を基盤とする北条氏の当主。旧武田領をめぐって家康と対立し、のちに和議へ向かいます。 |
| 上杉氏 | 謙信の死後は景勝の時代です。信濃北部に関わる勢力として、旧武田領の争いに影響を与えます。 |
| 甲斐・信濃 | 武田氏の本拠地と重要な領域。山や峠を越えた軍事・支配のつながりが、東国の力関係を左右します。 |
「武田を倒した後」のほうが、家康には大事になる
武田氏滅亡は、織田・徳川連合軍の勝利として語られます。しかし、勝った側の支配が固まる前に信長が倒れたため、甲斐・信濃はすぐに安定したわけではありませんでした。
家康の目線で見ると、天正壬午の乱は「信長の同盟相手だった時代」から一歩進み、自分で東国の勢力と向き合う段階です。ここで甲斐・南信濃を得たことが、家康を三河の大名から、より広い地域を動かす大名へ変えていきます。
家康と北条の関係は、敵か味方かだけではない
この一件が、関東入封へどうつながる?
ここだけ覚える
- 天正壬午の乱は、武田氏滅亡と本能寺の変の後に起きた旧武田領の争奪戦。「壬午」は年を表す干支で、天正の壬午年=1582年を指す(名前のつけ方は乱・変・役・陣の違いで解説)。
- 家康、北条、上杉などが、甲斐・信濃をめぐって動いた。
- 家康は和議を経て、甲斐・南信濃を手にする。
- この拡大が、家康が東国の大大名になる大きな段階です。
- 次は北条との関係が終わる小田原征伐と、家康の関東入封へ進むとつながります。
天正壬午の乱についてのよくある疑問
なぜ旧武田領が争いになったのか?
1582年3月に武田氏が滅び、信長が家臣を代官として置きましたが、6月の本能寺の変で織田の支配は崩れました。武田の旧臣や国衆が各地で動き、徳川・北条・上杉がそれぞれ旧武田領に手を伸ばしたため、一年にわたる争いになりました。
家康はなぜ北条氏に勝てたのか?
兵力では北条氏が上でしたが、家康は武田の旧臣を積極的に取り込み、真田昌幸らの離反で北条方の信濃進出が止まったことなどが重なりました。決戦には至らず、和睦で家康が甲斐・信濃を確保しました。
真田昌幸はこの乱でどう動いたのか?
昌幸は武田滅亡後に織田、次いで北条、そして徳川と主を変え、最終的に家康に味方しました。和睦で上野の沼田を北条へ渡す条件が決まると昌幸は反発し、これがのちの第一次上田合戦(1585年)につながります。
5問クイズ
Q1. 天正壬午の乱が起きた年は?
A. 1582年です。
Q2. 争いの対象になった、滅亡した大名家の旧領は?
A. 武田氏の旧領です。
Q3. 家康と旧武田領をめぐって対立した関東の大勢力は?
A. 北条氏です。
Q4. 家康が和議の後に得た地域は?
A. 甲斐・南信濃です。
Q5. この後、家康が新しい本拠を置く大きな転換は?
A. 1590年の関東入封です。