事件・合戦ページ / 武田氏滅亡と本能寺の変がつくった、甲斐・信濃の支配者争い

天正壬午の乱てんしょうじんごのらん

天正壬午の乱は、1582年に武田氏が滅び、さらに本能寺の変で織田信長おだ のぶながが倒れた後、旧武田領をめぐって徳川・北条・上杉などが動いた争いです。家康にとっては、伊賀越えで岡崎へ戻った直後の大きな勝負でした。この争いを経て家康は、三河・遠江とおとうみ・駿河に加えて甲斐・南信濃を得ます。関東入封の前に、家康が東国の大大名へ育つ過程を押さえるページです。

1582年武田氏滅亡の後徳川と北条甲斐・信濃の争奪

天正壬午の乱とは?

  • 1582年、旧武田領をめぐって徳川・北条・上杉が争った。武田氏の滅亡と本能寺の変で、甲斐・信濃・上野の支配が空白になった。
  • 織田の代官が追われた。信長が置いた河尻秀隆かわじり ひでたか・滝川一益かずますらは、本能寺の変後に一揆や北条氏に追われて旧武田領を失った。
  • 家康は甲斐・南信濃を得た。伊賀越えで岡崎へ戻った家康は、すぐ甲斐へ進み、北条氏と対陣した。
  • 北条氏とは和睦で決着した。若神子で対陣した家康と北条氏直ほうじょう うじなおは、上野を北条、甲斐・信濃を徳川とする条件で和睦し、氏直は家康の娘を妻とした。
  • 家康が5か国の大名になった。三河・遠江・駿河に甲斐・南信濃が加わり、家康は東国の大大名として秀吉と向き合うことになる。

何が起きたのかを、順に置く

  1. 1582年春、武田勝頼が滅び、甲斐・信濃などの旧武田領は織田方の支配下に入る。
  2. 6月、本能寺の変で信長が倒れ、織田方の支配の枠組みが崩れる。
  3. 家康は伊賀越えを経て岡崎へ戻り、旧武田領へ動く。
  4. 北条氏も甲斐へ進み、家康と北条の軍事的な緊張が高まる。
  5. 上杉氏なども含め、旧武田領の周辺で各勢力の思惑が交差する。
  6. 10月、徳川・北条の間で和議が成立し、家康は甲斐・南信濃を得る。

誰が、どこを見ていたのか

徳川家康とくがわ いえやす三河・遠江・駿河を基盤に、甲斐・南信濃へ勢力を広げます。危機から帰った直後の大きな拡張です。
武田勝頼たけだ かつよりこの争いの前に滅びた武田氏の当主。武田氏の旧領が、各勢力にとって大きな争奪対象になります。
北条氏政ほうじょう うじまさ関東を基盤とする北条氏の当主。旧武田領をめぐって家康と対立し、のちに和議へ向かいます。
上杉氏謙信の死後は景勝の時代です。信濃北部に関わる勢力として、旧武田領の争いに影響を与えます。
甲斐・信濃武田氏の本拠地と重要な領域。山や峠を越えた軍事・支配のつながりが、東国の力関係を左右します。

「武田を倒した後」のほうが、家康には大事になる

武田氏滅亡は、織田・徳川連合軍の勝利として語られます。しかし、勝った側の支配が固まる前に信長が倒れたため、甲斐・信濃はすぐに安定したわけではありませんでした。

家康の目線で見ると、天正壬午の乱は「信長の同盟相手だった時代」から一歩進み、自分で東国の勢力と向き合う段階です。ここで甲斐・南信濃を得たことが、家康を三河の大名から、より広い地域を動かす大名へ変えていきます。

家康と北条の関係は、敵か味方かだけではない

1582年は対立する

旧武田領をめぐって、徳川と北条の利害はぶつかります。領地を広げたい二つの大勢力が近い地域で動くためです。

和議で一度区切る

長く争い続けるより、領地の線を引く必要がありました。10月の和議は、家康が甲斐・南信濃を得る結末につながります。

後には協力もする

家康と北条は、のちに豊臣秀吉とよとみ ひでよしへの対応でも関わります。戦国の同盟や対立は、ずっと同じ形では続きません。

1590年に関係が変わる

小田原征伐で北条氏が滅ぶと、家康は関東入封で北条の旧領を引き継ぐ側になります。

この一件が、関東入封へどうつながる?

1575年
長篠の戦い。信長・家康連合軍が武田方と戦います。
1582年春
武田氏が滅びます。家康は駿河を得て、三河・遠江・駿河を領有します。
1582年6月
本能寺の変。信長が倒れ、旧武田領の支配が揺らぎます。
1582年夏 - 秋
天正壬午の乱。家康は北条などと旧武田領をめぐって動きます。
1582年10月
和議を経て、家康は甲斐・南信濃を得ます。
1590年
関東入封。家康は関東へ移り、江戸を新たな本拠にします。

ここだけ覚える

  • 天正壬午の乱は、武田氏滅亡と本能寺の変の後に起きた旧武田領の争奪戦。「壬午」は年を表す干支で、天正の壬午年=1582年を指す(名前のつけ方は乱・変・役・陣の違いで解説)。
  • 家康、北条、上杉などが、甲斐・信濃をめぐって動いた。
  • 家康は和議を経て、甲斐・南信濃を手にする。
  • この拡大が、家康が東国の大大名になる大きな段階です。
  • 次は北条との関係が終わる小田原征伐と、家康の関東入封へ進むとつながります。

天正壬午の乱についてのよくある疑問

なぜ旧武田領が争いになったのか?

1582年3月に武田氏が滅び、信長が家臣を代官として置きましたが、6月の本能寺の変で織田の支配は崩れました。武田の旧臣や国衆くにしゅうが各地で動き、徳川・北条・上杉がそれぞれ旧武田領に手を伸ばしたため、一年にわたる争いになりました。

家康はなぜ北条氏に勝てたのか?

兵力では北条氏が上でしたが、家康は武田の旧臣を積極的に取り込み、真田昌幸さなだ まさゆきらの離反で北条方の信濃進出が止まったことなどが重なりました。決戦には至らず、和睦で家康が甲斐・信濃を確保しました。

真田昌幸はこの乱でどう動いたのか?

昌幸は武田滅亡後に織田、次いで北条、そして徳川と主を変え、最終的に家康に味方しました。和睦で上野の沼田を北条へ渡す条件が決まると昌幸は反発し、これがのちの第一次上田合戦(1585年)につながります。

天正壬午の乱は関東入封とどう関係するのか?

この乱で家康は5か国の大大名となり、秀吉に対抗できる数少ない勢力になりました。1590年の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、家康はこの5か国を手放して関東へ移ります。乱で得た領地を8年後に失う転封でしたが、石高は大きく増えました。

5問クイズ

Q1. 天正壬午の乱が起きた年は?

A. 1582年です。

Q2. 争いの対象になった、滅亡した大名家の旧領は?

A. 武田氏の旧領です。

Q3. 家康と旧武田領をめぐって対立した関東の大勢力は?

A. 北条氏です。

Q4. 家康が和議の後に得た地域は?

A. 甲斐・南信濃です。

Q5. この後、家康が新しい本拠を置く大きな転換は?

A. 1590年の関東入封です。

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参考にした資料