勝った家康は、何を手に入れたのか
関ヶ原の戦いで家康方が勝つと、豊臣政権の中で主導権を握る力関係は大きく変わります。家康は西軍側の大名を処分し、味方となった大名を各地に配置します。これは単なる恩賞や罰ではなく、徳川を中心に全国の軍事と領地の関係を組み直す仕事でした。
ただし、関ヶ原の後も豊臣秀頼は大坂城におり、豊臣家がすぐ消えたわけではありません。家康は戦後の大名配置で全国の力関係を組み直し、1603年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開きます。関ヶ原の勝利を政権に変えるには、この二つの段階が必要でした。
戦後処理によって、徳川を中心とする全国の力関係をつくります。
戦後処理で得た力を、征夷大将軍への任官で武家政権の中心として公に示しました。
大坂城の秀頼は残り、関ヶ原の勝利はまだ全国の決着ではありませんでした。
関ヶ原の勝利を、江戸の政権へ変える
- 011598年、秀吉が死去する
豊臣秀頼が幼いため、五大老・五奉行を中心とする体制が置かれます。家康と他の有力者の関係が、政権の行方を左右します。
- 021600年、東軍と西軍が全国で対立する
会津征伐をきっかけに、家康側と石田三成らの側が各地で動きます。関ヶ原は全国に広がった対立の中心となる戦いでした。
- 03関ヶ原で家康方が勝利する
1600年9月15日、東軍が勝利します。家康は、豊臣政権内で最も大きな軍事的・政治的な力を持つ存在になります。
- 04戦後の大名配置を組み替える
家康は西軍側の大名を処分し、東軍側の大名を配置します。関ヶ原の後に、徳川へ従う大名の配置が各地でつくられました。
- 051603年、家康が征夷大将軍になる
関ヶ原の勝利から3年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。戦後処理で得た力が、政権の形になった到達点です。
- 061605年、秀忠へ将軍職を譲る
家康は将軍職を秀忠に譲り、家康ルートのこの区間はここで区切りになります。なぜ2年で譲ったのか、将軍と大御所の関係は江戸幕府の成立で詳しくたどれます。
幕府成立を動かした人物
「関ヶ原で天下が決まった」だけで見ない
関ヶ原は家康の時代を決定づけた戦いですが、その一日で江戸幕府が完成したわけではありません。戦後の大名配置と将軍への任官を経て、勝利が政権の形へ置き換えられていきます。また大坂城の豊臣家は残り、戦国の終わりはさらに大坂の陣まで続きます。
読み解く三つのポイント
- 秀吉死後の体制を見る
幼い秀頼を支える体制の中で家康と三成らが対立したことが、関ヶ原の出発点です。
- 戦後の配置を見る
関ヶ原の意味は、戦場の勝敗だけでなく、その後の大名の置かれ方に表れます。
- 将軍職を見る
1603年の任官は、家康が全国の武家を束ねる立場に立ったことを示します。
参考にした資料
国立公文書館の公開資料を基に、関ヶ原から江戸幕府の成立までを整理しています。戦後の所領処分は長い時間をかけて進んだため、ここでは関ヶ原の勝利から将軍任官・秀忠への継承までの大きな流れを中心に扱っています。