要点
- 14歳で家督を継いだ。1526年、父・氏親が死去し、嫡男の氏輝が継いだ。氏親は死の直前に分国法「今川仮名目録」を定めている。
- 母・寿桂尼が後見した。氏輝が16歳になるまでの2年間、寿桂尼は自分の印を押した文書で政務を執った。「女戦国大名」と呼ばれる所以である。
- 北条氏と結び、武田氏と争った。成人後の氏輝は相模の北条氏綱と同盟し、甲斐の武田信虎と戦った。のちの義元とは逆の外交方針だった。
- 24歳で急死した。1536年、氏輝は急死。同じ日に弟の彦五郎も死んだと伝わるが、死因は分かっていない。
- 花倉の乱を招いた。氏輝の死後、弟の義元と玄広恵探が家督を争い、義元が勝った。今川氏の最盛期は、この乱のあとに来る。
何をした人物か
氏輝は今川氏親の嫡男として1513年に生まれました。氏親は遠江を平定し、1526年に分国法「今川仮名目録」を定めた当主で、その死の直後、氏輝は14歳で家督を継ぎます。若年の当主を支えたのは母の寿桂尼でした。寿桂尼は氏輝が16歳になるまでの2年間、自らの印を押した文書を出して政務を執っており、この時期の今川氏は事実上、寿桂尼が動かしていました。
成人した氏輝は、相模の北条氏綱と結び、甲斐の武田信虎と争いました。北条氏は氏親の母方の縁で今川氏と近く、氏輝はこの関係を重んじたとみられます。のちに義元が武田氏と結んで北条氏と対立するのとは、逆の方針でした。
1536年、氏輝は24歳で急死しました。同じ日に弟の彦五郎も死去したと伝わり、死因については病死とする見方が一般的ですが、確かめられていません。当主と次弟を同時に失った今川氏では、出家していた弟の義元と玄広恵探の間で家督争いが起き(花倉の乱)、義元が勝って家督を継ぎました。今川氏の最盛期は、この氏輝の早すぎる死のあとに訪れます。
年表で追う
- 011513年:誕生
今川氏親の嫡男として生まれる。
- 021526年:家督相続
父の死により14歳で当主に。寿桂尼が後見。
- 031528年ごろ:親政を始める
16歳で政務を執り始める。
- 041530年代:北条氏と結び武田氏と争う
北条氏綱と同盟し、武田信虎と戦う。
- 051536年:急死
24歳。弟の彦五郎も同日に死去と伝わる。花倉の乱へ。
氏輝を読むときに気をつけたいこと
- 死因は分かっていない。病死とする見方が一般的だが、兄弟が同日に死んだと伝わることから毒殺説も語られる。いずれも確かめられていない。
- 彦五郎の同日死は史料によって扱いが異なる。後世の記録によるもので、同時代の史料で確かめにくい。
- 氏輝の政治は寿桂尼の影に隠れやすい。後見期間は2年で、その後の氏輝自身の政務や外交は史料で確かめられる。氏輝を「母に操られた当主」とするのは一面的。