勢力ページ / 安房から東京湾をめぐって北条氏と争った家

里見氏さとみし

里見氏(里見家)は、房総半島の南半分を領した戦国大名の一族です。

里見氏とは?

里見氏は、安房を本拠に、東京湾をめぐって北条氏と四十年争い、豊臣政権のもとで安房一国を安堵され、1614年に伯耆ほうきへ移されて絶えた家。本拠の安房は今の千葉県南部で、稲村城いなむらじょう跡は館山市に、岡本城跡は南房総市にある。10代・約170年続き、江戸幕府ができたあとも外様大名として安房を保った。江戸時代の読み物『南総里見八犬伝』は、この家を題材にしている。

1508年、里見義通よしみちが安房で一番の神社である鶴谷八幡宮つるがやはちまんぐうを修造し、古河公方の代官を名乗る。1533年に始まる身内の争いを経て、家督は実尭さねたかの子・義堯よしたか(義尭とも書く)の系統へ移った。
1537年、義堯が北条氏綱ほうじょう うじつなと手を切る。1564年の国府台こうのだい合戦で大敗するが、1567年の三船山みふねやま(三舟山とも書く)の合戦で西上総を取り返した。
1590年、小田原へ参陣しながら上総を没収され、安房一国だけが残る。1614年に安房も没収されて伯耆へ移り、1622年に忠義ただよしが29歳で没して家は絶えた。

家のはじまり——出自は確かめられないが、安房で一番の神社を修造して国の主になった

安房は房総半島の先端にあり、三方を海に囲まれた小さな国である。里見氏がいつ、どこからこの国に入ったのかは、確かな史料では追えない。姿がはっきりするのは16世紀の初めからで、ここから里見氏は安房の主として振る舞いはじめる。

初代 里見義実よしざね——白浜城に本拠を構えたとされる

里見義実は、房総里見氏の初代として白浜城(今の南房総市)に本拠を構えたとされる。鎌倉公方足利持氏もちうじの近臣・家基の子とされる一方、美濃の里見家の出身とする見方もあり、生没年も未詳とされている。安房へ入った経緯を伝える話は残るが、確かめられる史料はない。

検証 里見成義しげよし——初代の次に置かれるが、実在が確かめられない

里見成義は初代義実の次に置かれるが、江戸時代の軍記物語や系図に名が見えるだけで、確実な史料が伝わらない。歴代へあとから挿入されたとも考えられている。里見氏を10代と数えるときは、この成義も一代に含めている。

特徴 当主が代わると、本城が動いた

里見氏は、当主が代わると本城を替えるのが特徴だった。南端の白浜城から始まり、安房の中央の稲村城、上総へ攻め上がるときは北の久留里城(今の君津市)と佐貫城(今の富津市)、海へ出るときは岡本城、最後は湊のある館山城(今の館山市)へと移っている。この本城の移動は、関東の政治・軍事情勢の推移を具体的に示すものとされている。

安房の主へ——公方の代官を名乗り、身内の争いで家督が移った

1508年 鶴谷八幡宮の修造——義通の名が、史料に現れる

里見義通は、1508年に安房国の総社(国じゅうの神々をまとめて祀る社)である鶴谷八幡宮を修造し、古河公方足利政氏まさうじの武運長久を祈った。義通の名が同時代の史料に現れる最初で、このとき義通は副帥ふくすい(公方の代官)を名乗っている。里見氏は以後も代々この社を直し、修復は計7回に及んだ。1508年・1572年・1602年の三枚の棟札むなふだが今も残る。

1533〜34年 天文の内訌——叔父を討った当主が、その子に滅ぼされた

里見義豊よしとよは、1533年に叔父の里見実尭と重臣の正木通綱まさきみちつなを殺害した。実尭は義通の弟で、金谷城かなやじょう(今の富津市)を拠点に水軍を動かしていたが、家督は継いでいない。義豊が討った理由は、確かな史料からは決められない。翌1534年、実尭の子の義堯が北条氏の支援を受けて義豊を滅ぼし、家督は実尭の系統へ移った。舞台になったのは、義通以来の居城の稲村城である。

北条氏との四十年——なぜ房総だけ、北条氏に飲み込まれなかったのか

里見氏と北条氏の間には東京湾があり、国境は陸ではなく海だった。里見氏はその海の通行を押さえ、北条氏と対立する越後の上杉氏や甲斐の武田氏と、相手を替えながら手を結び続けた。抗争は1537年に始まり、1577年の和睦まで続く。その前段は、1524年に北条氏が江戸城を取ったところまでさかのぼる。

前段 1524〜26年 品川攻撃——湾の争いは、手切れの前から始まっていた

北条氏綱が1524年に江戸城を攻め取ると、品川を含む東京湾の交通と物資の流れが北条氏の手に移った。1526年5月、真里谷まりやつ武田氏(上総中部の国衆)と里見氏の両軍が品川を攻撃する。里見氏と北条氏が正面から敵対するのはこの11年後だが、湾をめぐる争いはすでに始まっていた。

1537年 手切れ——支援を受けた相手と、袂を分かった

里見義堯は、天文の内訌では北条氏の支援を受けていた。ところが1537年5月、氏綱と手を切り、真里谷武田氏の内紛へ介入する。支援を受けた相手と袂を分かった理由は、史料では確定できない。ここから、北条氏との抗争が始まった。

1538年 国府台合戦——里見勢は前線におらず、無傷で帰った

1538年、小弓公方足利義明よしあきが国府台(今の千葉県市川市)で北条氏綱に敗れて討たれたとき、里見勢は前線におらず、無傷で帰還した。義堯は、討たれた義明の子を安房に引き取っている。

1540年代 上総へ——正木氏が、勝浦と小田喜を押さえた

義堯は義明の敗死のあと、上総に地盤を持つ小弓公方の直臣たちを足がかりに上総へ出ていく。1540年代には久留里くるり城と佐貫さぬき城を確保し、1542年に正木時忠ときただが勝浦、1544年ごろに正木時茂ときしげ小田喜おだき(のちの大多喜)を押さえた。正木氏は里見氏の重臣で、上総の東側はこの一族が握った。

上総をめぐる攻防——追われ、越後を呼び、負け、取り返した

1552〜54年 房州の逆乱——領内で反乱が起き、佐貫を追われた

北条氏康ほうじょう うじやすは1552年から、内房の正木氏や峯上みねがみ衆(内房の武士団)を動かして里見領内に反乱を起こさせた。義堯は佐貫城を追われ、内陸の久留里城へ本拠を移す。上総の南半分をめぐる争いは、ここから前線が動きはじめた。

1560〜61年 房越同盟——越後の上杉謙信を呼び、小田原へ攻め上がった

里見義堯は1560年に久留里城を包囲されると、小田喜の正木時茂を通じて越後の上杉謙信うえすぎ けんしんに関東への出陣を求めた。謙信が関東へ入ると包囲は解け、翌1561年の小田原包囲には義弘よしひろと時茂が加わっている。安房と越後を結んだこの関係を、房越同盟という。

1564年 国府台合戦——8千で2万を迎え撃ち、大敗した

里見義弘は1564年正月、8千の軍勢で国府台に陣を構え、北条氏康の軍およそ2万を迎え撃って大敗した。久留里・小糸・池和田の城が落ち、北条方の船が館山湾へ迫り、勝浦の正木時忠が北条方へ離反する。西上総は、ここで一度失われた。

1567年 三船山合戦——西上総を、ほぼ取り返した

北条氏政ほうじょう うじまさは1567年8月、佐貫城の北にある三船山(今の富津市)へ陣を布いた。里見義弘は佐貫城を本拠にこれと対陣し、氏政を破った。三年前に失った西上総を、里見氏はほぼ取り戻す。佐貫城はその後も義弘の居城であり続け、義弘の没後は子の梅王丸うめおうまるが入った。

海が国境だった——湾の通行を押さえ、村は双方へ年貢を納めた

1572・75年 海の通行証——商人と御師おしに、安全を保障した

里見氏は1572年12月、伊勢から来た御師(社寺の参詣を世話する者)の龍大夫りゅうだゆうに上総・下総までの、1575年12月には武蔵金沢の商人・山口越後守に安房海域の、海上の安全を保障する通行の許可証を出している。湾を通る船に安全を保障するこの役目は、もともと安房国が持っていたものを里見氏が引き継いだと考えられていて、湾の制海権は北条氏より強く握っていたとされる。

1576年 半手はんて——年貢を、敵味方の双方へ半分ずつ納める村があった

東京湾の沿岸には、1576年の本牧ほんもく郷(今の横浜市)のように、里見氏と北条氏の双方へ年貢を半分ずつ納めることで安全を買った村がある。これを半手という。本牧郷は里見氏へ半手を出すことを北条氏に承認してもらい、その見返りに本牧と木更津の間の輸送を命じられた。国境は一本の線ではなく、村ごとに割られていた。

抗争の終わり——同盟を組み替え、和睦し、そして身内で割れた

1569〜77年 相手を替える——謙信と断交し、信玄と結び、北条と和睦した

1569年、上杉謙信が北条氏と越相同盟(越後と相模の同盟)を結ぶ。謙信は里見氏にも北条との和睦を勧めたが、里見氏はこれを断って謙信と手を切り、駿河で北条氏と対立していた武田信玄たけだ しんげんと結んだ(房甲同盟)。1574年に義堯が没し、家は義弘の代になる。1577年には義弘が北条氏政と和睦し、義頼よしよりの正室に氏政の娘を迎えた。1537年の手切れから続いた抗争は、ここで終わった。

1578〜81年 天正の内乱——上総と安房が割れ、義頼が一円を握った

里見義弘が1578年に没すると、上総を継いだ梅王丸と、安房を継いだ義頼が対立した。義頼は1580年に佐貫城を落として梅王丸を岡本城(今の南房総市)に幽閉し、翌1581年には小田喜の正木憲時のりときを滅ぼす。梅王丸は剃髪させられ、淳泰じゅんたいと名乗って1622年に没したとされる。北条氏と和睦した直後の内輪の争いを経て、里見氏は安房と上総をまとめて治める形になった。

天下人の下で——安房一国は残ったのに、なぜ家は絶えたのか

安房は、江戸へ入る海路の入口にあたる。北条氏との抗争が終わったあと、里見氏は豊臣政権に早く従い、小田原へも参陣している。それでも1590年に上総を取り上げられ、その24年後には安房も失った。

1585年 服属——義頼が、秀吉のもとへ使者を送った

里見義頼は1585年、惣無事令そうぶじれい(大名同士の私戦を禁じた秀吉の命令)に応じて秀吉のもとへ使者を送り、太刀と黄金三十両などを進上した。取次は増田長盛ましたながもり(のちの五奉行の一人)が務めている。1587年に跡を継いだ義康よしやすも、翌年に進物を送った。

1590年 上総没収——参陣したのに、私闘とみなされた

里見義康は1590年、房総と相模へ兵を出し、小田原を見下ろす石垣山の本陣へ参陣した。ところが、本来は秀吉が出すべき禁制きんぜい(乱暴を禁じる立札)を義康が自分で出していたため、その出兵は私闘とみなされ、惣無事令違反として上総を没収される。同じことをした結城晴朝はるとも(下総結城の大名)は処分されておらず、なぜ里見氏だけが処分されたのかは史料では確定できない。

1590年8月 宇都宮——安房一国だけが、残った

里見義康は1590年8月上旬、宇都宮で秀吉と会い、上総の家臣を安房へ移すことを命じられた。上総を失う代わりに、安房一国は事実上安堵される。上総には徳川家の家臣が入り、里見氏の領国は房総半島の南半分だけになった。

1591年 館山城へ——軍事の城から、湊の城へ移った

里見義康は1591年6月から11月にかけて、本城を岡本城から館山城へ移した。岡本城は城内に港を持つ「海の城」で、水軍の根拠地だった。館山には高の島湊たかのしまみなと(西風を防ぐ平安時代からの良港)があり、陸の道も集まる。標高65.7メートルの山に築いた城の麓に作られた城下町が、今の館山市の基礎になった。

豊臣と徳川のもとで——検地で家臣の足元が変わり、宇都宮への出陣の恩賞で12万石になった

1597年 太閤検地——安房は、約9万1千石とされた

1597年秋、増田長盛ました ながもりを奉行として安房国222か村で太閤検地が行われ、安房は約9万1千石とされた。家臣の所領は先祖伝来の土地から切り離され、在地の領主としての独立性が弱まる。里見氏の家臣団は、この検地を境に性格が変わった。

1600〜01年 12万石——宇都宮へ出陣し、城下に商人を集めた

里見義康は1600年、結城秀康ゆうき ひでやすに従って宇都宮へ出陣し、その恩賞として常陸鹿島で3万石を加えられ、あわせて12万石の大名になった。翌1601年には館山の城下で新井町以外での取引を禁じ、商人を城下に集めている。1606年には入港税を免除して、湊の町を育てた。

1614年——江戸城で国替えを告げられ、九日後に城が壊された

9月9日 通告——「立て篭もれば攻め殺す」

里見忠義は1614年9月9日、江戸城へ出仕したところで、老中の使者から国替えを言い渡された。理由は、妻の祖父である大久保忠隣に連座したこと。ほかに、忠隣へ米や足軽を送った、館山城を堅固にした、家臣を多く抱えすぎている、という三箇条も伝えられている。条件は、おとなしく出ていくなら当面は常陸鹿島へ移れ、館山城に立て篭もるなら攻め殺す、というものだった。

9月18日 館山城の破却——御殿は壊され、堀は埋められた

館山城は1614年9月18日、受取りの軍勢に接収された。軍勢が安房へ到着したのは、その二日前の16日である。御殿は壊されて堀に捨てられ、堀は埋められる。館山市出野尾には、城の明け渡しを無念に思った13人が自害したという十三騎塚じゅうさんきづかの伝承が残るが、日付など確かなことは分からない。

背景 改易のねらい——大坂へ向かう軍勢の、通り道だった

館山城を受け取った軍勢は、1614年9月のうちに一部がそのまま小田原城の在番へ回り、残りは大坂へ向かった。秀忠は江戸を発つとき、館山に残した部将へ安房の押さえを命じている。10月に家康が大坂への出陣を命じ、11月には大坂冬の陣が始まった。江戸へ入る海路の入口にある安房から大きな外様大名を動かしておくことが、大坂との合戦をひかえた幕府の事情だったと考えられている。

伯耆で絶える——渡されたのは四千石余、二十九歳で没した

1614〜17年 倉吉くらよしへ——3万石のはずが、4千石余だった

里見忠義は1614年、安房の替地として常陸行方なめかた郡を示された。先に伝えられた鹿島は1600年に加増された自分の領地で、行方郡へ入るまでの当面の移り先である。妻子と家臣が鹿島まで進んだところで、忠義がその行方郡を拒み、鹿島の3万石も取り上げられた。替地は伯耆国久米郡・河村郡(今の鳥取県中部)の3万石になり、実際に渡されたのは4千石余りでしかない。1617年に池田光政いけだみつまさ(鳥取藩主)が入部すると監視下に置かれ、4千石も召し上げられて百人扶持になった。

1616年 伯耆の棟札——流された先で、八幡宮を修造した

里見忠義は1616年、伯耆国北条郷の八幡宮を修造した。里見氏は義通以来、安房の鶴谷八幡宮を代々修復してきた。忠義はそれを安房で果たせないまま移されている。このときの棟札は、今も北栄町の保護文化財として残る。倉吉での8年間に、忠義は居所を3か所替えている。

1622年 断絶——29歳で没し、家臣が後を追った

里見忠義は1622年6月19日、29歳で病死した。幕府は跡継ぎがいないという理由で、里見家の断絶を言い渡す。3か月後の9月19日、家臣たちが後を追って死んだ。倉吉の大岳院だいがくいんにある忠義の墓所には8人が葬られ、位牌では7人とされていて、この家臣たちは「八賢士はっけんし」と呼ばれている。

その後 二つの里見家——大名として絶えたあとも、幕末まで続いた

忠義には側室の子がいたとされ、その系統は、越前鯖江さばえ藩の間部まなべ家に仕える御中老おんちゅうろう(家禄350石)と、150俵の旗本として幕末まで続いた。鯖江の里見義孝よしたかは安房の寺と倉吉の大岳院を繰り返し訪ね、位牌を納め、系図を集めている。1908年に安房で里見氏の墳墓が整えられたときに使われた石材も、義孝が江戸から送って残されていたものだった。

当主の流れ——10代・約170年を、名前で追う

ここまでの三つの章に出てきた当主を、順に並べておく。義堯の父の実尭は家督を継いでいないので、この表には入れていない。番号は、資料のあいだで数え方が一致している四人にだけ添えた。その実尭を代に数えるか、成義を実在と見るかで数え方が割れるため、ほかの当主には番号を付けていない。

当主一言解説
里見義実白浜城(今の南房総市)にいたとされる。安房へ入った経緯も生没年も分からない。
里見成義義実の次に置かれるが、実在を確かめられる史料がない。
里見義通3代。稲村城(今の館山市)を居城とした。
里見義豊義通の子。天文の内訌で滅び、家督は実尭の系統へ移った。
里見義堯実尭の子。久留里城(今の君津市)を本拠に、68歳で没した。
里見義弘義堯の子。佐貫城(今の富津市)を居城とし、54歳で没した。
里見梅王丸義弘の子。上総を継いだが、義頼との争いに敗れた。
里見義頼8代。岡本城(今の南房総市)を本城に、安房と上総をまとめて治めた。
里見義康9代。館山城(今の館山市)へ本城を移した。31歳で没した。
里見忠義10代。10歳で家督を継ぎ、伯耆倉吉へ移されて29歳で没した。

里見氏の疑問に答える

『南総里見八犬伝』は、どこまで史実?

物語そのものは江戸時代の創作になる。1814年に刊行が始まった曲亭馬琴きょくていばきん(江戸の読本作者)の読み物で、序文には、夢のなかで旅の僧から里見八犬士の話を聞き、『里見記』『房総治乱記』などの資料と『水滸伝』『三国志演義』を参考に書いた、と記されている。史実の里見氏は安房の戦国大名で、八犬士も伏姫ふせひめも同時代の史料には出てこない。

里見氏の水軍は、本当にあった?

軍記物が伝える水軍と、文書で確かめられる海の力は、分けて読む必要がある。「水軍を編成して相模へ攻め込んだ」という話は『里見氏代々記』『房総里見軍記』などの軍記物によるもので、同時代の史料では確かめられない。一方、文書で確かめられるのは、里見氏が商人や御師に海上通行の許可証を出していたこと、岡本城が城内に港を持つ城だったことである。

里見氏は、何代続いた?

10代と数えるのが一般的だが、数え方は資料によって分かれる。成義は確実な史料が伝わらず、家督を継がなかった実尭を代に数えるかどうかでも言い方が変わる。「里見氏は義堯以降の五代」と数える見方もある。

里見氏の跡は、今どこに残っている?

本拠の跡は安房に、終わりの跡は伯耆に残る。稲村城跡(館山市)と岡本城跡(南房総市)は2012年に「里見氏城跡」として国の史跡に指定された。稲村城跡は主郭に高さ約3メートルの土塁が残るが、その多くは私有地で、見学路以外へは入れない。車は道の駅グリーンファーム館山に停める。館山城跡は城山公園として整備されているが、山頂は太平洋戦争のときに高射砲陣地として7メートル削られている。久留里城には1978年に天守閣が復元された。倉吉には忠義の墓所のある大岳院、屋敷跡、井戸跡が残り、伯耆で修造した八幡宮の棟札は北栄町に伝わる。

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参考にした資料