事件ページ / 1487〜1505年・相模と武蔵

長享の乱ちょうきょうのらん

長享の乱とは?

1487年、関東管領かんとうかんれい山内やまのうち上杉家と分家の扇谷おうぎがやつ上杉家が戦端を開き、18年争って1505年に扇谷が降伏して終わった内戦。

主な戦場は相模さがみと武蔵、今の神奈川県伊勢原市・厚木市と、埼玉県の比企ひき地方だった。

1487年(長享ちょうきょう元年)閏11月、山内上杉家と扇谷上杉家が下野しもつけで戦端を開きます。
1488年2月5日、上杉顕定あきさだが相模の糟屋かすやへ攻め込み、七沢城ななさわじょうを落とします。河越城かわごえじょうから駆けつけた上杉定正さだまさが、実蒔原さねまきはらでこれを破りました。
1488年6月18日、戦場は武蔵の比企へ移ります。須賀谷原すがやはらの戦いは決着がつかず、同じ年、北西の高見原たかみはらでも両者が戦いました。
1491年12月、両家が和睦して戦いが止まります。1494年7月に抗争が再発し、その年のうちに定正が急死しました。
1504年9月、両上杉が武蔵の立河原たちかわらで会戦します。伊勢宗瑞いせそうずいが駿河の今川氏親うじちかとともに扇谷方に加わり、扇谷方が大勝しました。
1505年3月、上杉顕定が扇谷上杉家の本拠・河越城を囲みます。上杉朝良ともよしが降伏して、乱が終わりました。

開戦——道灌を失った扇谷と、本家の山内が下野で戦端を開いた

1486年(文明18年)7月26日、扇谷上杉家の当主・上杉定正が、家宰かさい(当主を支える筆頭家臣)の太田道灌どうかんを相模の糟屋かすや(今の神奈川県伊勢原市)へ招いて殺した。江戸城は定正に接収され、道灌の子は甲斐かいへ逃れて、扇谷上杉家の家中は大きく揺れた。1482年に終わった享徳の乱きょうとくのらんを同じ側で戦い抜いた本家、山内上杉家の当主・上杉顕定から見れば、分家を圧服する好機だった。

誰が、どこから、誰と組んで戦ったか山内上杉家(関東管領を継ぐ本家)扇谷上杉家(並び立った分家)
当主上杉顕定。越後の上杉家から山内上杉家に入り、1466年に関東管領となった上杉定正。1494年に急死し、上杉朝良が跡を継いだ
本拠上野の平井城ひらいじょう(今の群馬県藤岡市)と、武蔵の鉢形城はちがたじょう(今の埼玉県寄居町)武蔵の河越城(今の埼玉県川越市)と、相模の糟屋館かすややかた(今の神奈川県伊勢原市)
味方顕定の生家である越後の上杉家、太田資康すけやす、武蔵千葉氏の千葉自胤よりたね、相模から来た三浦道寸みうらどうすん古河公方の足利政氏まさうじ、長尾景春かげはる、伊勢宗瑞、駿河の今川氏親うじちか

1487年閏11月 下野で戦端が開かれた

山内上杉家と扇谷上杉家は1487年(長享元年)閏11月、下野(今の栃木県)で戦端を開いた。戦いは北関東で始まり、翌年には相模の糟屋まで及ぶ。なぜ下野だったのか、どちらが先に兵を出したのかは、史料では確定できない。

陣営 道灌の子は山内方、山内に背いた景春は扇谷方

道灌の子・太田資康は、父を殺した扇谷上杉家を離れ、鉢形城の山内方に付いた。扇谷方にいた武蔵千葉氏の千葉自胤も、同じく山内方へ移っている。反対に、十年前に山内上杉家へ反乱を起こした長尾景春ながお かげはると、その景春を受け入れた古河公方の足利政氏は、河越城の扇谷方と結んだ。長尾景春の乱の敵味方が、そのまま裏返った形になる。資康や景春がなぜこの側を選んだのかは、史料では確定できない。

実蒔原——相模へ攻め込んだ顕定を、駆けつけた定正が押し返した

開戦から二か月あまり、最初の大きな戦いは相模で起きた。扇谷上杉家にとっての相模の拠点は、道灌が殺された糟屋の館である。ここは扇谷上杉家が相模を治めるための役所(守護所しゅごしょ)を置いた土地で、館の北を七沢城(今の神奈川県厚木市の城)が守っていた。1488年(長享2年)2月5日、顕定は相模へ入り、まずこの七沢城を攻めた。

山内方 顕定が糟屋へ押し寄せ、七沢城を落とした

上杉顕定は1488年2月5日、養子の上杉憲房のりふさとともに相模の糟屋へ押し寄せた。軍勢は千余りだったと伝わる。山内勢はまず糟屋館の北を守る七沢城を攻め、定正の兄・上杉朝昌ともまさを退けて城を落とした。

扇谷方 定正が河越城から駆けつけ、数の差を覆した

上杉定正は急を聞いて、武蔵の河越城から二百余騎で相模へ向かい、一日一夜で駆けつけたと伝わる。七沢城と糟屋館のあいだにあたる実蒔原(今の神奈川県伊勢原市・厚木市)で山内勢とぶつかり、地形を知り尽くした戦い方で、数に勝る顕定の軍を破った。戦いのさまは「原野血に染まって野草緑を替えにける」と伝わる。ただし定正自身は書状で、かろうじて勝ったと述べている。

須賀谷原——戦場が武蔵へ移り、決着がつかないまま比企でもう一度戦った

相模で押し返された顕定は、四か月後、扇谷上杉家の本拠そのものへ兵を向けた。河越城へ至る道は比企の丘陵を抜けており、その途中に須賀谷原(今の埼玉県比企郡嵐山町の原)が広がる。すげの生い茂る原という意味の地名で、一帯には菅谷館すがやかた(今の嵐山町にある中世の館の跡)もあった。

1488年6月18日 顕定が河越城を目指して進んだ

上杉顕定は1488年(長享2年)6月18日、河越城の扇谷上杉家を攻めるため須賀谷原へ進んだ。山内方が陣を置いたのは、原の西の谷あいにあった平沢寺へいたくじ(今の嵐山町平沢に跡が残る)である。迎え撃つ扇谷方がどこに陣を構えたのかは、はっきりしない。

戦死者七百 押し返され、決着のつかないまま両軍が退いた

両軍は1488年6月18日、須賀谷原で正面からぶつかった。記録によれば、この一日で戦死者は七百人、倒れた馬は数百に及ぶ激戦だった。当初は優勢に攻めていた山内方が定正の率いる扇谷勢に押し返され、決着のつかないまま両軍とも兵を退いている。顕定は、相模に続いて武蔵でも扇谷の本拠に届かなかった。

詩歌会 激戦の直後、山内方の陣で歌の会が開かれた

須賀谷原の戦いの直後、山内方の陣で詩歌会が開かれた。招かれたのは、江戸城で道灌に迎えられて暮らしていた美濃の禅僧・万里集九ばんりしゅうく(漢詩をよくした僧)で、集九は道灌の訃報に接して美濃へ帰る途中、山内方として陣を張る太田資康を訪ねていた。会が開かれたのは平沢の白山神社はくさんじんじゃの社頭で、鉢形城から来た上杉顕定と、相模から援軍に来ていた三浦道寸(相模の武将)も加わっている。集九は、敵の陣と向かい合ったまま風雅を語り合うようなことは西国では見られない、と書き残した。

1488年・高見原 鎌倉街道の原でも、顕定の軍が敗走した

上杉顕定と上杉定正は同じ1488年、須賀谷原の北西にある高見原(今の埼玉県比企郡小川町の原)でも戦っている。高見原には鎌倉街道が通り、原を見下ろす四津山よつやまの頂には高見城たかみじょうが築かれていた。この城は山内方の属城だったとする説が有力で、戦いでは顕定の軍が敗走した。

休戦——二年半の和睦をはさみ、再発の年に定正が急死した

開戦から四年で、両家はいったん和睦している。1488年に三度戦っても、相模でも武蔵でも決着はつかず、どちらの家も相手を倒しきれなかった。

1491年12月 和睦して、戦いがいったん止まった

山内上杉家と扇谷上杉家は1491年(延徳えんとく3年)12月に和睦した。関東の主導権も、どの領主がどちらの家臣かという線引きも、定まらないままだった。この和睦から二年半ほど、両家の戦いは止まる。両家がなぜこのとき和睦し、二年半後になぜ再び戦い始めたのかは、史料では確定できない。

1494年7月 抗争が再発し、定正が荒川で落馬した

両家の抗争は1494年(明応めいおう3年)7月に再発した。上杉定正はこの年、伊勢宗瑞とともに山内上杉顕定を攻めようとして荒川を渡ろうとした際に落馬し、それがもとで急死した。開戦から七年、扇谷方をずっと率いてきた当主の突然の死だった。扇谷上杉家の家督は上杉朝良が継ぎ、戦いはそのまま続く。

立河原——扇谷が今川と伊勢の兵を得て、顕定の軍を破った

定正が没したあとも、両家の戦いは十年続いた。この十年のあいだに両家がどこで戦ったのかは、はっきりしない。1504年(永正えいしょう元年)9月、上杉顕定は江戸城を攻めるため、武蔵の白子しらこ(今の埼玉県和光市)に陣を置く。江戸城は道灌が築き、道灌の死後は扇谷上杉家が押さえていた城である。

山内方 顕定の側に古河公方が並んだ

1504年(永正元年)の出陣で、上杉顕定の側には古河公方の足利政氏が加わっていた。開戦のころ扇谷方に付いていた古河公方が、このときは山内方にいる。いつ、どのような経緯で立場を変えたのかは、史料では確定できない。

扇谷方 朝良の側に今川氏親と伊勢宗瑞が加わった

上杉朝良の側には、駿河の今川氏親いまがわ うじちかと伊勢宗瑞が加わった。宗瑞は定正の代から扇谷方に付いている。朝良は、この二家から兵を得て武蔵へ出た。

1504年9月 立河原で扇谷方が勝った

両軍は1504年(永正元年)9月、武蔵の立河原(今の東京都立川市)で会戦した。扇谷上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞の連合軍が、上杉顕定と古河公方の軍を破って大勝する。立河原では1455年の享徳の乱でも戦いがあり、この1504年の戦いは第二次立河原の合戦とも呼ばれる。

河越城——越後の援軍を得た顕定が、扇谷の本拠を囲んだ

立河原で勝ったのは扇谷上杉家だった。それでも半年後の1505年(永正2年)3月、扇谷上杉家は降伏している。

越後の援軍 顕定が生家の兵を関東へ呼んだ

上杉顕定は1505年(永正2年)、生家である越後の上杉家から援軍を得た。顕定は越後上杉家から山内上杉家へ入った養子だった。立河原の敗戦から半年で、顕定は攻める側に戻った。

1505年3月 扇谷の本拠・河越城を囲んだ

上杉顕定は1505年(永正2年)3月、扇谷上杉家の本拠である河越城を攻め囲んだ。越後の援軍を加えた山内勢は、1488年には届かなかった扇谷の本城まで攻め上っている。城の中には、定正の跡を継いだ上杉朝良がいた。

降伏 朝良が降り、長享の乱が終わった

上杉朝良は1505年(永正2年)3月、河越城を囲まれて顕定に降伏した。1487年閏11月の開戦から十八年、二年半の休戦をはさんで続いた長享の乱は、これで終わっている。

長享の乱が残したもの——実質を失った関東管領、なお続いた分裂、比企に残った城、乱の外で伸びた伊勢宗瑞

この内戦に勝ったのは、山内上杉家だった。両家が争ったのは、関東管領の座と関東の主導権に加えて、どの領主をどちらの家臣として組み込むかだった。享徳の乱と長尾景春の乱で削がれた山内上杉家の勢力範囲へ扇谷上杉家が食い込んでおり、その線引きが決まらないまま戦いは長引いた。

関東管領 役職としての実質が失われ、領国が二つに分かれた

長享の乱のあと、山内上杉家が継ぐ関東管領は、関東を統治する役職としての実質を失った。両上杉家は、関東全体をまとめる立場から、それぞれの支配領域を持つ戦国大名へと姿を変えていく。乱を通じて山内上杉家の領国は武蔵北部から上野に、扇谷上杉家の領国は武蔵南部に定まっており、関東管領の座をめぐる争いは、関東を二つに分ける線引きに落ち着いたことになる。

乱のあと 分裂と抗争は、これで終わらなかった

乱が終わった翌1506年(永正3年)、古河公方の足利政氏と嫡子が争い始めた(永正の乱えいしょうのらん)。山内上杉家もこの争いのなかで分裂し、上杉顕定は1509年に越後へ出兵して、翌1510年に長森原ながもりはら(越後の原)で討たれている。扇谷が降伏して乱は終わったが、関東の支配層の分裂と抗争はそのあとも続いた。

比企の城 戦場になった丘陵に、城と館の跡が残った

長享の乱は、武蔵の比企(今の埼玉県比企郡)に城と館の跡を残した。菅谷館は、須賀谷原の戦いのときにはすでに築かれていたと考えられている。近くの杉山城すぎやまじょう(今の嵐山町の山城)は、乱のあとに山内上杉家が扇谷上杉家へ対抗するため造った城である可能性が高いとされる。

伊勢宗瑞 乱の間に伊豆へ討ち入り、小田原城を奪った

伊勢宗瑞は、両上杉が争っているあいだに関東の南へ足場を築いた。1493年(明応2年)に駿河から伊豆へ討ち入って堀越公方ほりごえくぼうの御所を襲い、韮山城にらやまじょうを築く。1495年(明応4年)9月には相模の小田原城を奪った。長享の乱では扇谷上杉家と結んだ側で、この同盟は1509年(永正6年)まで続いた。

長享の乱の疑問に答える

なぜ「長享」の乱と呼ぶ?

戦端が開かれた1487年の元号「長享」から取られている。享徳の乱や応仁の乱と同じ、元号に乱を付けた事件名になる(乱・変・役・陣の違い)。資料によっては「長享の大乱」とも書かれる。

加賀の「長享の一揆」と同じもの?

別の事件になる。加賀(今の石川県)では1488年、守護の富樫政親とがしまさちか門徒国衆くにしゅう(地元の有力武士)に攻められて高尾城たかおじょうで自害しており、これを長享の一揆と呼ぶ。同じ元号の年に、関東と加賀で別々に起きた出来事である。加賀の側は加賀一向一揆で扱っている。

今のどこで戦っていた?

相模と武蔵、今の神奈川県・埼玉県・東京都にまたがる。実蒔原は神奈川県伊勢原市と厚木市、七沢城は厚木市、須賀谷原は埼玉県比企郡嵐山町、高見原は同じ比企郡の小川町、立河原は東京都立川市になる。

現地に何が残っている?

合戦の地と、両家の城の跡が残る。

神奈川県伊勢原市実蒔原古戦場が市指定の史跡になっている。
埼玉県比企郡嵐山町山内方が陣を置いた旧平沢寺跡が県の重要遺跡で、本堂のほか不動堂・白山社・経塚きょうづか・井戸・湧水池が残る。詩歌会の場には太田資康詩歌会跡の碑(県指定旧跡)が立つ。菅谷館跡は国指定史跡「比企城館跡群」になっている。
埼玉県比企郡小川町高見原を見下ろす高見城跡(四津山城跡)が県指定史跡。
東京都立川市立河原の戦死者を供養したと伝わる銅鉦鼓どうしょうこが、都指定有形文化財として残る。
埼玉県川越市河越城跡が県指定記念物。今ある本丸御殿は江戸時代のものになる。
埼玉県寄居町・群馬県藤岡市顕定が拠った鉢形城跡が国指定史跡、山内上杉家の平井城跡が県指定史跡。

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参考にした資料