人物ページ / 1454年〜1510年・関東管領

上杉顕定うえすぎあきさだ

上杉顕定とは?

越後上杉家から山内上杉家に養子として迎えられ、1466年から44年間関東管領を務め、1510年に生家の越後で長尾為景ためかげに敗れて討死した武将。

関東管領は鎌倉公方かまくらくぼうを補佐し、東日本の各国の守護へ幕府の指示を伝える役職である。顕定のころの公方は鎌倉を追われて下総の古河におり、古河公方と呼ばれた。顕定が本拠にしたのは武蔵の鉢形城(今の埼玉県寄居町)だった。

1454年、越後守護・上杉房定ふささだの二男として越後に生まれます。1466年、山内上杉家の当主が跡継ぎを残さず陣中で死に、その家督を継いで関東管領になりました。
顕定が生まれた年に始まった古河公方との戦争を、武蔵の五十子いかっこに置かれた本陣で、そのまま引き継ぎます。1471年に一度は古河城を落としますが、翌年奪い返されました。
1474年、家宰かさいの職を長尾景春でなく叔父の忠景ただかげに与えます。1477年正月に本陣を攻め落とされて上野へ敗走し、1478年7月に武蔵へ戻り、1480年5月に自ら秩父へ出て乱を終わらせました。
1478年に入った鉢形城を、死ぬまで32年の本拠にします。1478年正月には古河公方と和睦し、1482年には幕府と古河公方の和睦も成立しました。
1487年から分家の扇谷上杉家と争います。相模と武蔵で二度大きく敗れましたが、1505年、生家の援軍を得て河越城を囲み、降伏させました。
1509年、実弟の仇を討つと称して越後へ出陣します。いったんは越後の大半を平定しますが押し返され、1510年6月20日、敗走の途中で討たれました。

顕定が戦った四つの内戦

内戦(顕定が関わった年)相手
享徳の乱(1466〜1482年)古河公方 足利成氏
長尾景春の乱(1477〜1480年)家臣 長尾景春
長享の乱(1487〜1505年)分家 扇谷上杉家
永正の乱・越後(1509〜1510年)越後守護代 長尾為景

越後から来た養子——将軍の説得で、越後守護の二男が山内上杉家を継いだ

上杉顕定は1454年、越後守護・上杉房定の二男として越後に生まれた。1466年、武蔵の五十子(今の埼玉県本庄市)の陣中で、山内上杉家の当主・上杉房顕ふさあきが急死する。房顕に嫡男はなく、幕府が顕定を関東管領に任じたのは、同じ年の6月のことである。

越後上杉家 生家は、山内上杉家と同じ一門だった

顕定の生家である越後上杉家は、山内上杉家と同じ上杉一門で、越後の守護を代々務めた家である。顕定の実父・房定は越後守護で、弟の房能もその跡を継いだ。この生家は、のちに顕定が分家との内戦で援軍を頼む相手であり、顕定が最後に討たれる国でもある。

1466年 縁組をためらった父を、将軍と京都の管領が説得した

実父の房定は、1466年のこの縁組に当初同意しかねていた。房顕の急死のあと、将軍・足利義政あしかが よしまさと、京都で管領を務めた畠山政長まさなが細川勝元ほそかわ かつもとが、越後守護の房定に対し、子息の一人に関東管領上杉家を継がせるよう再三説得している。房定が同意に至ったのは、最終的に将軍の命を受けてのことだった。

擁立 縁組を主導したのは、のちに反乱する家だった

顕定を越後から山内上杉家へ迎える縁組を主導したのは、家宰(当主に代わって家の政務と軍事を取り仕切る筆頭家臣)の長尾景信かげのぶである。家の決定は事実上この職が判断しており、顕定は、自分を担いだ景信の家に頭が上がらない立場から、関東管領を始めることになった。

五十子の陣——生まれた年に始まった戦争を、そのまま引き継いだ

顕定が生まれた1454年、鎌倉公方の足利成氏が関東管領・上杉憲忠のりただを殺し、関東は成氏方と上杉方に割れた(享徳の乱)。上杉方は五十子に本陣を置き、下総の古河へ移った成氏と利根川を挟んで対峙する。顕定を関東管領に任じた1466年6月、幕府は同時に、関東と奥羽の諸将へ成氏を討つよう命じている。就任した時点で、この戦争は12年目に入っていた。

1471年6月 古河城を一度は落とし、翌年奪い返された

1471年6月、家宰・長尾景信の率いる幕府・上杉方の軍が成氏の本拠・古河城を攻略し、成氏は千葉へ逃れた。ところが翌1472年2月、成氏は古河城を奪い返す。この前後、上野や下野の各地で戦った武将が、軍功を顕定から賞されている。

平井城 1469年に上野の平井城に拠ったという記録がある

顕定が1469年に上野の平井城ひらいじょう(今の群馬県藤岡市)を築いて立て籠もり、成氏としばしば合戦に及んだ、と後世の記録は伝える。ただし平井城については、1438年に上杉憲実のりざねが家臣に築かせたという別の伝えもあり、築城の時期と主体は定まっていない。

1473年6月 家宰・長尾景信が、陣中で死んだ

1473年6月、家宰の長尾景信が五十子の陣中で死んだ。景信は顕定を迎える縁組を主導した人物で、就任からの7年間、上杉方の軍事を実際に率いていたのはこの家宰である。

家宰を代えた——自分を擁立した家から、職を取り上げた

景信の跡目を継いだのは、嫡男の長尾景春ではなく、景信の弟の長尾忠景だった。忠景が正式に家宰へ就いたのは1474年12月までのことで、景信の死から1年半が過ぎている。この1年半、忠景方と景春方は綱引きを続けていた。

二代の家宰 勢力を削ぐためという見方はあるが、理由は確定できない

景春の家は、祖父の長尾景仲かげなか、父の景信と二代続けて家宰と上野守護代を兼ね、その勢力は主家の山内上杉家から見て看過できないものになっていた。顕定が1474年、同じ長尾氏の別の家から忠景を選んだのは、この勢力を削ぐ動きだったとする見方がある。ただし顕定が忠景を選んだ理由そのものは、史料では確定できない。

1477年正月 本陣を落とされ、上野へ退いた

1477年正月、家宰の職を得られなかった景春が五十子陣を攻めた(長尾景春の乱)。顕定は1475年ごろ、景春が謀反を企てていると太田道灌から注進を受けていたが、忠景とともにこれを相手にしなかった。在陣していた顕定と忠景、扇谷上杉家の当主・上杉定正さだまさは上野へ敗走し、20年近く上杉方の前線だった五十子陣は崩壊する。顕定が武蔵へ戻れたのは、1年半後の1478年7月だった。

1480年5月 自ら秩父へ出て、乱を終わらせた

1480年5月、顕定は自ら秩父郡へ進軍した。1477年正月の蜂起から3年余りで、乱は終わる。家宰の職を代えた1474年の判断から数えれば、6年が過ぎていた。

鉢形様——荒川の断崖に本拠を移し、成氏との戦争が終わった

顕定が入った鉢形城は、1476年に景春が築いたと伝わる城で、荒川と深沢川に挟まれた断崖の上にあり、上州と信州の方面を望む交通の要所だった。以後、顕定は鉢形を本拠にしている殿様という意味で「鉢形様」と呼ばれるようになる。本拠を移した1478年は、顕定が12年戦い続けた古河公方と和睦した年でもあった。

道灌の献策 武蔵と上野を治める場所として、道灌が薦めた

顕定が鉢形城を本拠にしたのは、太田道灌が薦めたためである。道灌は、この先の山内上杉家が武蔵と上野の両国を支配することを前提に、今ある軍事拠点の中では五十子ではなく鉢形が適当だと判断した。前年に五十子陣を落とされた上杉方には、武蔵に本拠がなかった。

1478年正月 12年戦った成氏と、和睦した

顕定は1478年正月、幕府との和睦を仲介することを条件に、古河公方・足利成氏と和睦した。景春の乱で山内上杉家の内部は割れ、勢力は弱まっていた。和睦の翌年、成氏は家臣に対し、顕定に協力して武蔵の忍城おしじょうを防備するよう命じている。

1482年11月 28年続いた戦争を終わらせたのは、顕定の実父だった

1480年から成氏は幕府との和睦交渉に乗り出したが、本来この交渉を取り持つはずの顕定は動かなかった。成氏の弟が江戸城の太田道灌のもとまで乗り込んできたことを道灌が知らせても、顕定は返事も出していない。そこで成氏は、上杉方の中心人物である顕定の実父・越後上杉房定に仲介を依頼する。1482年11月、幕府と古河公方の和睦(都鄙合体とひがったい)が成立し、享徳の乱が終わった。仲介者は越後上杉氏だった。

32年 死ぬまでここにいて、京の詩僧が城を書き残した

顕定は1478年から亡くなる1510年までの32年間、鉢形城を拠点とした。入城から10年後の1488年、太田道灌の死を受けて東国を去る途中の京の詩僧・万里集九ばんりしゅうきゅうが、鉢形城を訪ねて一泊している。城を出て上野へ向かうときに作った詩には「鉢形の城すなわち関東管領上杉顕定守る所也」という前書きがあり、城は鳥もうかがい難しと詠まれた。顕定が入ってから10年で、鉢形城は関東管領の居城として堅固な城になっていた。

検証・発掘 顕定の時代の遺物が、三の曲輪まで出た

鉢形城跡では1997年から2001年にかけて、二の曲輪くるわ(城の中の区画)と三の曲輪の発掘調査が行われ、どちらからも1400年代後半から1500年代前半までの遺物が出土した。調査の前は、本曲輪以外の大部分は北条氏の時代に広げられたものと考えられていたが、関東管領上杉氏の時代に少なくとも三の曲輪までは広がっていたことが確認されている。三の曲輪からは1400年代後半の素焼きの香炉も出ている。

分家との18年——実家の兵を呼んで、ようやく決着をつけた

1486年7月26日、扇谷上杉家の当主・上杉定正が、家宰の太田道灌を相模の糟屋かすや(今の神奈川県伊勢原市)の館で殺した。翌1487年閏11月、山内上杉家と扇谷上杉家は戦端を開く(長享の乱)。この乱で山内方には顕定の生家の越後上杉氏が付き、扇谷方には古河公方が付いた。道灌の子・太田資康すけやすは父の主家を離れ、顕定の側に参陣している。

1488年2月5日 相模の実蒔原で、千余騎が二百余騎に敗れた

顕定は1488年2月5日、相模の糟屋庄へ千余りの軍勢を率いて押し寄せ、七沢城ななさわじょう(今の厚木市)を落とした。急を聞いた定正は河越城から二百余騎で駆けつけ、実蒔原さねまきはら(今の伊勢原市と厚木市のあたり)で迎え撃ったと伝わる。ここでかろうじて勝ったのは、定正のほうだった。顕定が総大将として自ら相模まで出た戦いだった。

1488年6月18日 須賀谷原では、決着がつかないまま軍を退いた

同じ1488年の6月18日、両上杉は武蔵の須賀谷原すがやはら(今の埼玉県嵐山町のあたり)で衝突した。当初は優勢に戦いを進めていた山内方だったが、定正の率いる扇谷勢に押し返され、決着のつかないまま軍を退いたとされる。戦死者は700人、倒れた馬も数百匹という激戦だったと伝わる。この年に顕定が家臣の戦功を賞して出した感状かんじょう(戦功をほめて主君が出す文書)からは、鉢形城を追われた景春が扇谷方として陣を張り、顕定に対抗していたことが分かる。

1491年12月 いったん和睦したが、3年後に再発した

1491年12月、山内上杉家と扇谷上杉家はいったん和睦した。しかし1494年7月に抗争が再発し、顕定が次に大きくぶつかるのは1504年の武蔵の戦場になる。

1504年9月 江戸城を攻めに出て、立河原で大敗した

顕定は1504年9月、扇谷上杉氏の江戸城を攻めるため白子しらこ(今の埼玉県和光市)に着陣した。同じ月、武蔵の立河原たちかわら(今の東京都立川市)で、山内上杉氏と古河公方の連合軍が、扇谷上杉氏・今川氏伊勢氏の連合軍と会戦し、扇谷方が大勝する。開戦のころ扇谷方に付いていた古河公方は、このときには山内方に回っていた。どの時点で入れ替わったのかは、史料では確定できない。

1505年3月 生家の援軍を得て、河越城の朝良を降伏させた

顕定は1505年3月、越後国守護の上杉氏の援軍を得て、扇谷上杉家の本拠・河越城を攻め囲んだ。当主の上杉朝良ともよしが降伏し、1487年から続いた長享の乱が終わる。

越後で死んだ——実弟の仇を討ちに行き、生家の国で敗れた

1507年、顕定の実弟で越後守護だった上杉房能が、守護代の長尾為景を主力とする同族の上杉定実さだざねに攻められ、自刃した。顕定はその仇を討つという大義のもと、2年後の1509年に越後へ乗り込む。関東管領が本国の関東を離れ、生まれた国で戦うことになった。

1509年 為景と定実を、いったんは越中へ追った

顕定は1509年、越後に入ると、房能を攻めた為景と上杉定実をいったんは越中へ駆逐し、越後の国の大半を平定した。顕定はそのまま越後に残り、国内の統治を進めようとした。

押し返された 為景が定実を奉じて戻ると、加担する武将が増えた

顕定は、乗り込んだあとも越後全域の掌握には至らなかった。その間に長尾為景が上杉定実を奉じて越後へ復帰する。最初は攻勢に出ていた顕定だったが、次第に為景方へ加担する武将が増え、戦況は悪化した。

1510年6月20日 敗走の途中で、援軍の攻撃を受けた

1510年6月20日、敗走の途中だった顕定は、長森原ながもりはら(今の新潟県南魚沼市)で為景方の援軍・高梨政盛たかなしまさもりの攻撃を受け、その生涯を閉じた(長森原の戦い)。1466年に始まった関東管領の在職は、ここで終わる。

顕定が残したもの——鉢形城、割れた後継、謙信までの家

顕定は、歴代の関東管領の中で最も長く、44年にわたってその座にあった。関東管領の職と併せて、武蔵・上野・伊豆の三か国の守護も兼ねている。ただしその在職が平穏だったわけではなく、家臣の反乱、分家との内戦、生家の国での敗死が続いた。18年に及んだ分家との内戦の間に、関東管領は関東を統治する役職としての実質を失い、山内と扇谷はそれぞれの領域を持つ戦国大名へ変わっていった。

鉢形城 顕定が入ったことで、関東管領上杉氏の城になった

鉢形城は、1478年に顕定が入ってから約70年、関東管領上杉氏の持ち城だった。1546年の河越合戦かわごえかっせんで上杉憲政のりまさ北条氏康ほうじょう うじやすに大敗し、上野の平井城へ退くと、鉢形城は関東管領の拠点としての機能を失う。のちに北条氏康の四男・氏邦が入り、北関東支配の拠点として大きく姿を変えた。

割れた後継 二人の養子が、鉢形城で争った

顕定の死後、関東管領を継いだのは養子の上杉顕実あきざねで、古河公方・足利成氏の実子だった。1512年、顕実はもう一人の養子・上杉憲房のりふさに鉢形城を攻め落とされ、その座を奪われる。憲房は顕定の養父・房顕の甥にあたり、1481年に景春が顕定への対抗のため擁立した人物でもあった。この家督争いの繰り返しで、関東管領上杉氏の統率力は急速に弱まっていく。

謙信までの家 上杉謙信は、顕定から五代後の関東管領だった

関東管領上杉氏の家督は、1561年に長尾景虎、のちの上杉謙信うえすぎ けんしんへ継承された。座を奪った憲房の子が憲政で、その憲政から上杉の名跡を譲られたのが景虎である。謙信は顕定から数えて五代後の関東管領上杉氏にあたり、顕定とのつながりは血筋ではなく、養子縁組と家督の継承でできている。

上杉顕定の疑問に答える

山内上杉家と扇谷上杉家は、何が違う?

どちらも同じ上杉一門で、鎌倉府の御所の周りに構えた屋敷の場所によって呼び分けられた家である。上杉氏は屋敷の地区ごとに山内上杉氏、扇谷上杉氏、犬懸上杉氏、宅間上杉氏と呼ばれ、このうち山内上杉家の影響力が最も強く、15世紀の前半からは関東管領を世襲するようになった。顕定が長く戦った扇谷上杉家は、河越城と江戸城を拠点にした分家である。顕定の生家の越後上杉家も同じ一門で、こちらは越後の守護を務めた。

現地に何が残っている?

関東では、鉢形城跡(埼玉県寄居町)が国指定史跡で、荒川と深沢川に挟まれた断崖の上に曲輪が残る。平井城跡(群馬県藤岡市)は本丸跡の発掘で堀と土塁が確認され、内土塁の裾には川原石の石垣が築かれていた。平井城の氏神として顕定が伊豆の三嶋神社から分祀したと伝えられる三嶋神社みしまじんじゃ別殿(上ノ宮)も藤岡市にあり、東平井の円満寺えんまんじは山内上杉氏の祈願寺で、上杉氏累代の墓が並ぶ。

越後では、長森原の戦場跡にあった数多くの塚のうち最も大きいものが「管領塚」と呼ばれ、古くから顕定の墓と伝わる。現在は管領塚公園(新潟県南魚沼市)として整備され、地域の人々が今も毎年供養の祭事を続けている。近くの雲洞庵うんとうあんは、顕定の三代前の関東管領・上杉憲実が禅寺として再興した寺である。

顕定の遺品は残っている?

いずれも「伝顕定所用」として伝わるもので、確実に本人のものと確かめられているわけではない。金箔を押した四十二間の筋兜すじかぶと、雲洞庵に保管される鞍とあぶみ、藤岡市指定重要文化財の碁盤(裏面に上杉氏の家紋「竹に雀」が彫られている)、大正5年に管領塚から出土した小刀(鎧通よろいどおしと考えられている)などがある。文書では、1488年に家臣の戦功を賞して出した感状が、埼玉県指定重要文化財になっている。鞍と鐙は、顕定が最後に着けたものと伝わる。

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