要点
- 越後守護代の家に生まれた。長尾氏は関東管領・上杉氏の家臣筋で、越後の守護代を務めていた。為景は1506年、父・能景の戦死で家督を継いだ。
- 主君の守護を討った。1507年、守護・上杉房能と対立して攻め、房能を自害に追い込んだ。房能の養子・定実を新たな守護に立て、実権を握った。
- 関東管領も討った。房能の兄・上杉顕定が大軍で越後に攻め込み、為景は一時佐渡へ逃れた。しかし1510年、長森原の戦いで顕定を討ち取った。
- 守護との関係は安定しなかった。守護に立てた定実とも対立し、越後の国衆の反発も続いた。為景は守護の権威を使いながら実権を握る形を取り続けた。
- 晩年に隠居した。1530年代、国衆の反乱で劣勢となり、子の晴景に家督を譲って隠居した。没年は1537年とも1543年ともいわれる。
何をした人物か
長尾氏は関東管領・山内上杉氏の家臣筋で、越後守護・上杉氏のもとで守護代を務めていました。為景は1506年、父の能景が一向一揆との戦いで討ち死にしたため家督を継ぎます。このとき守護の上杉房能は、為景の父が戦死した出兵を命じた当人であり、両者の関係は最初から緊張していました。
1507年、為景は房能を攻め、房能は逃亡の途中で自害しました。為景は房能の養子・定実を守護に立て、自らは守護代として実権を握ります。房能の兄で関東管領の上杉顕定はこれを許さず、1509年に大軍で越後へ攻め込み、為景は佐渡へ逃れました。しかし翌1510年、為景は越後に戻り、長森原の戦いで顕定を討ち取ります。守護と関東管領を相次いで倒した為景は、越後の実質的な支配者となりました。
ただし為景の支配は安定しませんでした。守護に立てた定実とも対立し、越後の国衆は為景に従わない者も多くいました。1530年代、国衆の反乱で劣勢となった為景は、子の晴景に家督を譲って隠居します。没年は1537年とする見方と1543年とする見方があり、確定していません。為景の子・景虎(謙信)は、この父が作った「守護代が実権を握る越後」を受け継ぎ、やがて上杉の名跡を継ぐことになります。
年表で追う
- 011506年:家督相続
父・能景が一向一揆との戦いで討ち死にし、守護代を継ぐ。
- 021507年:守護・上杉房能を討つ
房能を攻めて自害に追い込み、定実を守護に立てる。
- 031509年:関東管領・顕定の侵攻
顕定の大軍に追われ、佐渡へ逃れる。
- 041510年:長森原の戦い
越後に戻り、顕定を討ち取る。
- 051530年代:隠居
国衆の反乱で劣勢となり、晴景に家督を譲る。
- 061537年または1543年:死去
没年には諸説ある。
為景を読むときに気をつけたいこと
- 没年に諸説ある。1537年説と1543年説があり、どちらとも確定していない。生年も分かっていない。
- 「下剋上の典型」という像は整理のための見方。為景は守護を名目上残し、守護代の立場を保ち続けた。主家を滅ぼして自ら守護になったわけではない。
- 謙信との関係は史料が少ない。為景の晩年と景虎(謙信)の幼少期は重なるが、父子の関係を直接示す史料は多くない。