人物ページ / 徳川家康の側室・大坂冬の陣の和睦の使者

阿茶局あちゃのつぼね

阿茶局とは?

阿茶局は、徳川家康の側室そくしつです。大坂冬の陣では、徳川方の和睦の使者を務めました。家康が亡くなったあとも将軍家のもとで役目を続け、秀忠の娘・和子が天皇に嫁ぐときには、母の代わりとして付き添いました。

天正7(1579)年〜
慶長19(1614)年
元和2(1616)年〜寛永3(1626)年
寛永9(1632)年〜寛永14(1637)年

家康の側室に——夫を亡くし、家康のそばに仕える

阿茶局は名を須和すわといい、弘治元(1555)年、武田家の家臣・飯田氏の娘として生まれた。神尾かんお忠重に嫁いだが、忠重は天正5(1577)年に亡くなる。その2年後の天正7(1579)年から、須和は徳川家康に仕えたと伝わる。阿茶局と呼ばれるようになり、家康の側室の一人となった。

『徳川実紀』は、阿茶局を利発な女性で家康の気に入りだったと記し、女性には珍しい才知があったとも書いている。家康は長久手の戦い(1584年)のころから、各地の陣にも阿茶局を連れて行った。

その後30年以上、阿茶局は家康の側室として仕え続けた。そのあいだに、家康の許しを得て江戸の神田に寺を開き、雲光院と名づけている(1601年ごろとも1611年ともいう)。

冬の陣の和睦——徳川方の使者として、淀殿の妹と交渉する

慶長19(1614)年11月、徳川方の大軍が、豊臣秀頼とよとみ ひでよりのこもる大坂城を囲んだ(大坂冬の陣)。戦いを終わらせる交渉で、徳川方の使者を務めたのが、家康の側近の本多正純と阿茶局である。豊臣方から交渉に出たのも女性で、秀頼の母・淀殿よどどのの妹にあたる常高院じょうこういん(名は初)だった。

常高院は城を出て、城の外の陣で阿茶局たちと話し合いを重ねた。やがて常高院から、秀頼が家康の示した条件を受け入れると伝えられ、12月に和睦がまとまった。交渉のあいだに、阿茶局が常高院とともに城の中にも入り、淀殿に会って家康の考えを伝えたとする記録もある。家康がなぜ阿茶局を使者に選んだのかは、史料からは分からない。

この和睦は長く続かなかった。翌慶長20(1615)年の大坂夏の陣で、秀頼と淀殿は自害した。

家康の死後——和子の入内に付き添い、従一位を受ける

元和2(1616)年4月に家康が亡くなったあとも、阿茶局は幕府から重く扱われた。遺品の分与では、御三家の祖となった家康の息子たちの母と同じ扱いを受け、金銭も添えられた。のちには江戸に屋敷地と、暮らしのための領地も与えられている。

元和6(1620)年、二代将軍秀忠の娘で家康の孫にあたる和子が、後水尾天皇のきさきとして宮中に入ることになった。これを入内じゅだいという。阿茶局は江戸から和子に同行し、母代ははしろ(母の代わりに付き添う役)として京にとどまって、入内の日には和子の車に付き添った。

元和9(1623)年、阿茶局は後水尾天皇から従一位(朝廷の位で上から2番目)を与えられた。『徳川実紀』は、入内での付き添いと、その後に和子が皇女を産んだときの付き添いを、その理由に挙げている。世間では「神尾一位殿」とも呼ばれた(神尾は前の夫の姓)。

寛永3(1626)年には、秀忠とその子の三代将軍家光が京へ上るのに従った。この年、後水尾天皇が御所を出て二条城を訪れた(行幸)。阿茶局は天皇を迎えに御所へ参り、行幸のもてなしの役も受け持った。

晩年——秀忠の死で尼となり、83歳で亡くなる

寛永9(1632)年1月に秀忠が亡くなると、阿茶局は髪をおろして尼となり、かつて自ら開いた寺と同じ雲光院を名のった。

寛永14(1637)年1月、阿茶局の病が重くなると、将軍家光は重臣を見舞いに遣わし、望みを尋ねた。阿茶局は雲光院のための領地を願い、寺に50石の地が寄せられた。そして1月22日、数え年83歳で亡くなり、雲光院に葬られた。

今に残るもの——江東区の雲光院と墓塔

雲光院は移転を重ね、今は東京都江東区三好にある。境内には阿茶局の墓塔が残り、江東区の文化財になっている。墓塔に刻まれた日付は1月20日で、記録にある亡くなった日(1月22日)とは2日違う。

阿茶局の疑問に答える

「茶阿局」とは別の人?

別の人である。茶阿局も家康の側室で、家康の子・松平忠輝まつだいら ただてるの母にあたる。名前がよく似ていて、江戸時代にも二人を同じ人と思う人がいた。『徳川実紀』にも、茶阿局と阿茶局を同じ人とするのは大きな誤りだと書かれている。

阿茶局から、次にたどる

参考にした資料

このページについて

訂正の記録

記事の理解に関わる訂正をしたときは、日付と内容をここに残しています(誤りの訂正について)。