阿茶局とは?
阿茶局は、徳川家康の側室です。大坂冬の陣では、徳川方の和睦の使者を務めました。家康が亡くなったあとも将軍家のもとで役目を続け、秀忠の娘・和子が天皇に嫁ぐときには、母の代わりとして付き添いました。
家康の側室に——夫を亡くし、家康のそばに仕える
阿茶局は名を須和といい、弘治元(1555)年、武田家の家臣・飯田氏の娘として生まれた。神尾忠重に嫁いだが、忠重は天正5(1577)年に亡くなる。その2年後の天正7(1579)年から、須和は徳川家康に仕えたと伝わる。阿茶局と呼ばれるようになり、家康の側室の一人となった。
『徳川実紀』は、阿茶局を利発な女性で家康の気に入りだったと記し、女性には珍しい才知があったとも書いている。家康は長久手の戦い(1584年)のころから、各地の陣にも阿茶局を連れて行った。
その後30年以上、阿茶局は家康の側室として仕え続けた。そのあいだに、家康の許しを得て江戸の神田に寺を開き、雲光院と名づけている(1601年ごろとも1611年ともいう)。
冬の陣の和睦——徳川方の使者として、淀殿の妹と交渉する
慶長19(1614)年11月、徳川方の大軍が、豊臣秀頼のこもる大坂城を囲んだ(大坂冬の陣)。戦いを終わらせる交渉で、徳川方の使者を務めたのが、家康の側近の本多正純と阿茶局である。豊臣方から交渉に出たのも女性で、秀頼の母・淀殿の妹にあたる常高院(名は初)だった。
常高院は城を出て、城の外の陣で阿茶局たちと話し合いを重ねた。やがて常高院から、秀頼が家康の示した条件を受け入れると伝えられ、12月に和睦がまとまった。交渉のあいだに、阿茶局が常高院とともに城の中にも入り、淀殿に会って家康の考えを伝えたとする記録もある。家康がなぜ阿茶局を使者に選んだのかは、史料からは分からない。
この和睦は長く続かなかった。翌慶長20(1615)年の大坂夏の陣で、秀頼と淀殿は自害した。
家康の死後——和子の入内に付き添い、従一位を受ける
元和2(1616)年4月に家康が亡くなったあとも、阿茶局は幕府から重く扱われた。遺品の分与では、御三家の祖となった家康の息子たちの母と同じ扱いを受け、金銭も添えられた。のちには江戸に屋敷地と、暮らしのための領地も与えられている。
元和6(1620)年、二代将軍秀忠の娘で家康の孫にあたる和子が、後水尾天皇のきさきとして宮中に入ることになった。これを入内という。阿茶局は江戸から和子に同行し、母代(母の代わりに付き添う役)として京にとどまって、入内の日には和子の車に付き添った。
元和9(1623)年、阿茶局は後水尾天皇から従一位(朝廷の位で上から2番目)を与えられた。『徳川実紀』は、入内での付き添いと、その後に和子が皇女を産んだときの付き添いを、その理由に挙げている。世間では「神尾一位殿」とも呼ばれた(神尾は前の夫の姓)。
寛永3(1626)年には、秀忠とその子の三代将軍家光が京へ上るのに従った。この年、後水尾天皇が御所を出て二条城を訪れた(行幸)。阿茶局は天皇を迎えに御所へ参り、行幸のもてなしの役も受け持った。
晩年——秀忠の死で尼となり、83歳で亡くなる
寛永9(1632)年1月に秀忠が亡くなると、阿茶局は髪をおろして尼となり、かつて自ら開いた寺と同じ雲光院を名のった。
寛永14(1637)年1月、阿茶局の病が重くなると、将軍家光は重臣を見舞いに遣わし、望みを尋ねた。阿茶局は雲光院のための領地を願い、寺に50石の地が寄せられた。そして1月22日、数え年83歳で亡くなり、雲光院に葬られた。
今に残るもの——江東区の雲光院と墓塔
雲光院は移転を重ね、今は東京都江東区三好にある。境内には阿茶局の墓塔が残り、江東区の文化財になっている。墓塔に刻まれた日付は1月20日で、記録にある亡くなった日(1月22日)とは2日違う。
阿茶局の疑問に答える
「茶阿局」とは別の人?
別の人である。茶阿局も家康の側室で、家康の子・松平忠輝の母にあたる。名前がよく似ていて、江戸時代にも二人を同じ人と思う人がいた。『徳川実紀』にも、茶阿局と阿茶局を同じ人とするのは大きな誤りだと書かれている。
参考にした資料
- 国立公文書館「家康死去後も幕府を支えた阿茶局」(名の須和・父飯田直政・弘治元年の生まれ・神尾忠重と天正5年の死去・家康に仕えたこと・本多正純とともに常高院と交渉・京極忠高の陣・従一位と神尾一位殿)
- 国立公文書館「徳川家康 関係年表」(冬の陣の開始・12月19日に京極忠高の陣へ遣わされ、大坂城からの使者の常高院と会って秀頼の同意を得たこと・20日の茶臼山での誓詞の交換・元和2年4月17日の家康の死去)
- 国立公文書館「大坂冬陣記」の解説(12月19日に交渉を終えた正純と阿茶局が和議の条件を家康に伝えたこと)
- 国立公文書館「譜牒余録」の解説(諸家が幕府に出した家譜を写した資料であること・神尾家の項に阿茶局が大坂城内の淀殿のもとへ出向いて上意を伝えたと記されること)
- 国立公文書館「東武実録」の解説(元和6年5月8日に和子が入内のため江戸を発ち、阿茶局が同行したこと)
- 国立公文書館「大坂冬の陣・夏の陣」(11月半ば過ぎに大坂城を囲んだこと・12月19日の和睦の成立・翌年4月の夏の陣と5月8日の秀頼・淀殿の自害)
- 江東区「石造宝篋印塔(阿茶局墓塔)寛永14年在銘」(墓塔の高さと刻銘・弘治元年の生まれ・家康の側室・秀忠の五女和子の入内に母代として在京・元和9年の従一位・秀忠の死後に尼となり雲光院と称したこと・83歳で没・所在地と区指定)
- 京都市上京区「徳川和子の入内」(和子が家康の孫であること・入内が家康の没後の元和6年に実現したこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』第12編之4(引用された神尾元勝の略譜と『以貴小伝』にある、天正5年7月の忠重の死・天正7年に家康に仕えたこと・陣中への供・子の守世が6歳で秀忠に仕えたこと・慶長6年ごろ家康の許しを得て神田に寺を開き雲光院と名付けたこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『徳川実紀』巻39(飯田筑後の娘で神尾忠重の妻だったこと・利発な女性で家康の気に入りとなり長久手以来各地の陣に供したこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『徳川実紀』巻89(茶阿局が忠輝の母であること・阿茶局と同じ人とするのは大きな誤りとの注)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『徳川実紀』巻134(寛永14年1月22日に83歳で没したこと・女性に珍しい才略があり重んじられて陣中にも召し連れられたこと・冬の陣で常高院とともに城中に入り淀殿と対面したこと・家康の死後に駿府の道具類を三家の当主の母と同じく分け与えられ金2千両を添えられたこと・竹橋の内の屋敷地と中野村の300石・入内で母代として車に付き添い、皇女の誕生のときも付き添って従一位を受けたこと・秀忠の死で雲光院と名のったこと・子の守世が6歳から秀忠に仕えたこと・忠重を今川の家人とし、その死を天正16年4月としつつ、続けて「同じき七年より」宮仕えしたと記すこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜』神尾氏(前の夫の忠重を一条右衛門大夫信龍に仕えたとし、その死を主文で天正16年4月、割注で神尾守富の呈譜による天正5年7月15日とすること・忠重の死後に家康に仕えて戦場にも従ったこと・大坂の陣で和議の使いを務めたこと・入内の母代・天皇の命による一位と天皇自筆の屏風・寛永3年に秀忠と家光の上洛に従い、9月6日の二条城行幸で禁中に参って迎え、もてなしを受け持ったこと・秀忠の死で尼となり雲光院と称したこと・それ以前に家康の時代に神田に雲光院を建てたこと・寛永14年1月18日に重臣の酒井忠勝を通じて望みを問われ、寺領50石が寄せられたこと・22日の死去)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東京市史稿』市街篇第三(雲光院の開基が阿茶局であること・入内に供奉して一位に任じられたこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』第2輯(阿茶局の墓が雲光院にあること・寛永14年1月22日に83歳で没したこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『寺社書上』深川寺社書上(忠重を武田一条家臣とし、天正5年に忠重が死去し、天正7年に阿茶局が家康に召し出されたとすること・雲光院の最初の起立が慶長16年で、馬喰町に寺地を与えられたこと)
このページについて
訂正の記録
記事の理解に関わる訂正をしたときは、日付と内容をここに残しています(誤りの訂正について)。
- 2026年10月1日 冒頭の「阿茶局とは?」の要約と年表で、家康に仕えた年を天正5年(1577)としていましたが、天正5年は前の夫・神尾忠重が亡くなった年でした。仕え始めた年を天正7年(1579)とする記録があるため、要約と年表の記述を直しました。
- 2026年10月1日 従一位を受けたことを、和睦の交渉役を務めたことにつながったと書いていましたが、資料では和子の入内に付き添ったことと結びつけて記されており、従一位を受けたのは元和9年(1623)でした。その記述に改めました。