人物ページ / 1592年〜1683年・徳川家康の六男

松平忠輝まつだいらただてる

松平忠輝とは?

松平忠輝は、徳川家康の六男として生まれ、今の新潟県上越市に高田城を築いた2年後の1616年に領地を取り上げられ、残りの58年を今の長野県諏訪市で過ごした人物です。

文禄元年(1592年)8月、徳川家康の六男として江戸城で生まれます。慶長4年(1599年)に伊達政宗の長女・五郎八姫と婚約し、慶長11年(1606年)に結婚しました。
越後へ移る前は信濃の松城を城とし、北信4郡を領したと記されます。慶長13年(1608年)には寺へ禁制を出し、翌年には家臣が忠輝の行状を幕府に訴える騒動が起きました。
慶長15年(1610年)閏2月、川中島から越後の福島城(今の新潟県上越市)へ移り、慶長19年(1614年)に高田城を築きます。
元和2年(1616年)7月、城地を没収され、伊勢国朝熊(今の三重県伊勢市)への配流を命じられます。
将軍が忠輝に宛てた改易の文書は確認されていません。兄の秀忠が発布した「松平忠輝改易条目」だけが、江戸初期の法令集に写しの形で残ります。
元和4年(1618年)に飛騨高山、寛永3年(1626年)に諏訪高島城(今の長野県諏訪市)へ移され、天和3年(1683年)7月に92歳で死去するまでの58年間を高島城南の丸で過ごしました。

六男の誕生と縁組——1592年に江戸城で生まれ、8歳で伊達家と婚約した

松平忠輝は文禄元年(1592年)8月、徳川家康の六男として江戸城で生まれた。幼名は辰千代たつちよ。家康51歳のときの子で、母は側室の茶阿局ちゃあのつぼねである。慶長4年(1599年)、家康は伊達政宗と結ぶため、8歳の忠輝と政宗の長女・五郎八姫(6歳)の婚約を成立させた。

慶長11年12月 15歳と13歳で挙げた結婚式

婚約から7年後の慶長11年(1606年)12月、15歳の忠輝は13歳の五郎八姫と、江戸の竜口たつのくち(今の東京都千代田区丸の内)で結婚式を挙げた。婚約が決まったときは忠輝が8歳、五郎八姫が6歳で、父どうしの結びつきを目的に組まれた縁組だった。

川中島の時代——信濃で18万石を領し、家臣が幕府に訴える騒動が起きた

越後へ移る前、忠輝は信濃を領していた。松城まつしろを城とし、北信4郡一円18万石を領したと記される。この一帯は川中島(長野市を含む北信の一帯)と呼ばれ、越後へ移ったあとも川中島四郡は忠輝の支配地に含まれ続けた。

慶長13年(1608年) 洞仙庵に出した禁制

忠輝は慶長13年(1608年)、洞仙庵とうせんあんという寺に禁制きんぜい(軍勢の乱暴や狼藉を禁じる文書)を出した。この1通は「松平忠輝禁制」の名で、平成26年(2014年)11月20日に上越市の指定文化財となっている。

慶長14年(1609年) 家臣が忠輝の行状を幕府に訴えた

川中島を領していたころ、重臣の皆川広照みながわひろてるらが慶長14年(1609年)に忠輝の行状を幕府に訴える騒動が起きた。訴えの具体的な内容は、公的資料には記されていない。処分を受けたのは訴えた広照の側だった。越後へ移る前年に、忠輝の周辺で幕府への訴えが起きていたことになる。

越後と高田城——川中島から福島城へ入り、1614年に高田城を築いた

慶長15年(1610年)閏2月、忠輝は川中島から越後の福島城(今の新潟県上越市)へ移った。一覧には在封5年6か月と記され、支配地は越後一円(村上9万石と新発田6万石を除く)と川中島四郡である。

石高 75万石という数字には幅がある

高田の城主をまとめた一覧で、忠輝の石高は75万石と記され、そのすぐ横に45万石、60万石とする説も並べられている。越後のほぼ全域と信濃の一部を合わせた領地でありながら、その大きさは一つの数字に定まっていない。

慶長19年(1614年) 福島城から高田城へ

越後へ移ってから4年後の慶長19年(1614年)、忠輝は高田城を築いた。三重の櫓が高田城のシンボルだった。越後へ移ったときは福島城主で、高田城主として数えられる期間は、築城から改易までの2年にあたる。

築城2年後の改易——1616年7月、城地を没収され伊勢へ送られた

高田城の築城からわずか2年後、元和2年(1616年)7月、忠輝は城地を没収され、伊勢国朝熊あさま(今の三重県伊勢市)への配流を命じられた。『信濃史料』には、元和2年7月6日に幕府が忠輝を伊勢朝熊へ配した、と記されている。

理由 説明は推測の形で書かれている

改易の理由について、公的な資料はキリスト教の布教とヨーロッパとの通商貿易に積極的だったことなどが、江戸幕府の基盤を確立するうえで不安材料とみられたためと推測しており、断定はしていない。

主体 誰の判断かは、資料によって書き方が分かれる

兄である秀忠により城地を没収されたという書き方と、のちに家康に勘当されたという書き方があり、資料によって分かれる。前者は元和2年7月という日付を挙げ、後者は年を示さずに勘当とだけ記す。

残らなかった通達——改易を伝えた文書は確認されず、条目の写しだけが残る

将軍が忠輝に宛てて発した、改易を命じる文書は確認されていない。国持大名の改易がどのように伝えられたかを整理した表でも、忠輝への伝達は不明とされている。

松平忠輝改易条目 法令集に写しだけが残る

改易にあたって秀忠が発布した「松平忠輝改易条目」は、江戸初期の法令集『武家厳制録』に写しが収められている。巻十七「御改易衆有之時御條目之部」の172号で、見出しは「上総介忠輝朝臣領地被召上候時御條目」とある。忠輝は上総介かずさのすけと呼ばれていた。

同時代の例 福島正則には連署奉書が使われた

忠輝とほぼ同じころに改易された福島正則ふくしま まさのりの場合は、年寄の連署奉書れんしょほうしょ(重臣が連名で主君の命令を伝える文書)が伝達に用いられたことが分かっている。忠輝についても同じ形が取られたのかどうかは、今のところ確かめられていない。

諏訪の58年——高山を経て高島城へ移り、92歳まで暮らした

朝熊にとどまること2年、元和4年(1618年)3月、忠輝は飛騨高山城(今の岐阜県高山市)主の金森重頼に預けられた。改易のあとは、幕府が定めた大名のもとを移りながら暮らす日々が続いた。

寛永3年(1626年)4月 諏訪高島城へ移された

寛永3年(1626年)4月、忠輝は諏訪高島城(今の長野県諏訪市)主の諏訪頼水のもとへ移された。天和3年(1683年)7月、92歳で死去するまでの58年間を、高島城の南の丸で過ごした。

年数 越後の5年6か月と、諏訪の58年

一覧には越後の在封5年6か月と記され、そのうち高田城主として数えられるのは2年である。諏訪で暮らしたのは58年である。

忠輝の名が残っているもの——高田の城跡と、2点の古文書

忠輝が越後を離れたあと、高田の城と城下は次の城主たちに引き継がれた。忠輝自身の名は、城跡の紹介と、上越市内に伝わる古文書に残っている。

高田城址公園 県の指定史跡になっている城跡

高田城跡は「徳川家康の六男・松平忠輝公の居城として築城された高田城の跡」として公園に整備され、全体が新潟県の指定史跡に指定されている。城の名を持つ公園の説明は、築城した忠輝の紹介から始まる。

2点の署名 市内19点のうち、署名があるのは2通

忠輝が在藩した当時にかかわる古文書は、上越市内に19点が確認されている。そのうち忠輝の署名がある古文書は、称念寺に伝わる禁制と、洞仙庵に出された禁制の2点である。称念寺は高田城の築城のときに現在地へ移った寺である。

次の城主 改易の年に、酒井家次が高崎から入った

忠輝が改易された元和2年(1616年)、高崎から酒井家次が高田に入った。家次の在封は2年に満たず、元和4年(1618年)3月に松代へ移った。

松平忠輝の疑問に答える

忠輝は信濃の大名? 越後の大名?

資料によって紹介の仕方が分かれる。松城を城として北信4郡一円18万石を領した、と信濃の側から書く資料があり、越後一円と川中島四郡を領した高田の初代城主、と越後の側から書く資料もある。忠輝は慶長15年(1610年)に川中島から越後へ移り、そのあとも川中島四郡を支配地に含んでいたので、どちらの書き方も同じ人物の別の時期を指している。

高田城の三重櫓は、忠輝のころの建物?

今ある三重櫓は平成5年(1993年)に、市政発足20周年の記念事業として、絵図や古文書の検討・発掘調査をもとに再建されたものである。忠輝が築いた三重の櫓そのものは残っていない。

五郎八姫は、そのあとどうなった?

忠輝の側の公的な資料でたどれるのは、慶長11年(1606年)に江戸の竜口で結婚式を挙げたところまでである。改易のあとの五郎八姫については、この資料ではたどれない。

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参考にした資料