松平忠輝とは?
松平忠輝は、徳川家康の六男として生まれ、今の新潟県上越市に高田城を築いた2年後の1616年に領地を取り上げられ、残りの58年を今の長野県諏訪市で過ごした人物です。
六男の誕生と縁組——1592年に江戸城で生まれ、8歳で伊達家と婚約した
松平忠輝は文禄元年(1592年)8月、徳川家康の六男として江戸城で生まれた。幼名は辰千代。家康51歳のときの子で、母は側室の茶阿局である。慶長4年(1599年)、家康は伊達政宗と結ぶため、8歳の忠輝と政宗の長女・五郎八姫(6歳)の婚約を成立させた。
慶長11年12月 15歳と13歳で挙げた結婚式
婚約から7年後の慶長11年(1606年)12月、15歳の忠輝は13歳の五郎八姫と、江戸の竜口(今の東京都千代田区丸の内)で結婚式を挙げた。婚約が決まったときは忠輝が8歳、五郎八姫が6歳で、父どうしの結びつきを目的に組まれた縁組だった。
川中島の時代——信濃で18万石を領し、家臣が幕府に訴える騒動が起きた
越後へ移る前、忠輝は信濃を領していた。松城を城とし、北信4郡一円18万石を領したと記される。この一帯は川中島(長野市を含む北信の一帯)と呼ばれ、越後へ移ったあとも川中島四郡は忠輝の支配地に含まれ続けた。
慶長13年(1608年) 洞仙庵に出した禁制
忠輝は慶長13年(1608年)、洞仙庵という寺に禁制(軍勢の乱暴や狼藉を禁じる文書)を出した。この1通は「松平忠輝禁制」の名で、平成26年(2014年)11月20日に上越市の指定文化財となっている。
慶長14年(1609年) 家臣が忠輝の行状を幕府に訴えた
川中島を領していたころ、重臣の皆川広照らが慶長14年(1609年)に忠輝の行状を幕府に訴える騒動が起きた。訴えの具体的な内容は、公的資料には記されていない。処分を受けたのは訴えた広照の側だった。越後へ移る前年に、忠輝の周辺で幕府への訴えが起きていたことになる。
越後と高田城——川中島から福島城へ入り、1614年に高田城を築いた
慶長15年(1610年)閏2月、忠輝は川中島から越後の福島城(今の新潟県上越市)へ移った。一覧には在封5年6か月と記され、支配地は越後一円(村上9万石と新発田6万石を除く)と川中島四郡である。
石高 75万石という数字には幅がある
高田の城主をまとめた一覧で、忠輝の石高は75万石と記され、そのすぐ横に45万石、60万石とする説も並べられている。越後のほぼ全域と信濃の一部を合わせた領地でありながら、その大きさは一つの数字に定まっていない。
慶長19年(1614年) 福島城から高田城へ
越後へ移ってから4年後の慶長19年(1614年)、忠輝は高田城を築いた。三重の櫓が高田城のシンボルだった。越後へ移ったときは福島城主で、高田城主として数えられる期間は、築城から改易までの2年にあたる。
築城2年後の改易——1616年7月、城地を没収され伊勢へ送られた
高田城の築城からわずか2年後、元和2年(1616年)7月、忠輝は城地を没収され、伊勢国朝熊(今の三重県伊勢市)への配流を命じられた。『信濃史料』には、元和2年7月6日に幕府が忠輝を伊勢朝熊へ配した、と記されている。
理由 説明は推測の形で書かれている
改易の理由について、公的な資料はキリスト教の布教とヨーロッパとの通商貿易に積極的だったことなどが、江戸幕府の基盤を確立するうえで不安材料とみられたためと推測しており、断定はしていない。
主体 誰の判断かは、資料によって書き方が分かれる
兄である秀忠により城地を没収されたという書き方と、のちに家康に勘当されたという書き方があり、資料によって分かれる。前者は元和2年7月という日付を挙げ、後者は年を示さずに勘当とだけ記す。
残らなかった通達——改易を伝えた文書は確認されず、条目の写しだけが残る
将軍が忠輝に宛てて発した、改易を命じる文書は確認されていない。国持大名の改易がどのように伝えられたかを整理した表でも、忠輝への伝達は不明とされている。
松平忠輝改易条目 法令集に写しだけが残る
改易にあたって秀忠が発布した「松平忠輝改易条目」は、江戸初期の法令集『武家厳制録』に写しが収められている。巻十七「御改易衆有之時御條目之部」の172号で、見出しは「上総介忠輝朝臣領地被召上候時御條目」とある。忠輝は上総介と呼ばれていた。
同時代の例 福島正則には連署奉書が使われた
忠輝とほぼ同じころに改易された福島正則の場合は、年寄の連署奉書(重臣が連名で主君の命令を伝える文書)が伝達に用いられたことが分かっている。忠輝についても同じ形が取られたのかどうかは、今のところ確かめられていない。
諏訪の58年——高山を経て高島城へ移り、92歳まで暮らした
朝熊にとどまること2年、元和4年(1618年)3月、忠輝は飛騨高山城(今の岐阜県高山市)主の金森重頼に預けられた。改易のあとは、幕府が定めた大名のもとを移りながら暮らす日々が続いた。
寛永3年(1626年)4月 諏訪高島城へ移された
寛永3年(1626年)4月、忠輝は諏訪高島城(今の長野県諏訪市)主の諏訪頼水のもとへ移された。天和3年(1683年)7月、92歳で死去するまでの58年間を、高島城の南の丸で過ごした。
年数 越後の5年6か月と、諏訪の58年
一覧には越後の在封5年6か月と記され、そのうち高田城主として数えられるのは2年である。諏訪で暮らしたのは58年である。
忠輝の名が残っているもの——高田の城跡と、2点の古文書
忠輝が越後を離れたあと、高田の城と城下は次の城主たちに引き継がれた。忠輝自身の名は、城跡の紹介と、上越市内に伝わる古文書に残っている。
高田城址公園 県の指定史跡になっている城跡
高田城跡は「徳川家康の六男・松平忠輝公の居城として築城された高田城の跡」として公園に整備され、全体が新潟県の指定史跡に指定されている。城の名を持つ公園の説明は、築城した忠輝の紹介から始まる。
2点の署名 市内19点のうち、署名があるのは2通
忠輝が在藩した当時にかかわる古文書は、上越市内に19点が確認されている。そのうち忠輝の署名がある古文書は、称念寺に伝わる禁制と、洞仙庵に出された禁制の2点である。称念寺は高田城の築城のときに現在地へ移った寺である。
次の城主 改易の年に、酒井家次が高崎から入った
忠輝が改易された元和2年(1616年)、高崎から酒井家次が高田に入った。家次の在封は2年に満たず、元和4年(1618年)3月に松代へ移った。
松平忠輝の疑問に答える
忠輝は信濃の大名? 越後の大名?
資料によって紹介の仕方が分かれる。松城を城として北信4郡一円18万石を領した、と信濃の側から書く資料があり、越後一円と川中島四郡を領した高田の初代城主、と越後の側から書く資料もある。忠輝は慶長15年(1610年)に川中島から越後へ移り、そのあとも川中島四郡を支配地に含んでいたので、どちらの書き方も同じ人物の別の時期を指している。
高田城の三重櫓は、忠輝のころの建物?
今ある三重櫓は平成5年(1993年)に、市政発足20周年の記念事業として、絵図や古文書の検討・発掘調査をもとに再建されたものである。忠輝が築いた三重の櫓そのものは残っていない。
五郎八姫は、そのあとどうなった?
忠輝の側の公的な資料でたどれるのは、慶長11年(1606年)に江戸の竜口で結婚式を挙げたところまでである。改易のあとの五郎八姫については、この資料ではたどれない。
参考にした資料
- 上越市立歴史博物館「松平 忠輝」(1592年8月に江戸城で生まれたこと・幼名辰千代・家康51歳の子であること・母が側室茶阿局であること・1599年の婚約と1606年12月の結婚式・江戸竜口の所在・福島城主となったこと・1614年の高田城築城・1616年7月の城地没収と伊勢朝熊への配流・改易理由の推測形の説明・1618年3月の飛騨高山と金森重頼・1626年4月の諏訪高島城と諏訪頼水・1683年7月に92歳で死去するまでの58年間)
- 上越市立歴史博物館「高田城主一覧」(1610年閏2月に川中島から入封したこと・在封5年6か月・75万石と45万石/60万石の説・越後一円から村上9万石と新発田6万石を除く支配地・川中島四郡・1616年7月の改易・次の城主である酒井家次の入封と1618年3月の松代への転封・松平忠昌が川中島から入ったこと)
- 上越市立歴史博物館「高田城三重櫓 施設概要」(1614年の築城・三重櫓が高田城のシンボルであったこと・高田城跡が新潟県指定史跡であること・平成5年の建設と設計の根拠・「高田城図間尺」と「本丸御殿絵図」)
- 上越市「上越歴史旅」(高田城址公園が「徳川家康の六男・松平忠輝公の居城として築城された高田城の跡」に整備された公園であること・全体が県の指定史跡であること・称念寺が高田城築城時に現在地へ移ったこと)
- 諏訪市博物館「松平忠輝」(生没年1592〜1683・松城城主として北信4郡一円18万石を領したという書き方・家康に勘当されたという書き方・1626年に諏訪高島藩へ預けられたこと・92歳で死去したこと)
- 文化庁 文化遺産オンライン「松平忠輝禁制」(初代高田藩主という紹介と生没年・1608年に洞仙庵へ発給した禁制であること・2014年11月20日の上越市指定・在藩当時の古文書が市内に19点確認されること・署名のある古文書が称念寺の禁制とこの1通の2点であること)
- レファレンス協同データベース(提供館:国立国会図書館)「徳川将軍から藩主にあてた改易の文書が見たい」(将軍が忠輝宛に発した改易を命じる文書が確認できないこと・国持大名の改易事情の伝達の表で忠輝が不明とされること・「松平忠輝改易条目」が『武家厳制録』172号に写しとして残ること・巻十七の部立てと見出し・福島正則には年寄の連署奉書が用いられたこと・奉書の説明・元和2年7月6日に伊勢朝熊へ配したという記述)
- レファレンス協同データベース(提供館:長野市立長野図書館)「川中島藩主だった松平忠輝の家臣が起こした御家騒動」(皆川広照らが1609年に忠輝の行状を幕府に訴え、訴えた側が改易されたこと・騒動の記述がある県史や市誌の所在)