本多正純とは?
本多正信の子として徳川家康と徳川秀忠に仕え、元和5年(1619)に宇都宮城主(今の栃木県宇都宮市)となり、元和8年(1622)に改易(身分と領地を取り上げる処分)された人物です。
三河に生まれて——父と同じ主君の、側近の筆頭に並んだ
本多正純は永禄8年(1565)、三河国に生まれた。父は徳川家康に仕えた本多正信である。正純は父とともに家康の側近の筆頭として働き、その立場のまま慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の交渉に関わった。家康の没後は老中(幕府の政務を受け持つ役)として二代将軍・徳川秀忠に仕えた。
家康から秀忠へ 主君が代わっても、中枢に残った
元和2年(1616)に家康が没すると、正純は老中として秀忠に仕えた。家康の側近という立場から、二代将軍の政務を担う立場へ移っている。
1614年の交渉——鐘の銘の弁明を勧め、講和の約定を持ち帰った
慶長19年(1614)4月、豊臣秀頼が京都方広寺大仏殿の鐘を鋳造した。5月、秀頼は大仏殿の供養の期日などを、豊臣方の片桐且元を通じて家康に尋ねる。同年8月、正純と金地院崇伝は、鐘の銘などの件で家康へ弁明するため駿府へ赴くことを且元に勧めた。しかし事態は収まらず、同年11月中旬、徳川方と豊臣方が大坂で衝突する。
12月19日 京極忠高の陣で、和睦の条件がまとまった
慶長19年12月19日、正純と阿茶局は京極忠高の陣へ派遣され、大坂城から来た使者である忠高の母・常高院と会った。この場で、秀頼が家康の示した条件に同意し和睦する約定が結ばれる。翌20日、茶臼山の家康の本陣で誓詞が交わされた。
1616年の二つの場面——遺言の席と、日光の作事奉行
元和2年(1616)正月21日、駿河国田中で鷹狩をした夜、家康は急に発病した。同年4月2日、家康は正純と天海、金地院崇伝を召して遺言を伝える。家康が没したのは、その15日後の4月17日である。
10月26日 家康を祀る建物の、工事を任された
元和2年10月26日、幕府は天海を日光山へ派遣し、東照大権現の廟の縄張り(建物や堀の配置を決めること)を行わせた。あわせて正純と藤堂高虎が作事奉行(造営を差配する役)に任じられる。家康の死から半年で、正純は主君を祀る建物の工事を受け持った。
宇都宮城主の3年——城を改築し、町ごと造りかえた
元和5年(1619)、正純は15万5千石で宇都宮城主となった。宇都宮城を改築し、城と城下町の大改造を行って、今日の宇都宮の中心市街地の骨格を作り上げたと言われている。城主だった3年ほどの間の工事である。
1622年の改易——城を受け取る側にいて、処分を受けた
元和8年(1622)10月、正純は、改易となった最上義俊の城を受け取るため出羽国山形へ出張していた。その最中に、正純自身も出羽国由利へ配流のうえ、5万5千石への減封を命じられた。
理由は明らかでない 5万5千石を固辞し、処分が改まった
改易の理由を記した公的な資料は確認できていない。15万5千石の宇都宮から、出羽国由利で5万5千石への減封という指示を受けた正純はこれを固辞し、寛永元年(1624)4月には身柄を他家に預けられる形へ処分が改まった。
横手での13年——1千石を与えられ、その地で没した
寛永元年(1624)4月、正純は佐竹義宣に召し預けられ、出羽国横手へ配流されて1千石を与えられた。以後は横手で暮らし、寛永14年(1637)2月29日に没している。享年73歳。
召し預け 身柄は、出羽の大名が預かった
身柄を預かったのは出羽国の大名・佐竹義宣で、与えられたのは1千石だった。宇都宮時代の15万5千石とは桁が違う。領地を持つ大名から、他家に預けられて禄を受ける身へと、立場そのものが変わっている。
明治41年(1908) 没後270年余りで、墓碑が建った
明治41年(1908)7月、横手区裁判所と同検事局の職員により、横手の上野台に正純の墓碑が建立された。没した寛永14年(1637)から270年余りを経てのことである。
釣天井の話——伝説の紹介として載っているもの
正純の名は、宇都宮城の釣天井という話とともに知られている。栃木県は、この話を地域の伝説を紹介する読み物の一本として載せており、同じ並びには小町塚、殺生石、鉢の木といった民話が置かれている。
伝わる筋書き 大工から話がもれた、という組み立て
幕閣から遠ざけられたのを恨んだ正純が、秀忠が日光参拝の途中で宇都宮城に寄るのを機に将軍を亡き者にしようと、釣天井の仕掛けを持った御座所をひそかに城内に建てて機会を待つ。しかし釣天井を作った大工から話がもれて未然に鎮圧され、正純は家禄を没収され流罪となった、と伝わる。
年表と並べる 重なる部分と、重ならない部分がある
正純が宇都宮城主だったのは元和5年(1619)から元和8年(1622)までで、処分が下ったのは山形へ出張している最中だった。家禄を失って遠地へ移されたという結末は、年表に残る経緯と重なる。暗殺の計画や仕掛けの実在は、伝説の紹介の外に記述が見当たらない。
本多正純の疑問に答える
今の宇都宮の町と、正純はどうつながる?
宇都宮市は、正純による城と城下町の大改造が、今の町の基礎になっていると記している。宇都宮城そのものは1868年の戊辰戦争で建物の大半が焼失し、堀も埋められて、当時の面影をしのぶものはほとんどなくなった。
横手には何が残っている?
正純が没した横手には、明治41年(1908)に横手区裁判所と同検事局の職員が上野台に建てた墓碑がある。平成16年(2004)10月に結成された「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」は、歴史の学習に加えて、正純に関連したまちづくりや宇都宮市との交流にも活動を広げようとしている。
参考にした資料
- 秋田県横手市「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」(永禄8年に三河国で生まれたこと・父正信とともに家康の側近の筆頭だったこと・家康没後に老中として秀忠に仕えたこと・元和5年に15万5千石で宇都宮城主となり宇都宮城を改築して町割の基礎を築いたこと・元和8年10月の最上義俊の城の受け取りと由利への配流および5万5千石への改易・寛永元年4月に佐竹義宣へ召し預けられ横手へ配流されて1千石を与えられたこと・寛永14年2月29日に横手で没し享年73だったこと・明治41年7月の墓碑建立・平成16年10月の市民の会結成と宇都宮市との交流)
- 栃木県宇都宮市「宇都宮城の歴史」(中世の宇都宮城が堀と土塁を幾重にもめぐらせた城だったこと・宇都宮氏の滅亡と譜代大名の居城になったこと・正純が城と城下町の大改造を行い今日の中心市街地の骨格を作り上げたと言われていること・日光社参で将軍の宿泊場所となり本丸に御成御殿が建てられたこと・1868年の戊辰戦争での焼失と堀の埋め立て)
- 栃木県「とちぎ豆知識『とちぎの伝説』宇都宮城釣天井」(釣天井の話が県の伝説紹介の一本として小町塚・殺生石・鉢の木などと並べて掲載されていること・幕閣から遠ざけられた恨み、日光参拝の途中の宇都宮城、御座所の釣天井、大工から話がもれたこと、家禄没収と流罪という筋書き)
- 国立公文書館「徳川家康——将軍家蔵書からみるその生涯」関係年表(慶長19年4月の方広寺大仏殿の鐘の鋳造・5月の片桐且元を通じた問い合わせ・8月に正純と金地院崇伝が且元へ駿府行きを勧めたこと・11月中旬の大坂での衝突・12月19日に正純と阿茶局が京極忠高の陣へ派遣され常高院と会って和睦を約定し翌20日に誓詞を交換したこと・元和2年正月21日の発病・4月2日に正純と天海と金地院崇伝へ遺言を伝えたこと・4月17日の家康の死去・10月26日に天海が日光山で縄張りを行い正純と藤堂高虎が作事奉行になったこと)
- 秋田県公文書館 平成20年度企画展「武士の日記を読む」パンフレット(年表に寛永元年の正純の横手への移送が記されていること)