人物ページ / 家康に招かれた天台宗の僧・東照大権現と日光・寛永寺の開山

南光坊天海なんこうぼう てんかい

南光坊天海とは?

会津(今の福島県)の生まれとされる天台宗の僧で、徳川家康に招かれてその信頼を受け、家康の死後は神号「東照大権現」と日光の東照社の造営を進め、江戸の上野に寛永寺を開き、日本で初めて刊行された一切経(天海版)を企てた人物です。

寛永20(1643)年に没し、のちに慈眼大師じげんだいしの名を贈られました。生年や享年には異説があります。

会津で出家し、14歳から比叡山で天台宗を学んだとされます。前半生の細かなことは分かっていません。
川越の喜多院の住職となり、慶長15(1610)年には駿府に招かれ、慶長18(1613)年に日光山を任されます。
元和2(1616)年に家康が亡くなると「権現」の神号を主張し、翌年、家康の霊柩を久能山から日光へ移します。
江戸城の北東に寛永寺を開き、寛永14(1637)年からは一切経の刊行を始めます。
寛永20(1643)年10月2日に没し、日光に葬られ、慶安元(1648)年に慈眼大師の名を贈られました。

前半生——会津から比叡山へ、詳しくは分からない

天海は会津高田郷(今の福島県会津美里町)の生まれとされ(町は「慈眼大師誕生地」を史跡に指定している)、11歳で地元の龍興寺に入って出家し、14歳から比叡山で天台宗を学んだという。その後も各地で学び、一時は武田信玄たけだ しんげんにも用いられた。はじめは随風と名のり、慶長4(1599)年に天海と改めている。ただし、前半生の細かなことははっきりしない。

生年と享年 1536年生まれ・108歳とする説が多いが、異説もある

生年は天文5(1536)年とする資料が多く、この説が有力とされるが、異説もあり、文化庁の「天海版木活字」の解説は生年を「?」としている。亡くなったときの年齢も108歳とするものが多い一方で、125歳などの説もある。

江戸崎の不動院 学僧として迎えられた寺

天正18(1590)年に江戸崎(今の茨城県)の城主となった蘆名義弘が、随風と名のっていた天海を不動院に招き、天海はその後17年間住職を務めたとされる。幕府の宗教政策に関わる前の天海は、この不動院にいる一人の学僧だった、と説明する研究がある。

家康のもとへ——喜多院、駿府、そして日光

天海は川越の無量寿寺北院(今の埼玉県川越市の喜多院きたいん)に入って寺の再興に努め、家康に会ってその信頼を得ると、喜多院の第27世住職となり、「北院」を「喜多院」と改めた。慶長15(1610)年には家康のいる駿府に招かれ、翌年に僧正となる。家康の信頼を得て比叡山探題執行を命じられ、延暦寺の復興にも努めた。慶長18(1613)年には、家康から下野(今の栃木県)の日光山を任された。

喜多院に入った年 1599年とも、1612年とも

天海が喜多院の住職に就いた年は、川越市の資料のなかでも書き方が違う。文化財の解説は慶長4(1599)年のこととされるとし、別のページは、北院が喜多院となったのは慶長17(1612)年に天海が住職となってからだと書く。喜多院は500石の朱印を与えられた。

日光山 1613年、肩書きは資料ごとに違う

慶長18(1613)年11月に前の座主が退き、天海が日光山の光明院座主となった。同じ出来事を、日光山の貫主に任じられた、日光山を与えられた、輪王寺の住持となった、と書く資料もある。年はどれも1613年で一致している。

東照大権現——神号の論争と、日光への改葬

元和2(1616)年4月2日、死期を悟った家康は、本多正純・天海・以心崇伝を呼んで自分の死後のことを指示した。家康は4月17日に駿府で亡くなり、遺言によって久能山(今の静岡市)に葬られた。その年の7月27日、天海は大僧正に任じられている。

神号の論争 「明神」か「権現」か

家康を神として祀るときの神号をめぐって、「明神」を主張する以心崇伝と、「権現ごんげん」を主張する天海が激しく争い、秀忠の裁定で「権現」に決まった。天海は、豊臣秀吉とよとみ ひでよしを祀った豊国大明神の末路を引き合いに出したと伝わる。天海の主張は山王一実神道さんのういちじつしんとうにもとづくものだった。6月11日には天海らが朝廷へ遣わされて神号を願い出、朝廷が示した四つの案から「東照大権現」が選ばれ、翌年2月21日に神号が与えられた。

日光へ 天海が縄張りをし、霊柩を移す

元和2(1616)年10月26日、幕府は天海を日光山に送り、家康の廟の縄張り(建物の配置を決めること)を行わせた。元和3(1617)年3月15日、家康の霊柩は久能山を出て、途中の川越の喜多院に4泊5日とどまって天海が法要を営み、4月4日に日光の東照社に移された。のちに天海は喜多院の境内にも東照社(仙波東照宮)を建てている。

寛永寺と一切経——東の比叡山と、天海版

天海は将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城を守るために上野の忍岡に寺を建てることを進言した。江戸城の艮うしとら(北東)の鬼門を守る寺として、寛永2(1625)年に本坊が落成し、比叡山延暦寺にならって東叡山寛永寺と名づけられた。国立国会図書館の解説は、元和8(1622)年に寛永寺を開いたと書いている。

天海版一切経 日本で初めて刊行された一切経

天海は一切経(仏教の経典の全集)の刊行を企て、将軍家光の援助を受けて寛永14(1637)年から刊行を始めた。もとにしたのは川越の喜多院にあった南宋の思渓版しけいばんで、木の活字で刷られた。全巻の完成は天海の死後の慶安元(1648)年で、6,323巻に及ぶ。日本で初めて刊行された一切経で、寛永寺に残る26万個以上の木活字は国の重要文化財になっている。

上野に残るもの 清水観音堂と、毛髪塔

天海は京都の清水寺にならって、寛永8(1631)年に上野に清水観音堂を建てた(今の堂は元禄7年に今の場所へ移したもので、国の重要文化財)。天海が亡くなった子院の本覚院の跡には供養塔が建ち、のちに毛髪を納めた塔も建てられて、天海僧正毛髪塔と呼ばれている。

最期と慈眼大師——日光に葬られる

天海は寛永20(1643)年10月2日、江戸の東叡山(寛永寺)で亡くなり、遺命によって日光山に葬られた。10月17日に棺が日光の大黒山の廟所に埋葬されている。慶安元(1648)年4月21日、朝廷から慈眼大師の名が贈られた。

生前の像 亡くなる前に造られた二つの坐像

日光の輪王寺には、天海が亡くなる3年前の寛永17(1640)年に七条大仏師の康音が造った坐像があり、国の重要文化財になっている。川越の喜多院の慈眼堂の坐像は、底の墨書から寛永20(1643)年8月、亡くなる2か月前に造られた生前の像とみられ、埼玉県の文化財に指定されている。

天海蔵 集めた書物が今も残る

天海が生前に集めた書物は「天海蔵」と呼ばれ、古活字本や経典など1,900点余りが日光山輪王寺に伝わる。叡山文庫にも収められている。

南光坊天海の疑問に答える

天海は明智光秀と同じ人物だったのか?

同一人物説を紹介する本はあるが、日光の「明智平」の地名や桔梗の紋などを根拠に挙げる本にも、いずれも根拠が希薄であるといった補足が付いている。天海の前半生の資料がほとんどないことが、この説が語られる背景になっている、と説明する本もある。天海の伝記のうち最も早い慶安3(1650)年の「東源記」から、光秀とは別人として天海の前半生があったことは否定できない、とする研究もある。

家康とはいつ初めて会ったのか?

ここで参考にした資料には、初めて会った年は書かれていない。書かれているのは、家康に会ってその信頼を得たこと、慶長15(1610)年に駿府へ招かれたことである。

今の日光東照宮の社殿は、天海が建てたもの?

今の主な社殿は、三代将軍家光の寛永の大造替(1634〜1636年)で造られたもので、総奉行は秋元泰朝、大棟梁は甲良宗広だった。天海はこのとき、寛永12(1635)年に日光山に登って仮殿への遷宮を執り行っている。

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参考にした資料

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