要点
- 南部一族で最大の勢力だった。九戸氏は南部氏の一族で、九戸城を本拠に糠部郡の広い範囲を治めた。政実の代には宗家をしのぐ力を持ったとされる。
- 家督争いで信直と対立した。1582年、南部晴政の死後、後継の晴継が急死し、政実の弟・実親と南部信直が家督を争った。信直が継いだが、政実は従わなかった。
- 秀吉の仕置に従わなかった。1590年の奥州仕置で秀吉は信直を南部氏の当主と認めた。政実は小田原へも参陣せず、信直のもとに従うことを拒んだ。
- 6万の軍を相手に籠城した。1591年、豊臣秀次を総大将に蒲生氏郷・浅野長政らが九戸城を包囲した。政実は5千ほどの兵で持ちこたえたと伝わる。
- 和議を信じて開城し、処刑された。城内の僧を仲介とする和議に応じて政実は降伏したが、開城後に城内は撫で斬りにされ、政実は処刑された。
何をした人物か
九戸氏は南部氏の一族で、陸奥国糠部郡の九戸城を本拠としていました。政実の代には一族のなかで最大の勢力となり、南部宗家の当主・晴政とも対等に近い関係にあったとみられます。1582年に晴政が死去し、後継の晴継も間もなく急死すると、南部氏の家督をめぐって、政実の弟で晴政の養子だった実親と、一族の南部信直が争いました。家督は信直が継ぎましたが、政実はこれを認めませんでした。
1590年、小田原を攻めた豊臣秀吉は奥州仕置を行い、信直を南部氏の当主として正式に認めました。政実は小田原に参陣せず、信直に従うことも拒みます。翌1591年3月、政実は兵を挙げ、信直方の城を攻めました。信直は秀吉に救援を求め、秀吉は甥の豊臣秀次を総大将に、蒲生氏郷・浅野長政・堀尾吉晴らを派遣します。
9月、九戸城は6万を超える軍に囲まれました。三方を川の深い谷に守られた九戸城で、政実は5千ほどの兵で持ちこたえたと伝わります。力攻めを諦めた豊臣軍は、城内の僧を仲介に和議を申し入れ、政実は降伏して開城しました。しかし豊臣軍は開いた城になだれ込み、城内の者を撫で斬りにし、政実は栗原で処刑されました。奥州仕置の仕上げであり、秀吉の天下統一における最後の戦いとされます。
年表で追う
- 011536年:誕生
南部一族・九戸氏の当主の子として生まれる。
- 021582年:南部氏の家督争い
晴政・晴継の死後、弟・実親を推して信直と対立する。
- 031590年:奥州仕置
秀吉が信直を南部氏当主と認める。政実は小田原に参陣しない。
- 041591年3月:挙兵
信直方の城を攻め、反乱が始まる。
- 051591年9月:九戸城の籠城
6万を超える豊臣軍に囲まれ、持ちこたえる。
- 061591年9月:開城と処刑
和議に応じて降伏したが、城内は撫で斬りにされ、政実は処刑された。
政実を読むときに気をつけたいこと
- 兵力の数字は伝承を含む。「6万5千対5千」は後世の記録による数字で、実際の兵力は確かめられていない。
- 「偽りの和議」の経緯には諸説ある。和議の仲介や開城後の撫で斬りは地元に伝わる話で、豊臣軍側の意図がどこまで計画的だったかは史料で確かめにくい。
- 「反乱」の見方は一面的。政実にとっては南部宗家の正統をめぐる争いであり、豊臣政権への反抗というより、秀吉が信直の側についた結果として「反乱」になった。近年は岩手県などで再評価が進んでいる。