読み物ルート / 1599年閏3月〜1601年

関ヶ原の一年を順にたどる

関ヶ原の戦いは1600年9月15日の「一日」で語られがちですが、実際には、前田利家まえだ としいえが死んだ1599年春から歯車が回り始め、全国の大名が同時に立場を選ばされた「一年の物語」です。このページは、その一年を五つの幕に分け、当サイトの個別ページを読む順番に並べた案内です。上から順に読めば、七将襲撃から戦後処理まで、一本の物語として関ヶ原をたどれます。

五幕・約20ページ 1599年の失脚から 全国同時の秋を経て 戦後処理と伏線まで

この一年の全体像——五つの幕

いつ何が起きたか
第一幕 前夜1599年閏3月利家が死に、三成が失脚。家康を止める仕組みが消える
第二幕 挑発と出兵1600年4〜6月直江状と会津征伐。家康が東へ動く
第三幕 反転1600年7月三成挙兵。家康は小山で引き返す
第四幕 全国同時の秋1600年8〜9月美濃・信州・出羽・九州で同時に戦いが起きる
第五幕 決戦と戦後1600年9月15日〜本戦は一日で決着。処刑・改易・加増で日本地図が引き直される
第一幕

前夜——重しが外れる(1599年)

秀吉の死後、政権は五大老五奉行の合議で保たれていました。その要が前田利家です。石高では家康に遠く及びませんが、秀吉の古くからの盟友として秀頼の後見を任され、加藤清正かとう きよまさら武断派の武将たちからも慕われた、家康が唯一遠慮する相手でした。その利家が死んだ翌日、七将が石田三成を襲います。三成は約19万石の奉行にすぎず、力で家康に並ぶ存在ではありません。ただ、秀吉の遺した決まりと手続きを盾に、家康の勝手を止められる数少ない実務の要でした。利家という重しと、三成という歯止め——二つが同じ月に消えて、家康を止める仕組みがなくなったのです。

第二幕

挑発と出兵——家康、東へ(1600年4〜6月)

次の標的は会津の上杉景勝うえすぎ かげかつでした。「上洛して弁明せよ」と迫る家康側に、上杉家の返書として伝わるのが直江状。真偽に議論はありますが、家康は6月、諸大名を率いて会津征伐に出ます。この出兵こそ、三成が待っていた「留守」でした。

第三幕

反転——名分の奪い合い(1600年7月)

家康が東へ出ると、三成らは家康の違反13か条を諸大名に送り(内府ちがひの条々)、伏見城を攻めて挙兵します。下野の小山でこれを知った家康は軍議を開き、豊臣恩顧の大名たちが東軍につくことを決めて西へ反転。両軍とも「秀頼のため」を掲げる、名分の奪い合いが始まりました。

第四幕

全国同時の秋——戦場は関ヶ原だけではない(1600年8〜9月)

ここからは全国が同時に動きます。美濃では東軍先発隊が岐阜城を一日で落として決戦の時計を進め、信州では秀忠が上田で足止めされる。北では上杉が最上領へ攻め込み(長谷堂)、政宗が白石城を奪い、九州では官兵衛が石垣原で大友を破る。どの土地の運命も、まだ誰も知らない「中央の結果」に懸かっていました。

第五幕

決戦と戦後——一日で決まり、一年かけて引き直す(1600年9月15日〜)

9月15日、本戦はわずか一日で決着しました。しかし本当の再編はここからです。三成ら3人の処刑、西軍88家の改易、宇喜多秀家うきた ひでいえらの流罪、東軍への大加増。日本地図が引き直され、その過程で生まれた大量の浪人が、15年後の大坂の陣の伏線になります。

使い方

このルートの歩き方

  • 順番どおりに読むと、因果が一本につながる。「なぜ家康は会津へ行ったのか」「なぜ三成はその隙に挙兵できたのか」「なぜ岐阜城の陥落が決戦を早めたのか」——一日の戦いだけでは見えない理由が、順に読むと埋まっていく。
  • 興味のある幕から入ってもいい。各ページには「次にたどる」の案内があるので、途中から入っても前後に動ける。東北が好きなら第四幕の長谷堂から、人物が好きなら三成やガラシャから。
  • 図でも追える。相関図一覧には関ヶ原・三成・小田原征伐など関連の図があり、人物関係を一枚で確かめながら読み進められる。

このページは当サイト内の読む順番の案内で、各ページの内容と出典はそれぞれのページの「参考にした資料」に記載しています。

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