読み物ルート / 1600年〜1615年

大坂の陣への十五年を順にたどる

関ヶ原で勝った家康は、なぜすぐに豊臣家を滅ぼさなかったのか——大坂の陣を読むときの最大の疑問は、実はこの「十五年の間」にあります。幕府を開いてもなお、大坂城には太閤の遺児・秀頼がいて、金蔵があり、恩顧の記憶がある。このページは、関ヶ原の翌日から豊臣家の滅亡までの十五年を五つの幕に分け、当サイトの個別ページを読む順番に並べた案内です。関ヶ原の一年の続きとしても読めます。

五幕・約18ページ 並び立つ二つの家 鐘の8文字から開戦へ 元和偃武まで

この十五年の全体像——五つの幕

いつ何が起きたか
第一幕 勝者の設計1600〜1603年戦後処理で日本地図が引き直され、江戸に幕府が開かれる
第二幕 並び立つ二つの家1603〜1613年幕府の徳川と、大坂城の豊臣。曖昧な並立が続く
第三幕 開戦の理屈1614年夏鐘の8文字が口実になり、交渉が決裂する
第四幕 冬の陣1614年冬浪人10万が籠る大坂城。真田丸の激戦と、堀を埋める和議
第五幕 夏の陣と終幕1615年裸城での決戦。豊臣家が滅び、戦国が終わる
第一幕

勝者の設計——地図の引き直し(1600〜1603年)

関ヶ原の翌日から、家康は日本を作り直します。西軍88家の改易で生まれた領地は東軍への恩賞に回り、徳川の一門・譜代が要地を固めました。そして1603年、家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開きます。ただしこの時点でも、秀頼への「臣下の礼」は取られていません。勝者の設計図には、まだ空白が残っていました。

第二幕

並び立つ二つの家——曖昧な十年(1603〜1613年)

幕府ができても、大坂城の豊臣家は徳川の家来になったわけではありません。秀頼は摂関家に並ぶ別格の存在であり続け、家康は孫娘の千姫を秀頼に嫁がせて縁を結びつつ、将軍職を秀忠に譲って「徳川の世襲」を既成事実にします。研究で「二重公儀」とも呼ばれるこの曖昧な並立の間、豊臣家は方広寺の大仏再建に金蔵を注ぎ込んでいきました。

第三幕

開戦の理屈——鐘の8文字(1614年夏)

大仏がついに完成へ向かった1614年、鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」を家康側が問題視し、開眼供養は直前で中止されます。弁明に奔走した且元は逆に大坂で疑われて退去し、交渉の糸が切れました。豊臣家が浪人を集め始めると、開戦は時間の問題になります。集まった浪人たちは、関ヶ原の戦後処理が生んだ「敗者の在庫」でした。

第四幕

冬の陣——攻めきれない城、埋められる堀(1614年冬)

徳川方約20万が大坂城を囲みますが、川と湿地に守られた城は固く、今福・鴫野の激戦でも堤防の柵を取り合うのが精一杯。城南に築かれた真田丸は、攻め寄せた徳川方に大損害を与えます。力攻めをあきらめた家康は大筒と交渉に切り替え、和議の条件として堀の埋め立てと真田丸の破却を勝ち取りました。戦いには耐えた大坂城が、和議で裸になります。

第五幕

夏の陣と終幕——裸城の決戦から元和偃武へ(1615年)

堀を失った大坂城に籠城の道はなく、豊臣方は城の外での決戦に賭けます。道明寺の霧で又兵衛が散り、若江で重成が倒れ、最後の5月7日、信繁は家康の本陣へ突撃して力尽きました。翌日、秀頼と淀殿が自害して豊臣家は滅亡。幕府は同じ年のうちに一国一城令と武家諸法度を出し、元号は「元和」へ。約150年続いた戦乱の時代が、ここで終わります。

使い方

このルートの歩き方

  • 「なぜ15年も待ったのか」を考えながら読む。家康は関ヶ原の時点で59歳。豊臣恩顧の大名が健在なうちは動けず、秀頼が成人して脅威が現実になり、自分の寿命が見えてきたとき、ようやく動いた。第二幕の「曖昧な十年」こそ、この物語の核心といえる。
  • 関ヶ原の一年とつなげると、話が一本になる。関ヶ原の一年を順にたどるから続けて読むと、七将襲撃(1599)から元和偃武(1615)まで、戦国の終わりの16年を通しで追える。
  • 人物から入ってもいい。浪人側なら信繁や又兵衛、豊臣側なら秀頼・淀殿・且元、間で引き裂かれた人ならガラシャ。それぞれのページの「次にたどる」から、このルートの各ページへ戻ってこられる。

このページは当サイト内の読む順番の案内で、各ページの内容と出典はそれぞれのページの「参考にした資料」に記載しています。

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