要点
- 大坂城の「水の守り」の際で戦われた。大坂城の北東は川と湿地に守られ、大軍が展開できない。徳川方は堤防づたいに城へ迫るしかなく、豊臣方は堤防に柵を築いて防いだ。戦えるのは堤の上だけ——それがこの戦いの特殊さになった。
- 二つの戦場が同じ日に動いた。11月26日未明、川の南岸・鴫野で上杉勢が、北岸・今福で佐竹勢が、それぞれ豊臣方の柵に攻めかかった。両岸の戦いは連動し、川ごしの銃撃も交わされた。
- 豊臣方は若手と浪人の代表が出た。今福では秀頼側近の若将・木村重成が反撃して佐竹勢を押し返し、さらに浪人衆の後藤又兵衛が城から駆けつけた。豊臣方の「譜代の若手」と「歴戦の浪人」が並んで戦った戦場だった。
- 最後は上杉の火力が決めた。苦戦する佐竹勢を上杉勢が救援し、激しい銃撃戦の末に木村・後藤勢は城へ退いた。上杉景勝は鴫野の戦いに勝利したと、本陣を置いた八劔神社の碑に記されている。
- 跡地は大阪市城東区に残る。景勝が本陣を置いた八劔神社、今福・蒲生の古戦場の碑や看板が今も残り、区が紹介している。
11月25日から26日の一昼夜(城東区の整理による)
- 0111月25日、上杉景勝が鴫野に着陣
家康の大坂出陣命令を受けて米沢から進軍してきた景勝は、鴫野に到着し、八劔神社の境内に本陣を構えた。
- 0226日未明、両岸で戦闘が始まる
鴫野では上杉勢が豊臣方の柵へ攻めかかり、双方に多数の戦死者を出す激戦になった。同じころ北岸の今福では、佐竹義宣が1,500の兵で突き進み、豊臣方の柵をことごとく占拠した。
- 03木村重成が反撃に出る
柵の陥落を知った木村重成が来援して反撃に転じ、佐竹隊は押し返された。さらに上杉勢が川ごしに木村勢を側面から攻撃する。
- 04後藤又兵衛が駆けつけ、戦闘が激化
木村勢の苦戦を見た後藤基次(又兵衛)が大坂城から遊軍を率いて駆けつけ、木村・後藤の兵が一斉に応戦。佐竹隊の先鋒が敗退し、徳川方は一時劣勢に陥った。
- 05上杉の救援と銃撃戦で決着
上杉景勝が救援に駆けつけて激しい銃撃戦となり、後藤・木村勢は大坂城へ退いた。以後、この方面で大きな戦闘はなく、戦線は真田丸のある城南へ移っていく。
この戦いの中心人物
| 立場 | この戦いでは | その後 | |
|---|---|---|---|
| 上杉景勝 | 徳川方・米沢30万石 | 鴫野で柵を破り、今福の救援も務めた。碑には「勝利した」と記される | これが事実上最後の合戦。米沢藩は幕末まで続く |
| 佐竹義宣 | 徳川方・秋田20万石 | 今福で柵を落とすが、木村・後藤の反撃で苦戦 | 秋田藩の基礎を固め、家は幕末まで続く |
| 木村重成 | 豊臣方・秀頼側近の若将 | 反撃を指揮して佐竹勢を押し返し、初陣で武名を挙げた | 翌年の夏の陣・八尾若江の戦いで戦死。その最期は敵からも称えられた |
| 後藤又兵衛(基次) | 豊臣方・浪人衆(大坂五人衆) | 遊軍を率いて今福へ駆けつけ、戦線を支えた | 夏の陣の道明寺の戦いで討死 |
徳川方の上杉と佐竹は、どちらも関ヶ原のとき西軍寄りだった家。14年後、ともに徳川方の先鋒としてこの堤防で戦っているところに、時代の変わり方が表れている。
今福・鴫野から、冬の陣を読む
- 上杉の1600年の「宿題」がここで終わった。直江状から会津征伐、長谷堂と、上杉は家康と直接戦わないまま120万石を失った。その上杉が14年後、今度は徳川方として大坂で戦い、勝った。景勝の生涯で最後の戦が、かつての敵の先鋒としての勝ち戦だったことは、戦国の終わり方そのものといえる。
- 大坂城の守りの固さを、逆に証明した。激戦の末に徳川方が得たのは堤防の柵まで。城の水の守りは破れず、家康は力攻めの限界を悟っていく。真田丸の敗戦と合わせて、砲撃と和議への転換を促した戦いだった。
- 豊臣方の「人材の層」が見えた戦い。譜代の若手・木村重成が名を挙げ、浪人衆の又兵衛が戦線を支えた。同時に、勝ちきる兵力はなく城へ退くしかないという限界も見えた。冬の陣の豊臣方を凝縮したような一日だった。