読み物ルート / 1560年〜1582年

信長のぶながの道を順にたどる

桶狭間で義元を討った1560年から、本能寺に倒れた1582年まで、ちょうど22年。織田信長おだ のぶながはこの間に、尾張の一大名から「天下」まであと一歩の場所まで駆け上がりました。このページは、その22年を五つの幕に分け、当サイトの個別ページを読む順番に並べた案内です。上から順に読めば、「なぜ信長は勝ち続けられたのか」と「なぜ最後に倒れたのか」が、同じ一本の物語として見えてきます。

五幕・約18ページ 桶狭間から始まる 包囲網の危機を越えて 本能寺と山崎まで

この22年の全体像——五つの幕

いつ何が起きたか
第一幕 尾張の若き当主〜1560年家中をまとめ、桶狭間で今川義元を討つ
第二幕 美濃と上洛1561〜1569年美濃を取り、足利義昭あしかが よしあきを奉じて京へ上る
第三幕 包囲網の危機1570〜1575年四方を敵に囲まれ、長篠でようやく流れを変える
第四幕 天下布武の頂点1576〜1582年春安土に城を築き、武田を滅ぼし、政権の形が見えてくる
第五幕 本能寺と、その先1582年夏家臣の謀反に倒れ、天下は秀吉の手へ移り始める
第一幕

尾張の若き当主——まず家を、それから東海を(〜1560年)

信長の出発点は「うつけ」の当主ではなく、分裂した織田家をまとめる内戦の日々でした。尾張をほぼ固めた矢先、東海最大の大名・今川義元が大軍で攻め込みます。迎え撃った桶狭間は、後世「奇襲の奇跡」として語られますが、砦の攻防と情報と決断を順に見ると、違う顔が見えてきます。

第二幕

美濃と上洛——「天下布武」の始まり(1561〜1569年)

桶狭間の後、信長は西へ向かいます。斎藤家の美濃を数年がかりで切り崩し、稲葉山城を落として本拠を岐阜へ。「天下布武」の印判を使い始めるのはこのころです。そして1568年、追放された将軍候補・足利義昭を奉じて上洛。京都を押さえたことで、信長は地方大名から「天下の政治」の当事者に変わりました。

第三幕

包囲網の危機——四方が敵になった五年(1570〜1575年)

上洛の代償は、四方の敵でした。浅井の裏切りで挟み撃ちになった金ヶ崎、雪辱の姉川、そして義昭・本願寺・武田らが連なる包囲網。信長の22年でいちばん死に近かったのがこの時期です。長篠で武田の騎馬軍団を破り、ようやく流れが変わります——その「三段撃ち」の実像も含めて。

第四幕

天下布武の頂点——安土から見えた景色(1576〜1582年春)

包囲網を抜けた信長は、琵琶湖畔に安土城を築きます。天守がそびえる城と城下町は、新しい政権の形そのものでした。1582年春には武田家を滅ぼし、残る敵は毛利・上杉・長宗我部など。ところがその四国方針の転換が、家中に思わぬひずみを生んでいきます。

第五幕

本能寺と、その先——22年の終わりと、11日間の後日談(1582年夏)

6月1日夕刻、明智光秀あけち みつひでは丹波亀山城から1万3千を率いて出撃し、翌未明、京都の本能寺を襲います。信長の死からわずか11日後、備中から駆け戻った秀吉が山崎で光秀を破り、さらにその2週間半後の清洲会議で、信長の遺産の相続争いが始まりました。信長の物語の結末は、そのまま秀吉の物語の始まりです。

使い方

このルートの歩き方

  • 「勝ち方」の変化を追うと面白い。桶狭間は決死の一戦、美濃は数年がかりの調略、包囲網は耐久戦、安土からは制度と経済。信長の強さの中身が幕ごとに変わっていくのが、順に読むと見えてくる。
  • 有名な場面は、検証つきで読める。迂回奇襲(桶狭間)、三段撃ち(長篠)、「敵は本能寺にあり」——このルートの名場面の多くは後世の軍記が磨いたもの。出どころの見分け方は信長公記と軍記物にまとめている。
  • 続きのルートへつながる。清洲会議から先の秀吉・家康の時代は、関ヶ原の一年大坂の陣への十五年で読める。三本を通すと、桶狭間から元和偃武まで55年の通し読みになる。

このページは当サイト内の読む順番の案内で、各ページの内容と出典はそれぞれのページの「参考にした資料」に記載しています。

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