人物ページ / 三河譜代・徳川家康の家臣

石川家成いしかわいえなり

石川家成とは?

徳川家康の家臣として三河の西側をまとめる立場(西三河旗頭にしみかわはたがしら)にあったのち、遠江の掛川城(今の静岡県掛川市)に入った武将です。

石川家成の名は、徳川家康の家臣のなかで西三河をまとめる立場として残っています。どこで生まれ、いつ家康に仕えはじめたのかは、たどれる資料が限られます。
家康が今川氏真の籠る掛川城を囲んだとき、家成は包囲のために築かれた砦のひとつ、長屋砦にいました。桑田村を酒井忠次とともに柵を結んで守っていたと伝わります。
城の兵糧が尽き、5月17日に今川氏真が開城要求を受け入れて伊豆へ退きます。掛川城は徳川方の城となり、遠江の東側を押さえる拠点として使われはじめます。
徳川方の拠点となった掛川城に、家成が入ります。
徳川の初期の大垣を治めたのは石川氏三代で、家成はその二代目です。

西三河旗頭——家康のもとで、西三河をまとめる立場にいた

石川家成は徳川家康の家臣で、西三河旗頭(西三河の武士をまとめる立場)にあった。

家成の名前がはっきりした形で残っているのは、この西三河旗頭という立場と、このあとに続く掛川・大垣での動きである。

旗頭という位置 一人の武将としてより、一帯を任される立場

西三河旗頭と呼ばれる以上、家成の下には西三河の武士たちが置かれていた。家康が三河の内側を固めていた時期に、その西半分をまとめる位置にいたことが、家成について確かめられる出発点である。

石川という名字 徳川の家臣に、石川姓が複数いる

徳川家康の家臣には石川を名字とする者が複数おり、家成のほかに石川数正の名が知られる。数正自身の経歴は、数正のページで扱う。

1568年12月・掛川城攻め——長屋砦で、桑田村を柵で囲って守った

永禄11年(1568)12月、武田信玄たけだ しんげんが駿府へ攻め込むと、今川氏真は重臣の朝比奈泰朝あさひな やすともの居城である掛川城へ逃れた。同じころ遠江へ入った徳川家康は、12月18日に引間城(浜松城)へ入り、27日には掛川城へ迫る。家康は城を包囲して城下に火を放ったものの、正面から攻め込まずに周囲へ付城つけじろ(相手の城を囲むために築く小さな城)を並べていった。

この付城のひとつが長屋砦である。永禄11年12月のこととして、長屋砦では桑田村に酒井忠次と石川家成が柵を結んで守っていたと伝わる。家成の動きとして今たどれるいちばん古い記述が、この配置である。

付城という囲み方 攻め落とすより、見渡して孤立させる

掛川城を囲んだときの付城は、高いところから城を見渡すことを主眼に置いて築かれた。家康は同時に、周りの国人領主や在地の土豪へ本領安堵(今の所領をそのまま認めること)を約束して味方に引き入れ、城に籠る氏真を孤立させていった。長屋砦で桑田村を柵で守ったことも、この付城のひとつである。

砦ごとの顔ぶれ 名前は、配置の記録として残っている

掛川城を囲んだ付城には、それぞれ守り手の名が伝わる。家康自身は翌正月17日、本陣を城から約900メートルの天王山に置いた。家成の名も、こうした砦ごとの配置の記録のひとつとして残っている。

1569年5月・開城——氏真が城を出て、掛川城は徳川方の城になった

包囲が長引き、5月に入って城の兵糧が欠乏すると、17日、今川氏真は開城要求を受け入れて伊豆へ退去した。戦国大名としての今川氏はここで終わり、掛川城は徳川方の城に変わる。1568年12月に付城の一つを守っていた家成が、次にこの城と関わるのは、この城への入城としてである。

掛川城へ入る——西三河旗頭からの「転身」

徳川方の確かな拠点となった掛川城に、石川家成が入った。西三河をまとめる立場から遠江の城を預かる立場へ移ったこの動きは、「転身」という言い方で整理されている。家康にとって掛川城は重要な城で、そこへ西三河旗頭を置いたという配置そのものが、この城の重さを示している。

家成が入城した年は、はっきりした形では伝わっていない。この入城に触れた記述は、天正2年(1574)11月付と天正3年(1575)6月付の文書を並べた流れのなかに置かれている。永禄12年(1569)とする書き方も広く出まわっているが、この講演資料に年の記載はない。

三河から遠江へ 内側を固める役から、城を預かる役へ

西三河は家康が育った土地の内側で、掛川は遠江の東側を押さえる拠点である。三河の内側をまとめていた家成が、遠江の城へ移った。

1590年 家成のあと、掛川城には山内一豊が入った

天正18年(1590)、事実上の天下統一を果たした豊臣秀吉とよとみ ひでよしの命により、掛川城には山内一豊が入城する。一豊は戦乱で傷んだ城の大改築を行い、あわせて城下町を整えた。

美濃大垣——「石川氏三代」の二代目

江戸時代の初め、美濃の大垣(今の岐阜県大垣市)を治めたのは石川氏である。徳川の初期の大垣をたどると、まず「石川氏三代」が置かれ、石川長門守康通、石川日向守家成、石川主殿頭忠総の順に並ぶ。家成はその二代目にあたり、日向守を名乗った。

石川氏の三代のあとは、松平(松久)氏が甲斐守忠良・因幡守憲良の二代、次いで岡部氏が二代と続く。徳川の初期の大垣は、ひとつの家が長く居座る土地というより、数代ごとに城主が替わる土地だった。家成の名は、その入れ替わりのいちばん早い段階に現れる。

大垣という土地 関ヶ原の直前まで、西軍が入っていた城

大垣城は、関ヶ原の戦いのとき西軍が入り、城中で軍議が開かれ、そこから西軍が関ヶ原へ移動した城である。本戦のあとに大垣は開城し、徳川の初期の城主として石川氏三代が入った。

三代の並び どこまで治めたかは、たどれる範囲が限られる

三代の順序は残っているが、それぞれが何年から何年まで大垣にいたのか、石高がどれだけだったのかは伝わっていない。家成が掛川からどう大垣へ移ったのかも分かっていない。

石川家成の疑問に答える

石川数正との関係は? 生没年は?

いずれも公的な資料に記述がない。石川数正が家成の甥にあたる、あるいは従兄弟にあたるという書き方は広く見かけるが、掛川市・岐阜県図書館の資料をたどった範囲では、二人の血縁を明示した記述に行きあたらなかった。生年を1534年、没年を1609年とする書き方も同じで、裏づけになる公的な記述は確かめられていない。

掛川城の攻防は「半年」? それとも「5か月」?

資料によって書き方が分かれる。掛川市の説明では、1568年に武田信玄に追われて掛川城へ逃げ込んだ今川氏真を家康が攻め、半年に渡る攻防戦の結果として家康が城を手に入れた、という書き方をする。いっぽう、市が公開している講演の資料では、5か月を越える籠城戦の末、和睦による開城に至ったという整理をとる。開城の日を5月17日とする点は共通しているので、数え方と、開城を「攻め取った」と見るか「和睦の結果」と見るかの違いである。

「日向守」とは何のこと?

大垣の城主として並ぶ三代は、石川長門守康通、石川日向守家成、石川主殿頭忠総と書き分けられている。日向守は家成につけられた呼び名で、同じ石川の名字が続くなかで人を区別する手がかりとして働いている。

大垣の城主は、石川氏のあとどうなった?

石川氏三代のあとは、松平(松久)氏、次いで岡部氏が城主を継いだ。大垣は関ヶ原の戦いの直後に徳川方が押さえ直した城で、そこへ石川氏、松平氏、岡部氏と、徳川に近い家が順に入っていった。

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参考にした資料