菅沼定盈とは?
天文11(1542)年に三河の野田(今の愛知県新城市)で生まれた、野田城の城主です。今川氏から離れて家康に従い、天正元(1573)年には武田信玄の大軍を、わずかな城兵とともに野田城で1か月余り防ぎました。
城を出て武田方に捕らえられたのち、人質と交換されて徳川方に戻り、長篠の戦いや小牧・長久手の戦いにも加わりました。家康の関東入国後は阿保で1万石を与えられたと伝わり、慶長9(1604)年に伊勢の長島で亡くなりました。
野田の菅沼氏——今川から家康へ
野田城は、永正13(1516)年に菅沼定則が築いたと伝えられる。新城市の解説によれば、菅沼家は田峯から来た一族で、野田城を築いて東三河を代表する豪族の一つとなった。定盈は天文11(1542)年に野田で生まれた。新城市は、定盈が家康と同じ年に生まれ、家康と同じように父を早く亡くすなど似た境遇で育ったと紹介している。永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間で戦死すると、野田の菅沼氏は翌年、今川方から松平(徳川)方に転じた。
野田城の戦い——小さな城で武田の大軍を防ぐ
元亀3(1572)年12月、三方ヶ原の戦いで家康を破った武田信玄は、翌年正月、宇利峠を越えて野田城を囲んだ。新城市の解説は、武田勢を2万を越える大軍、城を守る兵をわずか400人と書く。信玄は力攻めを避け、金掘りの人足を使って城の井戸の水を抜かせたという。家康は救援に出て旗頭山まで来たものの、大軍に向かうことができずに引き返した。設楽原歴史資料館の解説によれば、定盈は1か月余り持ちこたえたが、水を断たれ、援軍も来ないなかで城を出た。新城市の解説によれば、城主が人質として出てくれば兵はみな助けるという矢文を受け、定盈は兵を助けるために城を出たという。
城を出た日と人質交換 資料によって日付が分かれる
東京大学史料編纂所の紹介によれば、『大日本史料』は、信玄が2月中旬に野田城を攻め落として守将の定盈と松平忠正らを捕らえ、家康との交渉ののち、家康のもとにいた奥平貞勝らの人質と交換したことを、2月17日の条に収める。一方、愛知県の調査報告は、2月10日に二人が城を出て長篠に閉じこめられ、その月の15日に、山家三方衆(作手の奥平氏と、田峯・長篠の両菅沼氏)の人質と交換されたと書く。同じ愛知県の『愛知県史』は、2月15日に二人が城を出たとしている。
伝わる話 信玄は野田城で撃たれたのか
野田城の戦いでは、城内で笛の名人が吹く笛に聞きほれた信玄を、鉄砲の名人が撃ったという話が伝わる。信玄を撃ったとされる火縄銃は「信玄砲」と呼ばれ、新城市の文化財として設楽原歴史資料館で展示されている。史料編纂所は、信玄の死因を野田城攻めでの鉄砲傷とする話を「俗説」とし、徳川方で早くから語られていたと紹介している。
信玄の兵はこのあと3月に東美濃に出たが、信玄自身はすでに病んでおり、甲斐へ帰る途中にあったようだと史料編纂所は書く。信玄が亡くなったのは4月12日である。
長篠と小牧——徳川方の案内役として
新城市設楽原歴史資料館の解説によれば、信玄の攻撃で大きな被害を受けた野田城を修理するため、定盈は一時的に居城を大野田城に移していた。愛知県の調査報告は、大野田城に移ったのを永禄6(1563)年のこととしている。資料館の解説によれば、天正3(1575)年、長篠・設楽原の戦いが始まる直前に大野田城は武田勝頼に攻められ、籠城は無理と考えた定盈は城に火を放って退いたといわれる。長篠・設楽原の戦いでは、定盈は織田・徳川方として参戦した。『寛政重修諸家譜』は、定盈が道案内として先陣を務め、酒井忠次に従ったと書く。
小牧・長久手の戦い 小牧山と小幡城を守る
天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いで、『寛政重修諸家譜』は定盈が4月に小牧山の要害を守り、10月16日からは小幡城を守ったと書く。『愛知県史』も、家康が小幡城に松平家忠・菅沼定盈らを置いたと記す。
大野田城が攻められた年 資料によって分かれる
大野田城が武田方に攻められた年は資料によって違う。設楽原歴史資料館の解説は天正3年の勝頼の攻撃を書き、愛知県の調査報告は元亀2(1571)年4月の信玄の攻撃で大野田城が焼け、定盈は同年12月に野田城へ戻ったとする。
関東入国と晩年——阿保から長島へ
天正18(1590)年、定盈は小田原征伐に従った。家康の関東移封にともない、野田城は廃城となった。『寛政重修諸家譜』によれば、定盈は野田から阿保に移されて1万石を与えられ、のちに家督を譲って阿保に住み、さらに伊勢の長島へ移った。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居番を務め、慶長9(1604)年7月18日に長島で亡くなった。63歳だった。長島の幸春院に葬られ、この寺はのちに宗堅寺と名を改めた。
史跡になった野田城 土塁と井戸が残る
野田城跡は昭和33(1958)年4月1日に新城市の史跡に指定された。丘の先端に三つの曲輪を連ねた城で、いちばん奥の主郭には土塁と素掘りの井戸が残る。たび重なる攻撃のたびに城を取り戻して直した結果、天正元年には武田軍と籠城戦ができるほど堅固になっていたと推測されている。
阿保の書き方 『寛政重修諸家譜』の記述
『寛政重修諸家譜』は阿保を「上野國阿保」と記す。阿保での事績を伝える自治体の資料は、今回あたった範囲では見つからなかったため、このページでは同書の記述として紹介している。
野田菅沼家のその後
定盈の子の定仍は、慶長6(1601)年に阿保から伊勢の長島城に移って2万石を領した。その弟の定芳は兄の跡を継ぎ、元和7(1621)年に長島から近江の膳所城へ移されたことが『大日本史料』に見える。定芳はのちに丹波の亀山城主となり、亀岡市の資料によれば、寛永20(1643)年に亡くなった際には宗堅寺の境内に墓石が建てられた。子孫は慶安元(1648)年から新城の陣屋に入り、明治維新まで新城を治めたと新城市は紹介している。
菅沼定盈の疑問に答える
信玄は野田城で撃たれて亡くなったの?
そうした話が伝わる一方で、史料編纂所は鉄砲傷による死を「俗説」と紹介し、愛知県の調査報告は実際は病死だったとする。信玄は野田城の戦いのあと、甲斐へ帰る途中で4月12日に亡くなったとされる。
定盈は野田城で降伏したの?
資料によって書き方が違う。史料編纂所は信玄が城を「攻め陥した」と書き、設楽原歴史資料館は「開城降伏」とし、新城市の解説は兵を助けるため人質となることを承知して城を出たとする。そのあと定盈が人質と交換されて徳川方に戻ったことは、史料編纂所の紹介、新城市の解説、愛知県の調査報告、『寛政重修諸家譜』が一致して書いている。
野田城には、どれくらいの兵がいたの?
城兵の数は資料によって違う。新城市の解説は400人、愛知県の調査報告は400余人とし、『寛政重修諸家譜』が引く家伝の話は「千余」とする。武田勢については、新城市の解説が2万を越えると書いている。
参考にした資料
- 東京大学史料編纂所『所報』第6号「大日本史料第十編之十四」(正月の囲城と2月中旬の陥落・定盈と松平忠正の捕縛と奥平貞勝らの人質との交換〔2月17日の条〕・菅沼家譜の鉄砲傷説を俗説とすること・信玄の兵の東美濃進出と信玄の帰国・4月12日の死去)
- 新城市「しんしろ家康紀行 其の四 武田信玄最期の城攻め『野田城』」(田峯から来た菅沼家・家康と同じ年・2万を越える武田勢と400人の城兵・井戸の水を抜く策)
- 新城市「しんしろ家康紀行 其の五 家康、苦渋の決断『旗頭山』」(家康の救援と引き返し・矢文と定盈の出城・人質交換)
- 新城市「野田城跡」(市指定史跡と指定日・菅沼定則の築城・永禄4年の今川氏真による落城・信玄砲・縄張りと主郭の井戸)
- 新城市設楽原歴史資料館「野田城」解説パンフレット(永正13年の築城・桶狭間後の徳川方への転身・大野田城と天正3年の勝頼の攻撃・長篠・設楽原の戦いへの参戦・天正18年の廃城)
- 新城市設楽原歴史資料館「古戦場を訪れる」(1か月余りの籠城と開城降伏・笛と狙撃の話)
- 新城市「新城城跡(新城陣屋跡)」(慶安元年から菅沼氏の子孫が新城を治めたこと)
- 新城市「国指定史跡長篠城跡」(天正3年に家康が奥平貞昌〔信昌〕を城主に任じたこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重脩諸家譜』第2輯(國民圖書、1923年)(天文11年の誕生・永禄4年の家康への帰属と5年の野田城奪還・遠江攻めの先陣・家伝の城兵「千余」・人質交換・長篠での道案内・小牧山と小幡城・阿保1万石・長島への移住・江戸城留守居番・慶長9年7月18日の死去と幸春院・定仍の長島2万石)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『愛知県史蹟名勝天然紀念物調査報告』第9(愛知県、1931年)(永禄5年の野田城奪還・天正元年の籠城と400余人の城兵・2月10日の出城と15日の人質交換・永禄6年の大野田城への移転と元亀2年の焼失・信玄は病死とする見方)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『愛知県史』第1巻(愛知県、1935年)(永禄11年の遠江攻めでの招降・2月15日に城を出たとする記述・小幡城に松平家忠と菅沼定盈を置いたこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』第12編之38(東京大学史料編纂所)(元和7年に菅沼定芳が長島から膳所へ移されたこと)
- 亀岡市「文化財の指定候補」(寛永20年に亀山藩主菅沼定芳が亡くなった際、宗堅寺の境内に墓石が建てられたこと)
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- 2026年10月1日 野田城の戦いのあと「信玄自身が3月に東美濃へ出た」と書いていましたが、出典の史料編纂所の紹介では、東美濃に出たのは信玄の兵で、信玄自身は甲斐へ帰る途中にあったようだとされているため、その旨に訂正しました。