松平家忠とは?
三河国深溝(今の愛知県額田郡幸田町深溝)を治めた深溝松平家の四代目当主で、家康の家臣として18年の日記を書き残し、1600年に伏見城で討死した武将です。
深溝の四代目——三河の一角を領した松平の分家に生まれた
松平家忠は1555年に生まれた。家は深溝松平家といい、戦国時代に分かれた松平氏の一家である。三河国深溝、今の愛知県額田郡幸田町深溝を領地としたことから、この名で呼ばれる。家忠はその四代目の当主にあたる。当主となった後は徳川家康の下で軍功を重ね、あわせて岡崎、浜松などで城普請(城を築き整える土木工事)に従事した。
十八松平 深溝を領地とした、松平氏の一家
深溝松平家は、戦国時代に分立した松平氏の一家で、江戸時代には十八松平(江戸期に数えられた松平の分家)の一つに数えられた。初代忠定が深溝の地を本拠としたことに始まり、四代の家忠まで深溝を領地とした。家忠の代に、家康の関東移封(領地をまとめて別の国へ移すこと)に従って深溝を離れる。
本光寺 一家の墓を置いた、深溝の寺
深溝松平家の菩提寺(一家の墓を置く寺)は、深溝にある瑞雲山本光寺である。15世紀の初め、深溝の地に深溝松平家の菩提寺として創建された。境内の墓所は西廟所と東廟所の二か所に分かれ、西廟所の中央に初代忠定から四代家忠までの墓地が置かれている。
日記を書き始める——1577年から1594年まで、18年分
家忠は1577年10月頃から日記を書き始めた。家忠の自筆で、全7冊にまとめられている。この18年は、家康が織田信長と連携しながら武田氏・北条氏と対抗していた時期から、豊臣秀吉に次ぐ地位を固めていった時期と重なる。
残った数 織豊期の武家の日記で、まとまって残るのは二つ
織豊期(織田信長と豊臣秀吉の時代)の武士の日記で、まとまって現存するのは、薩摩の『上井覚兼日記』とこの『家忠日記』の二つとされる。家康のそばで仕えていた者が自筆で書き、しかも18年という長さで続いた記録である。
書き残されたもの——大事件と、連歌や鷹狩の日々
日記には、信康(家康の嫡男)自害の一件、武田氏攻略の一連の経過、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなど、重要な事件の記録が随所に見える。同時に、連歌、茶の湯、鷹狩、深溝本光寺への参詣といった家忠自身の日々の行いも書き留められている。政治の動きと日常の行動が、同じ帳面の中に並ぶ。
1578年8月 田中城で「苅田」に赴いたと記す
天正6年(1578年)8月22日と26日、家忠は「苅田」に赴いたと記している。苅田は敵地の田畑の作物を刈り取る行為を指す。場所は駿河国田中城、今の静岡県藤枝市で、家康による武田勝頼方の田中城攻めの場面にあたる。どこへ何をしに行ったかが、日付とともに残されている。
呼び名の変化 「家康」から「家康様」へ
小牧・長久手の戦い以降、日記の中で家康を指す呼び方が「家康」から「家康様」などへ変わっている。同じ書き手が同じ主君を長く書き続けた記録なので、この変化から家康の政治的な地位が上がったことを読み取れる。呼称の移り変わりを追える点は、長期の日記だからこそ生じる。
原本と写本——駒澤大学と内閣文庫に、別々に伝わる
『家忠日記』は、家忠自筆の原本と、書き写された写本の両方が今に伝わる。自筆の原本7冊は東京都世田谷区の駒澤大学にあり、2020年9月30日に国の重要文化財に指定された。写本は国立公文書館の内閣文庫(江戸幕府の蔵書を引き継いだ書物群)にも所蔵されている。こちらも7冊で、記述の期間は天正5年から文禄3年まで、自筆の原本と同じである。内閣文庫の写本は昌平坂学問所(江戸幕府が置いた学問所)の旧蔵である。
孫の代 忠房が整理し、『増補追加』が編まれた
孫にあたる忠房の代に『家忠日記』の整理が行われた。その際、日記の記事より後の出来事を書き加える形で『家忠日記増補追加』が編述され、忠房自身が跋文(本の末尾に添える後書き)を書き添えている。
桐箱の署名 8代あとの当主が、蓋に名を記した
原本を納めた桐箱の上蓋には、家忠から8代あとの島原藩主・松平忠馮の署名がある。日記そのものだけでなく、それを納めた箱にも、代々の当主が手を加えた跡が残っている。
伏見城での最期——忍への移封のあと、守備を命じられた
家康が関東へ移されると、家忠も武蔵国忍へ移された。深溝を領地としたのは家忠の代までで、家はここで三河を離れる。1599年、家忠は伏見城の守備を命じられた。伏見城は今の京都市伏見区にあった城である。翌1600年、関ヶ原の戦いの直前に、家忠は伏見城で討死した。
1599年 伏見城の守備を命じられた
家康の関東移封に従い、家忠は武蔵国忍へ移った。1599年から伏見城の守備を命じられ、そのまま翌年を迎える。日記の記述が途切れた1594年から数えて、5年後のことである。
1600年 攻めた側の書き方は、資料によって分かれる
家忠が1600年に伏見城で討死したことは、複数の公的機関の資料が一致して記す。一方で攻めた側の書き方は分かれ、「西軍の猛攻を受けた」と記すものと、「小早川秀秋らの攻撃を受けた」と記すものがある。攻防の経過は伏見城の戦いにまとめる。
家忠のあと——深溝を離れた家が、島原まで移った
家忠の死の翌年、深溝松平家は三河へ戻る。その後は三河の内外を転々とし、やがて九州の島原へ移った。それでも歴代当主の遺骸は、死没した土地にかかわらず深溝まで運ばれて葬られた。
1601年 五代忠利が、三河に戻った
五代忠利は1601年に1万石の大名として三河に戻り、深溝西郡藩主となった。のちに三河吉田藩主として移される。西廟所の中央に置かれた初代から四代までの墓地の東側には、忠利をまつる肖影堂が建つ。
1669年 六代忠房が、肥前島原へ移った
六代忠房は三河刈谷藩主、丹後福知山藩主を歴任したあと、1669年に肥前島原、今の長崎県島原市へ移された。深溝松平家はこの地で幕末を迎える。忠房は家忠の孫にあたり、松平島原藩の初代でもある。
埋葬の慣行 死没地にかかわらず、深溝へ運んだ
江戸時代の大名は、江戸と領地に墓所を造るのが一般的だった。深溝松平家は、当主の遺骸を死没地にかかわらず深溝の本光寺まで運んで埋葬する方法を続けた。深溝への埋葬は五代忠利の遺命によると伝わる。
松平家忠の疑問に答える
家康の家臣なのか、松平の一族なのか
どちらでもある。深溝松平家は戦国時代に分立した松平氏の一家で、家忠はその四代目の当主にあたる。同時に家忠は家康の家臣として軍功を重ね、家康の関東移封に従って領地を移した。日記の中で家康の呼び方が「家康」から「家康様」へ変わっていくのも、家康の地位が上がったことの反映として読み取れる。
深溝は今のどこで、何が残っている?
今の愛知県額田郡幸田町深溝である。町の南部にあたり、その東に広がる山あいに深溝松平家の菩提寺・瑞雲山本光寺がある。境内の墓所は「島原藩主深溝松平家墓所」として、2014年3月18日に国の史跡に指定された。指定の面積は約5万平方メートルで、西廟所の中央に初代忠定から四代家忠までの墓地が置かれている。
家忠を攻めたのはだれ?
1600年、関ヶ原の戦いの直前に家忠が伏見城で討死したことは、公的機関の資料が一致して伝える。攻めた側の書き方は資料によって分かれるため、ここでは断定しない。城をめぐる攻防そのものは伏見城の戦いで扱う。
参考にした資料
- 幸田町「国指定史跡島原藩主深溝松平家墓所」(深溝松平家が十八松平の一家であること・深溝を領地としたこと・四代家忠まで深溝を領地としたこと・本光寺の創建と西廟所/東廟所・五代忠利以降の移封・死没地にかかわらず深溝へ運んで埋葬する方法・2014年3月18日の国史跡指定と指定面積)
- 文化庁 文化遺産オンライン「松平家忠日記」(家忠の生没年と四代目当主であること・軍功と岡崎・浜松の城普請・関東移封と武蔵国忍・1599年からの伏見城守備・記録期間1577年10月頃〜1594年9月頃の18年・日記に見える重要事件・連歌や茶の湯など日々の内容・「家康」から「家康様」への呼称の変化・1600年に小早川秀秋らの攻撃を受けて落命したこと・自筆原本7冊が駒澤大学にあることと2020年9月30日の重要文化財指定)
- 文化庁 文化遺産オンライン「島原藩主深溝松平家墓所」(初代忠定に始まる深溝松平家の成り立ち・四代家忠の時の関東移封・五代忠利の1601年の三河復帰・六代忠房の1669年の肥前島原転封・西廟所中央の初代から四代までの墓地と肖影堂・深溝への埋葬が五代忠利の遺命と伝わること)
- 国立公文書館「歴史と物語 31.家忠日記」(1578年8月22日・26日に駿河国田中城で「苅田」に赴いた記述・苅田が敵地の作物を刈り取る行為であること・田中城が今の静岡県藤枝市にあること・館蔵本が全7冊で昌平坂学問所旧蔵であること)
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「家忠日記」目録(内閣文庫が写本7冊を所蔵すること・請求番号163-0062・記述の年代が天正5年から文禄3年であること)
- 島原市「ふるさと再発見『松平家忠と家忠日記』」(生没年・三河国深溝を本領としたこと・忠房の祖父であること・1600年に伏見城で西軍の攻撃を受け討死したこと・原本が駒澤大学に伝わること・織豊期の武士の日記でまとまって残るのが二つであること・呼称の変化・忠房による整理と『家忠日記増補追加』・跋文・桐箱の上蓋の松平忠馮の署名)