人物ページ / 秀忠の側近・老中・佐倉城と古河城の城主

土井利勝どい としかつ

土井利勝とは?

徳川秀忠が生まれた天正7(1579)年に7歳で秀忠付きとなり、秀忠・家光の二代のもとで年寄(のちの老中)として幕府の政治の中心に立ち、今の千葉県佐倉市に佐倉城を築いて、今の茨城県古河市の古河城主となった人物です。

家康・秀忠・家光の三代に仕え、寛永15(1638)年には「大老」になったとされます。

元亀4(1573)年に三河で生まれ、7歳で秀忠の傅役もりやくとなります。関ヶ原の戦いには秀忠とともに中山道を進みました。
慶長15(1610)年に佐倉へ移り、翌年から7年ほどをかけて佐倉城と城下町を整えます。
元和8(1622)年に本多正純が失脚すると、利勝は名実ともに幕政の最高実力者になります。
寛永10(1633)年、佐倉から古河へ移り、御三階櫓ごさんかいやぐらを築いて城下町を広げます。
寛永15(1638)年に老中の日々の仕事を離れ、寛永21(1644)年に72歳で没しました。

秀忠のそばで——7歳で付けられ、関ヶ原は秀忠とともに

利勝は元亀4(1573)年、三河で生まれた。家康に仕えた土井利昌の子とされ、利昌の養子になったと書く資料もある。天正7(1579)年に家康の三男・秀忠が生まれると、利勝は7歳で秀忠の傅役(幼い主君のそばで育てる役)に取り立てられた。

1600年 秀忠に従い、関ヶ原の決戦には間に合わなかった

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、利勝は秀忠に従って江戸から中山道を西へ向かった。信濃の上田で西軍の真田昌幸さなだ まさゆきと戦うことになったため、秀忠の軍は決戦に間に合わなかった。慶長10(1605)年に秀忠が将軍になると、利勝も従五位下・大炊頭おおいのかみに任じられ、秀忠の側近としての立場を固めた。

小見川の領主 1万石の領地で、植林と堰と堤

慶長7(1602)年、利勝は1万石で下総国小見川おみがわ(今の千葉県香取市)の領主となった。雑木林だった仁良村の山に建築材になる針葉樹を植えるよう勧めたといわれ、慶長10(1605)年には田部村周辺の田の水を確保する橘堰を築いたとされる。元和年間には、田部村・竹之内村の稲を水害から守る長さ700間の堤防も築いたとされる。植林を指導した地と堤防のあった場所は香取市の史跡に、橘堰は名勝に指定されている。

佐倉城を築く——7年をかけた、江戸の東の要

慶長15(1610)年、利勝は小見川から佐倉へ3万2千石で移された。佐倉城のある台地は、戦国時代に千葉氏一族の鹿島幹胤もとたねが城を築いたと伝わる場所である。利勝は翌慶長16(1611)年1月から築城と城下町の整備を始め、元和3(1617)年に完成させた。完成を元和2(1616)年とする資料もある。

城の形 沼と川に囲まれた台地の先に、土の守り

佐倉城は、北に印旛沼いんばぬま、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地へ西向きに突き出した、標高30メートル前後の台地の先端にある。水堀・空堀・土塁・馬出うまだしをめぐらせ、東へ続く台地の上に武家屋敷と町屋を置いて城下町とした。記録には「日本三城の内と言伝る」と書かれている。

領地と道 4万5千石から14万2千石へ、江戸への街道も整う

利勝の所領は、慶長17(1612)年に4万5千石、寛永2(1625)年に14万2千石へと加増された。利勝が藩主になると江戸と佐倉を結ぶ街道も整えられ、近くの大名も参勤交代に使う道になった。この道はのちに成田街道と呼ばれる。佐倉城はその後も老中を務める大名が多く入り、俗に「老中の城」とも呼ばれた。

年寄として——本多正純の失脚後、幕政の中心に

慶長15(1610)年には、家康の命で秀忠付きの年寄(のちの老中)になった。元和8(1622)年に家康の有力な側近だった本多正純が失脚すると、利勝は名実ともに幕政の最高実力者となる。元和9(1623)年に秀忠が将軍職を家光に譲ったあとも、利勝は家光を支えた。たびたび京都へ上って朝廷との交渉にあたり、寛永12(1635)年の参勤交代の制度化や、翌年の寛永通宝の鋳造ちゅうぞうも、利勝が幕府の体制を整えた仕事に数えられている。

柳川一件 対馬の国書事件の尋問は、利勝の屋敷で

寛永10(1633)年、対馬藩主の宗氏と重臣の柳川氏の争いが、朝鮮との国書の改ざんを幕府に明かす事件に発展した(柳川一件)。寛永11(1634)年10月ごろから始まった関係者の尋問は、老中の利勝・酒井忠勝・松平信綱まつだいら のぶつなが主導し、多くは利勝の屋敷で行われた。尋問には大目付の柳生宗矩やぎゅう むねのりらも同席している。寛永12(1635)年3月11日、江戸城本丸の大広間で家光の前で両者が対決したとき、利勝は井伊直孝いい なおたか・松平忠明まつだいら ただあきとともに、幕府側の席でもっとも将軍に近い位置に座った。

京都の屋敷 屋敷の跡を示す石標が、市内に建っている

利勝は京都にも屋敷を持っていた。京都市中京区の油小路通押小路下る西側(京都堀川音楽高校内)に「大老土井利勝屋敷跡」の石標が、昭和45(1970)年に京都市によって建てられている。利勝は老中と大老を合わせて34年務め、子孫も老中や京都所司代になった。

古河城主——16万石と御三階櫓

寛永10(1633)年、利勝は佐倉から下総の古河へ移った。石高は16万石とも16万2千石とも書かれ、歴代の古河城主の中でもっとも大きな藩領である。古河は、足利成氏あしかが しげうじをはじめとする古河公方の居城があった町で、利勝はここで御三階櫓を築き、城を整え、城下町を広げた。亡くなる寛永21(1644)年まで、利勝は古河の城主だった。

御三階櫓 天守にあたる櫓ができ、古河城が完成した

利勝のころ、本丸の天守にあたる御三階櫓ができ、名実ともに古河城が完成したと考えられている。古河藩が藩士のために用意した武家屋敷の一つ(今の鷹見泉石記念館)は、利勝が御三階櫓を造ったときの余った材木で建てたと伝わる。

正定寺 寛永10年に開いた寺が、土井家の墓所になった

利勝は古河へ移った寛永10(1633)年、玄哲を開山として浄土宗の正定寺しょうじょうじを開いた。土井家の墓所はもとは浅草の誓願寺せいがんじにあったが、昭和2(1927)年12月に歴代の墓とともに正定寺へ移された。利勝夫婦の墓を含む土井家の墓所は、古河市の史跡になっている。

「大老」——日々の仕事を離れ、大事だけを扱う

利勝は次第に体調を崩し、寛永15(1638)年に老中の実務を離れた。この年の11月7日に利勝と酒井忠勝が老中を免じられた際に命じられたのは、細かな用務を免除され、毎月1日・15日・28日の定例の登城日だけ出仕し、朝廷に関わる用務と大きな案件だけを扱う、という務め方だった。何でも処理する忙しい職から退き、重要なことだけに関わる立場である。

呼び名 「大老」は、あとの時代の言い方かもしれない

利勝と酒井忠勝を最初の大老とする説明は多く、多くの辞書が利勝を大老に数える。その根拠は、江戸時代後期の19世紀前半にまとめられた『徳川実紀』の「これ今の世にいふ大老なり」という一文などにあるとみられる。ただし同時代には、大老という役職名はまだ定まっていなかった。『徳川実紀』の書き方には、まとめられた時代の考え方による書き換えがあり、利勝が実際に何を担ったかから大老との関係を考える必要がある、と指摘する研究もある。

最期 72歳で没し、晩年の肖像が古河に残る

利勝は寛永21(1644)年、72歳で没した。古河の正定寺には、晩年の利勝を描いた衣冠束帯姿の肖像画(縦80センチ・横37センチ)が伝わる。黒地の束帯に土井家の表紋、裾すそに替紋の沢潟おもだかをあしらい、太刀を帯びて座る姿で、昭和39(1964)年に茨城県の文化財に指定された。

土井利勝の疑問に答える

土井利勝は家康の隠し子だった?

確かめられない。利勝には生前から家康の落胤らくいん(正式には認められていない実子)だという風評があり、のちに土井家の家臣たちは家譜を「実ハ家康君ノ御子ナリ」というような文言で飾った。近年は実の父を家康、養父を利昌とする説が有力視されている、と書く資料がある一方、水野信元みずの のぶもとの子とする説もある。資料によって「風評」「説」「有力視」と書き方が分かれ、一つには決められない。

佐倉城には何が残っている?

城の建物は、明治6(1873)年に陸軍の佐倉営所が置かれたのち順に取り壊された。城跡は昭和37(1962)年に佐倉市の史跡に指定され、今は佐倉城址公園になっている。城跡の中には国立歴史民俗博物館も建っている。

古河城には何が残っている?

ほとんど残っていない。明治6年の廃城令で建物は競売にかけられて取り壊され、明治43(1910)年から始まった渡良瀬川の改修工事で、本丸を含む南西の半分が川の中に沈んだ。今は北東の一部に土塁がわずかに残り、蓮田に百間堀の跡がうかがえるだけである。

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参考にした資料

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