人物ページ / 1587年〜1662年・徳川家光の老中、若狭小浜藩主

酒井忠勝さかいただかつ

酒井忠勝とは?

徳川家光の老中・大老を務めながら、今の福井県小浜市を中心とする若狭小浜11万3,500石を領し、家督を譲るまでの23年間で領地に入ったのはわずか4度だった譜代大名。

家光の小姓から 酒井忠利の子として生まれます。元和6年(1620)に徳川家光の小姓となり、元和8年(1622)に武蔵深谷、次いで同じ武蔵の川越を領しました。
老中になった年 老中に就いた年は、元和9年(1623)と書く資料と寛永元年(1624)と書く資料があり、1年の差があります。
若狭小浜へ 寛永11年閏7月6日、京都の二条城で京極忠高が出雲松江へ移され、その跡へ川越10万石の忠勝が入ります。石高は11万3,500石でした。
小浜城の天守 京極高次が慶長6年(1601)に着工した城で、忠勝が天守閣の造立に着手し、寛永13年10月に完成します。同じ年に1万石を加増されました。
23年で4度の入国 幕府の要職にあって江戸を離れられず、家督を譲るまでの23年間で若狭に入ったのは4度、その日数を合計しても1年に足りませんでした。
大老へ 寛永15年11月、こまごました職務を免じられ、政務にあずかる大老の職に就きます。家光の死後は4代将軍・徳川家綱を補佐しました。
隠居して空印と号す 明暦2年(1656)に70歳で引退して家督を子の忠直に譲り、万治3年(1660)に剃髪して空印と号し、寛文2年(1662)に76歳で没しました。

家光の小姓から——父の代から、江戸城の内側にいた家

酒井忠勝は1587年(天正15年)に生まれた。父は酒井忠利である。忠利は松平郷譜代まつだいらごうふだい(松平氏の郷里の代から仕える家筋)の酒井氏6代・酒井正親の三男で、自身も三河のころから徳川家康とくがわ いえやすに仕え、のちに江戸城の大留守居おおるすい(将軍不在の江戸城を預かる役)と年寄を務め、寛永4年(1627)に川越で死去した。

忠勝は元和6年(1620)に徳川家光の小姓(主君のそば近くに仕える役)となる。元和8年(1622)には武蔵国深谷の藩主となり、その後、同じ武蔵国の川越藩主を経た。

門閥譜代 三河以来の家が、幕府の重職に就いた

酒井氏は幕府の中枢の重い職に就いた三河以来の門閥譜代大名だった、と福井県の県史は位置づけている。忠利が江戸城の大留守居と年寄、忠勝が老中と大老と、父子で二代続けて幕府の役職に就いている。領地の大きさより、将軍のそばで政務を握る位置に置かれた家である。

深谷と川越 小浜へ移るまで、領地は武蔵にあった

忠勝が最初に領したのは武蔵国深谷で、次が同じ武蔵国の川越10万石である。若狭へ移る寛永11年(1634)までの12年あまり、領地は江戸と同じ武蔵国の中にあった。小浜への移動は、幕府の政務に加わる立場のまま、領地だけが江戸から遠く離れる変化でもあった。

老中になった年——資料によって、1年ずれている

忠勝は老中(大名へ将軍の命令を伝え、幕府の政務を統括する役)に就いた。就任の年は元和9年(1623)とする資料と寛永元年(1624)とする資料があり、どちらかに決める記述は今回参照した公的資料にはない。

若狭小浜へ——二条城で決まった、京極家の跡

寛永11年閏7月6日(1634)、上洛中の家光は、京都の二条城で京極忠高を出雲松江26万石へ移し、その跡へ老中の一人であり武蔵川越10万石の領主であった酒井忠勝を入れた。忠勝は京極氏の領地をそのまま引き継ぎ、若狭一国と越前敦賀郡、それに近江高島郡のうちを合わせて、計11万3,500石を領した。

11万3,500石 三つの国にまたがる領地

忠勝が受け取ったのは、若狭一国と、越前国敦賀郡、そして近江国高島郡のうちを合わせた11万3,500石である。一国をまるごと持ちながら、隣の越前と近江にも領地が食い込む形で、京極氏が持っていた区切りをそのまま受け継いだ。

前の領主 関ヶ原の後の若狭は、京極家だった

関ヶ原の戦いの後、若狭の国主は京極高次となった。高次は慶長6年(1601)に、雲の浜に住む漁師たちを下竹原(西津郷)へ移住させて築城にとりかかっている。子の京極忠高の代の寛永11年(1634)に松江へ転出し、若狭は忠勝の手に渡った。

小浜城の天守——着工から35年をまたいで、忠勝の代で仕上がった

小浜城の築城に手をつけたのは京極高次で、慶長6年(1601)のことである。忠勝は小浜城主となって天守閣の造立に着手し、寛永13年(1636)10月にこれを完成させた。着工から数えて35年をまたぐ工事の、最後の部分を忠勝が引き受けた形である。

城は南北の二つの河川を外堀とし、四方を水で囲まれた地に築かれている。天守閣跡の西側の眼下には小浜湾が広がる。

城の寸法 総高29メートルの天守が立った

天守閣は総高29メートル、石垣の高さは11メートル。石垣の根廻り(根もとをめぐる石垣の長さ)は18メートルと20メートルだった。天守閣跡には礎石の残存がみられる。

在府料1万石 江戸に詰めるための領地が、下野に付いた

天守が完成した寛永13年、忠勝は在府料として下野佐野で1万石を加増された。領知高は11万3,500石から12万3,500石に増える。若狭・越前・近江に加えて下野にも領地を持つ形で、加増の名目そのものが「江戸に詰めるため」だった。

23年で4度の入国——若狭にいた日を合計しても、1年に足りない

忠勝は常に老中・大老といった幕府の要職にあり、在府ざいふ(江戸に詰め続けること)を余儀なくされた。領地を得た寛永11年(1634)から、明暦2年(1656)に忠直へ家督を譲るまでの23年間で、領地の若狭にいたのはわずか4度、その期間を合計しても1年に満たない。

4度の下向には、それぞれ江戸を離れるだけの用件があった。

1度目・寛永11年 領地を受け取りに入った

京極忠高の跡を継いで若狭を拝領した年の入国である。二条城で領地替えが決まったのが閏7月6日で、その領地を実際に受け取るための下向だった。

2度目・寛永13年 天守を築くために入った

小浜城の天守を築造したときの入国である。天守閣が完成したのは同じ年の10月で、城の普請という具体的な用件が江戸を離れる理由になった。

3度目・寛永19年 飢饉に対処するために入った

全国的な飢饉に対処するための入国である。領国の非常時に、江戸に詰める領主が自ら現地へ下った例として記録されている。

4度目・寛永20年 京都へ上った折に立ち寄った

後光明天皇の即位式に幕府の上使として京都へ上った折、立ち寄ったものである。若狭に入ること自体が目的の下向というより、公務の道筋に領地が入っていた。

大老へ——こまごました職務を免じられ、政務の中枢に残った

寛永15年(1638)11月、忠勝は「細務さいむ」(こまごまとした職務)を免じられ、政務にあずかる大老(老中の上に置かれた幕府の最高職)の職に就いた。老中就任の年は資料で分かれるが、大老になった年については、参照した資料はいずれも寛永15年で一致している。

大老への昇格が「細務を免じられる」という形で書かれている点に、老中との違いが表れている。日々の細かい実務から外れ、政務の要所にあずかる立場へ移った、という順序である。家光が没した後は、4代将軍・徳川家綱を補佐した。

老中から大老へ 実務を離れ、判断を引き受ける側へ

老中は大名へ将軍の命令を伝え、幕府の政務を統括する役である。忠勝はその老中を14年ほど務めた後、寛永15年に細務を免じられて大老となった。

家光の死後 次の将軍の代まで、政務に残った

忠勝は家光の側近として幕政に参画し、家光が没した後も4代将軍・徳川家綱を補佐した。小姓として仕えた将軍が代替わりしてなお、政務の側に残っている。引退はそれからさらに後の明暦2年(1656)である。

隠居して空印と号す——菩提寺の名と、その後の小浜城

明暦2年(1656)、忠勝は70歳で引退し、家督を子の忠直に譲った。万治3年(1660)に剃髪して空印くういんと号し、寛文2年(1662)に没する。享年76。

寛永11年(1634)に若狭へ入部した忠勝は、父・忠利の霊骨をこの地へ移して建康寺と称した。寛文年間、2代忠直が堂宇を大修造したときに祖父・忠利の法号をとって建康山空印寺と改め、今日に至っている。

酒井家墓所 忠利夫妻の左に、忠勝から歴代が並ぶ

墓域は空印寺の寺域の南西にあり、面積は約600平方メートル、土塀で四周を区画している。歴代藩主墓は最も右に忠利夫妻を配し、その左に忠勝、2代忠直、3代忠隆と連なる。材は花崗岩で総高3.8メートル、竿石の表裏に法号・官職位階・没年などを刻む。忠勝の長子・忠朝以下、11基の子女墓も同じ墓域にある。

14代238年 小浜城は明治4年に焼けた

小浜城はその後、酒井家14代・238年間の居城となった。明治4年の廃藩置県に際して城内に小浜県庁が置かれたが、間もなく大阪鎮台分営のための改修工事の最中、明治4年(1871)12月に二の丸櫓から出火し、旧城の大部分を焼失した。今は城郭の石垣を残すのみである。

酒井忠勝の疑問に答える

酒井忠次と同じ酒井家?

同じ酒井の名を持つが、系統は分かれる。忠勝の父・忠利は、松平郷譜代酒井氏6代・酒井正親の三男という出自を持つ。一方の酒井忠次さかい ただつぐは、家康の父・広忠の代から仕えた宿老である。両者の系図の上でのつながり、たとえば共通の祖先があるかどうかについては、今回参照した公的資料には記述がない。名字が同じで時代も重なるため、両者の働きは混ざりやすい。

小浜の酒井家はいつまで続いた?

忠勝が入った寛永11年(1634)から、明治4年(1871)の廃藩置県までの238年間、酒井家14代が小浜を治めた。廃藩置県で藩は廃止され、城内には一時小浜県庁が置かれた。空印寺の酒井家墓所には歴代藩主の墓が並び、大正13年(1924)には東京の本邸内にあった墓もここへ改葬されている。

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参考にした資料