人物ページ / 1537年〜1613年・徳川家康の家臣(三枚橋城主・大久保一族)

大久保忠佐おおくぼただすけ

大久保忠佐とは?

徳川家康に仕え、1601年から駿河の三枚橋城さんまいばしじょう(今の静岡県沼津市)で2万石を治めた家臣で、大久保忠世の弟にあたります。

三河(今の愛知県)の松平(のちの徳川)の家臣・大久保忠員ただかずの次男として生まれます。5歳上の兄が忠世、弟に大久保彦左衛門(忠教ただたか)がいます。
長篠の戦いで、兄・忠世とともに戦います。
忠佐がのちに入る三枚橋城は、武田勝頼たけだ かつよりが築いたとされる城でした。武田氏が滅ぶと徳川方へ渡り、次いで豊臣方の中村一栄が預かります。この間の忠佐自身の動きを記した公的資料は見当たりません。
関ヶ原の戦いのあと、徳川家康の家臣として三枚橋城主となり、2万石を与えられます。のちに入道にゅうどう(出家して僧の姿になること)して道喜と名乗りました。
77歳で死去し、東間門の妙伝寺に葬られます。後継者がいなかったため、この系統の大久保家は絶えました。

三河の大久保家——兄・忠世との5歳差から始まる

天文6年(1537年)、忠佐は三河の松平(のちの徳川)の家臣・大久保忠員の次男として生まれた。兄の忠世は天文元年(1532年)生まれの長男で、忠佐は5歳年下にあたる。弟には、大久保彦左衛門(忠教)がいる。

兄・忠世 二俣城を経て、小田原城主になった

忠世は長篠の戦いのあと家康から遠江の二俣城主を命じられ、天正18年(1590年)の小田原攻めでは家康に従って参戦し、戦後に4万5千石で小田原城主になった。忠世の系統は子の忠隣の代にいったん改易(領地と身分を取り上げられること)されるが、のちに大名へ復し、5代忠朝のとき11万3千石で小田原藩主に戻る。以後、廃藩置県まで大久保家が小田原藩主を務めた。

兄弟の分かれ方 同じ家から、別々の土地へ出た

忠世は相模の小田原、忠佐は駿河の沼津と、兄弟は別の土地を預かった。石高も忠世が4万5千石、忠佐が2万石で開きがある。忠佐が城主になるのは慶長6年(1601年)で、兄が小田原城主になった11年後のことである。

長篠の戦い——記録に残る、兄と並んだ一戦

天正3年(1575年)の長篠の戦いで、忠佐は兄・忠世とともに活躍した。大久保兄弟がそろって名を残した戦いとして確認できる資料は長篠だけで、小田原の大久保家を紹介する記述でも、忠世の経歴の中に「弟忠佐とともに」という形で忠佐の名が出てくる。忠佐がどの部隊を率い、どこで戦ったかまでを書いた自治体の資料は見当たらない。

三枚橋城——武田が築き、二十年で持ち主が四度替わった

三枚橋城は今の沼津駅の南側にあり、本丸を二の丸・三の丸・外郭が囲む同心円状の構造だった。狩野川かのがわに面した東南部だけは囲まれていない。「北条氏政書状」によれば、築城は天正7年(1579年)、武田勝頼によるとされる。狩野川を挟んで向かい合ったのが北条氏の戸倉城(今の静岡県清水町)で、両者の小競り合いが絶えなかったという。

天正10年(1582年)、武田勝頼・信勝の父子が天目山で自害して武田氏が滅ぶと、城は徳川氏に明け渡された。以後、豊臣方の中村一栄が入った時期を挟んで、慶長6年(1601年)に忠佐が城主となる。

城主の一覧 忠佐は五人目で、在職はいちばん長い

沼津市がまとめた歴代は、高坂源五郎(城代じょうだい=城主に代わって城を預かる役・1579年・武田勝頼)、松平康親(城主・1582年・徳川家康)、松平康重(城主・1583年・徳川家康)、中村一栄(城代・1590年・豊臣秀吉とよとみ ひでよし)、大久保忠佐(城主・1601年・徳川家康)の五人である。在職年数は高坂が3年、康親が1年、康重が7年、一栄が11年、忠佐が12年で、忠佐がいちばん長い。

書き方が分かれる 武田氏滅亡の直後に入った人物

徳川方に渡った直後の城について、沼津市の資料は二通りの書き方をしている。城主の一覧表は天正10年(1582年)の城主を松平康親とし、文化財の解説は家康の子・松平忠吉まつだいら ただよしとその後見役の松井忠次(表の松平康親と同一人物)が入城したと書く。城を預かった人物の立場をどう数えるかで、記述が分かれている。

2万石の城主——関ヶ原のあと、65歳で沼津に入った

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いのあとに、忠佐は徳川家康の家臣として三枚橋城主となり、2万石を与えられた。数えで65歳である。城主となったのちに入道して道喜と名乗った。

繰り返す2万石 同じ土地に、同じ石高が置かれた

忠佐に与えられた2万石は、この土地に置かれた石高としてのちの時代にも繰り返される。三枚橋城が廃されてから164年後の安永6年(1777年)、水野忠友が沼津に城地を与えられたときも2万石だった。

駿河の東端 武田と北条が奪い合った場所を引き継いだ

忠佐が預かったのは、武田氏が駿河での拠点として築き、北条氏の戸倉城と対峙してきた城である。

77歳の死——跡継ぎがなく、家が一代で終わった

慶長18年(1613年)、忠佐は77歳で死去し、東間門の妙伝寺(今の静岡県沼津市)に葬られた。城主となってから12年、入道して道喜と名乗ってからのことである。後継者がなかったため、忠佐の系統の大久保家はここで絶えた。

道喜塚 小学校の校庭に、塚が残っている

沼津市立第一小学校の校庭内に、忠佐の道喜塚がある。入道後の名である道喜がそのまま塚の名になった。妙伝寺には大久保治右衛門忠佐の墓がある。

家の続き方の差 忠世の家は続き、忠佐の家は続かなかった

兄・忠世の系統は、改易と復活を挟みながら明治の廃藩置県まで小田原藩主として続いた。忠佐の系統は1601年から1613年までの12年で終わっている。同じ父から生まれ、同じ主家に仕えた兄弟だが、家の続き方は跡継ぎの有無で分かれている。

廃城のあと——164年、沼津に城はなかった

忠佐の死のあと、跡継ぎがいないことを理由に三枚橋城は廃城となった。その後の沼津は徳川頼宣とくがわ よりのぶ(紀州藩)、天領てんりょう(幕府が直接治めた土地)、徳川忠長(駿河大納言)と領主が替わり、寛永10年(1633年)からは江戸幕府の直轄領となって代官支配の時代に入る。

安永6年(1777年)、三河大浜の水野忠友が沼津を加封かほう(領地を加えて与えること)され、荒廃した三枚橋城の跡に沼津城を築いた。沼津城は三枚橋城の跡地を利用している。

跡地の重なり 沼津城は、三枚橋城の上に建てられた

沼津城の本丸は今の中央公園のあたりにあり、南北は沼津市街の中心部にあたる。規模は三枚橋城の半分に縮められている。城は明治になって沼津兵学校の校舎に使われ、明治5年(1872年)に競売にかけられて解体された。

堀の行方 鉄道と大火のあとに埋められた

明治22年(1889年)の東海道線開通に伴って南北の縦貫道路が設けられ、その後の二度の大火を経て城の堀も埋められた。

大久保忠佐の疑問に答える

三枚橋城は、いつ廃城になった?

沼津市の資料でも書き方が分かれている。沼津の歴史を扱うページは、慶長18年(1613年)の忠佐の死によって跡継ぎがいないという理由で廃城になったと書く。文化財を扱うページは、忠佐の死後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614年)に廃城になったと書く。忠佐の死が廃城の理由である点は共通していて、その手続きが済んだ時点をどう数えるかで年が分かれている。

なぜ跡継ぎがいなかった?

公的資料には記述がない。沼津市の資料は「後継者がなかったので大久保家は絶え、三枚橋城は廃城となった」と結果だけを記し、実子がいなかったのか、いたが先に亡くなったのかといった事情には触れていない。忠佐の妻子についての記述も見当たらない。

「徳川十六神将」の一人?

沼津市・小田原市・岡崎市が公開している資料に、忠佐をこの呼び名で紹介する記述はない。自治体の資料は忠佐を「大久保治右衛門忠佐」あるいは三枚橋城の城主として扱っている。同じく忠佐に結びつけて語られる合戦の逸話も、自治体の資料では長篠の戦い以外を確かめられない。

沼津に行くと、何が見られる?

沼津市立第一小学校の校庭内に道喜塚があり、東間門の妙伝寺に忠佐の墓がある。三枚橋城の跡には沼津城が重ねて築かれ、その沼津城も明治に解体されて堀が埋められたため、地表から城の姿をたどることは難しい。

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参考にした資料