人物ページ / 上野白井の城主・三河岡崎の藩主

本多康重ほんだやすしげ

本多康重とは?

父・本多広孝ひろたかの跡を継いで上野白井(今の群馬県渋川市)の城主となり、のちに三河岡崎(今の愛知県岡崎市)の藩主として伝馬町を新設し、東海道の道筋を固めた武将です。

上野の白井城は長尾氏が代々の城主を務めた城でした。天正18年(1590)に前田利家が城を攻め落としたあと、本多広孝・康重の父子が白井城主となりました。歴代城主の系譜では、広孝の跡を康重が継いだ順に並びます。
白井城の北の松原屋敷に、広孝・康重の父子の菩提寺ぼだいじとして源空寺が建てられました。
江戸幕府が東海道を五街道の第一と定め、岡崎は江戸の品川宿から38番目の宿と決まりました。岡崎城の城主が田中吉政から本多氏へ交代した年について、公的資料には記載がありません。
岡崎藩主の本多康重が、水害で疲弊した八町はっちょう村の町人を城の東の台地へ移し、伝馬町を新設します。これで岡崎の道筋がほぼ固まりました。
岡崎藩の石高は5万石で、城跡に育つ藤の古株は今も「五万石ふじ」と呼ばれています。
白井城の城主は康重のあと数代替わり、最後に子の本多紀貞が入りました。群馬県立文書館には、紀貞が上白井村へ宛てた文書が残っています。

白井を継ぐ——長尾氏の城に、本多の父子が入った

上野の白井城は、吾妻川あがつまがわ寄りの段丘に築かれた城である。構築は1430年ごろ、城主の長尾景仲によるといわれる。渋川市の資料が並べる歴代城主は長尾氏が大半を占め、途中に上杉定昌さだまさ・上杉顕定うえすぎ あきさだが入り、また長尾氏に戻る。その列の終わり近くに、長尾政景のあとを受けて本多広孝、続いて本多康重の名が並ぶ。

天正18年(1590)、前田利家に攻め落とされる。同じ年の8月、本多広孝と康重の父子が白井城の領主として封じられている。

城の構え 東西950メートルの遠構とおがまえに包まれた城

白井城の総曲輪そうぐるわ(城下ごと囲む外周)は、北側の吹屋・松原と東側の白井町まで包み込み、東西950メートル・南北650メートルの遠構とおがまえの堀に囲まれていた。本丸は吾妻川寄りの、北へ突き出した台地の端にあり、西の面は30メートルほどの断崖である。本丸門は出桝形でますがた(門の前を四角く囲む構え)で、石垣や空堀が今も残る。

城主の変転 上杉に付き、北条に従い、真田に攻められた

本多の父子が入る前の白井城主は長尾氏で、越後の上杉謙信うえすぎ けんしんの援護を受けていた。謙信の没後は小田原の北条氏に従い、西からは岩櫃いわびつ城主の真田昌幸さなだ まさゆきの攻略をたびたび受けている。天正3年(1575)に城主の長尾憲景のりかげが建てた玄棟院げんとういんは、その時代の白井を今に伝える寺である。

源空寺——城の北に、菩提寺と薬師堂を建てた

天正18年(1590)に白井城の領主として封じられた広孝・康重の父子は、のちに菩提寺(先祖の墓を置く寺)として源空寺を建てた。場所は白井城の北、松原屋敷にあたる。法然山ほうねんざんと号する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来、京都の知恩院を本寺とする。開基かいき(寺の創建者)は白井城主の本多広孝である。のちに江戸幕府から寺領50石の朱印状しゅいんじょう(将軍が寺の領地を認める文書)を受けた。

慶長5年(1600)には、西へ約150メートル離れた吹屋の地に薬師堂も併せて建てられた。この薬師堂は目の薬師として近郷の信仰を集め、4月8日の縁日には参詣人が肩を接するほどだったと伝わる。源空寺の境内の奥には、城主広孝夫妻の墓と孫・紀貞の墓が並ぶ。本多氏の墓と梵鐘ぼんしょうは村の指定文化財である。

寺と城 寺院を段丘の上に配り、備えとした

白井城は、城の護りとして玄棟院・源空寺をはじめとする大小の寺院を段丘の上に配置し、いざという時の備えとしていた。源空寺は城の北にあたる松原屋敷にあり、寺の裏の道祖神の地点に北の城戸があった。

岡崎へ——城主が交代した「前本多」の代

三河の岡崎城は、享徳元年(1452)から康正元年(1455)ごろ、西郷頼嗣よりつぐにより今の本丸の位置に築かれた。その後は松平氏(のちの徳川家)が城主となり、天文11年(1542)に徳川家康が生まれている。岡崎市の資料は、近世に入ってからの城主の交代を「田中、前本多、水野、松平、後本多」と並べる。康重の代は、このうち二番目の「前本多」にあたる。

慶長6年(1601)、江戸幕府によって東海道が五街道の第一と定められ、江戸と京を結ぶ宿駅制度(人馬を次の宿へ継ぎ送る仕組み)が敷かれた。これにより岡崎は、江戸の品川宿から数えて38番目の宿と決まった。岡崎の城主が田中吉政から本多氏へ替わった年について、岡崎市の資料には記載がない。

慶長14年の伝馬町——水害の村を、城の東の台地へ移した

慶長14年(1609)、岡崎藩主の本多康重は、水害で疲弊した八町村の町人を城の東の台地の上へ移し、伝馬町てんまちょうを新設した。伝馬(次の宿へ人馬を継ぎ送る役)の名を負う町である。岡崎市の資料は、この新設によって東海道の道筋がほぼ固定したと記す。

27曲 屈曲した宿場兼城下町を、道が抜けていく

岡崎宿の東の入口は欠かけ村で、そこから伝馬町など町々を抜け、「町数5町4間27曲」と記される屈曲した宿場兼城下町を通って西の総門を出る。伊賀川の松葉橋と早川の亀屋橋を渡り終えると、岡崎の町廻りが終わった。

絵図でたどる 江戸後期の記録に、同じ道筋が残る

文化3年(1806)の『東海道分間延絵図ぶんけんのべえず』と、天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳たいがいちょう』をたどると、康重の時代に固まった道筋がそのまま確かめられる。矢作村を含む岡崎宿は家数250軒以上で、37番目の藤川宿より多かった。

五万石の城下——藤の名と、龍の伝承

岡崎城跡の南西部、乙川を望む1300平方メートルの範囲に、フジの古株が生育している。最も古いものは樹齢120年以上と推定され、岡崎藩の所有石高にちなんで「五万石ふじ」と呼ばれる。5月初旬の花期には約160センチの花穂が開く。もとは岡崎城の入口付近にあったものを今の場所へ移したと伝わる。昭和45年(1970)には、この藤に由来してフジの花が岡崎市の花に選ばれた。今は愛知県の指定天然記念物である。

康重が藩主を務めた岡崎藩は5万石だった。城そのものには別の名も伝わる。岡崎城の異名「龍城」「竜が城」は、築城した西郷氏の代に城の井戸から龍神が現れ、鎮守として祀られたという伝承に由来すると伝わる。城が建つ小高い丘を龍頭山りゅうとうざんと呼ぶのも、同じ言い伝えによる。

康重のあと——白井に戻った本多氏

渋川市の資料が並べる白井城の歴代城主は、本多康重のあと、牧野忠成ただなり、戸田康長やすなが、井伊直孝いい なおたか、西尾忠永ただながと替わり、最後に本多紀貞が入って列が終わる。資料は括弧を付けた名について「不分明」と注記しており、この並びのすべてが確定しているわけではない。

紀貞は広孝の孫にあたる。群馬県立文書館は「白井藩主本多紀貞より上白井村新左衛門尉しんざえもんのじょうあて下知書げちしょ」という文書を所蔵しており、白井が藩として立ち、村へ指示を出していたことがうかがえる。康重が継いだ城は、子の代にもう一度本多氏の手に戻った。

白井と岡崎——古い城を二つ継ぎ、町のかたちが分かれた

康重が城主を務めた二つの城は、どちらも徳川家より前から続く城だった。近世に城が置かれ続けたかどうかで、白井と岡崎のその後は分かれた。

白井のその後 城が廃されて、市場町へ移った

白井城が廃されたあと、城下町は市場町として立ち直った。白井町は沼田街道の西通りに位置する在郷町ざいごうまちで、町並みの整備は代官の支配のもとで行われている。利根・沼田・宮田方面から来る者も、六斎市に集まる人も、旅人も、北木戸口から本町通りに入った。

岡崎のその後 宿場と城下が、同じ町に重なった

岡崎は東海道の38番目の宿であり、同時に岡崎藩の城下町でもあった。屈曲した道筋が城の周りを縫うかたちは、明治6年(1873)の廃城令で天守などの建物が取り壊されたのちも町割りとして残った。岡崎城跡は昭和37年(1962)に市の史跡に指定され、平成28年(2016)の追加指定で98,908平方メートルの面積になっている。

本多康重の疑問に答える

本多忠勝と同じ一族?

岡崎市の資料は、近世の岡崎城主を「田中、前本多、水野、松平、後本多」と並べるだけで、「後本多」が本多忠勝の家系にあたるかどうかには触れていない。康重(前本多)と忠勝が同じ系統かどうかも、公的資料には記述がない。徳川家に本多姓の家がいくつもあったこと自体は、家臣団の広がりとして押さえておきたい。

なぜ白井から岡崎へ移った?

移った理由そのものは、公的資料には記述がない。岡崎の城主が田中吉政から本多氏へ替わった年も資料には記載がなく、分かるのは慶長14年(1609)に康重が岡崎藩主として伝馬町を新設していたことである。

岡崎の「二十七曲り」は康重が作った?

岡崎市の資料が康重について記すのは、伝馬町を新設したことと、それによって道筋がほぼ固定したことである。菅生川の北岸へ道を移したのは16世紀末の田中吉政の時代で、天正10年(1582)には徳川家康による道路改修もあった。屈曲した道筋は、これらの積み重ねの結果としてかたちを得た。

康重の墓はどこにある?

白井の源空寺の境内には、父・広孝の夫妻の墓と、子・紀貞の墓がある。康重自身の墓については、渋川市の資料にも岡崎市の資料にも記述がない。

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参考にした資料