城・場所ページ / 川の合流点の城・武田と徳川の境目

長篠城ながしのじょう

長篠城とは?

長篠城は、奥三河おくみかわの菅沼すがぬま氏が、二つの川の合流点の崖の上に築いた城です。今川・徳川・武田のあいだで、持ち主を何度も変えました。1575年の長篠の戦い(長篠・設楽原したらがはらの戦い)は、この城をめぐって始まりました。奥平信昌おくだいら のぶまさ(当時の名は貞昌)の城兵は、信玄の跡を継いだ武田勝頼の大軍に囲まれながら、救援が来るまで城を守り抜きました。今の愛知県新城しんしろ市長篠にあり、国の史跡に指定されています。

長篠を本拠とした菅沼氏の城です。1508年に菅沼元成が築いたと伝わりますが、築城の年代ははっきりしていません。
豊川と宇連川うれがわが合流する崖の上にあり、東三河の平野から山あいへ入る境目にあたります。
はじめ今川方、のちに家康方となり、1571年、または1572年に武田方へ移りました。1573年に家康が城を奪い、1575年2月に奥平信昌が城主として入ります。
1575年5月、武田勝頼の軍勢が城を囲みます。20日に武田軍の主力が設楽原へ移り、21日に城の対岸の砦も落ちて、城は包囲から解き放たれました。
1576年に信昌が新城城しんしろじょうへ移り、長篠城は廃城になったと伝わります。出土品からは、16世紀末まで城が使われた可能性も考えられています。
明治の耕地整理で土塁どるい(土を盛って築いた土手)や堀の多くが削られ、1922年には城跡を分けるように鉄道が敷かれましたが、本丸の北東には大きな土塁と堀が残ります。1929年に国の史跡になりました。

築城——奥三河の菅沼氏の城

長篠城は、奥三河(三河の北東部の山あい)に根を張った菅沼氏の城である。戦国時代の初めごろ、この地域では菅沼氏や奥平氏といった新しい領主(国衆くにしゅう)が力を伸ばしていた。菅沼氏の一族のうち、長篠城を本拠とした家は、長篠菅沼氏と呼ばれる。

長篠城が築かれた年は、はっきりしていない。新城市の城跡の案内や、1929年の史跡指定のときの説明は、1508年(永正5年)に菅沼元成が築いたとしていて、これが伝わる築城の年である。城跡の発掘調査の結果からは、15世紀末から16世紀の初め、戦国時代のはじめごろに築かれたと推測されている。

立地——川の合流点と、平野と山の境目

長篠城は、豊川(寒狭川かんさがわ)と宇連川が合流する地点の、三角形に突き出た台地の先に築かれた。南と西は二つの川に面した切り立った崖で、背後を川と崖に守られた「後ろ堅固」の城とされる。平らな北と東の側には、曲輪くるわ(城の中を土塁や堀で区切った区画)と、土塁・堀を重ねて守りを固めた。

道の要所 平野と山あいの境目

長篠城は、東三河の平野が切れて山地に入る境目にある。川沿いには古くから道が通り、戦国時代のこの地は、美濃・信濃・遠江とおとうみと三河の平野部とを結ぶ交通の要所だった。

勢力の境目 三河の東の端

長篠城は三河の東の端、遠江との国境に近い地域にある。今川・徳川・武田の勢力がぶつかる境目にあたり、戦国大名が奪い合う城になった。

持ち主——今川・徳川・武田の境目で

長篠の菅沼氏は、はじめ今川氏に従った。1560年に今川義元いまがわ よしもとが桶狭間で討たれ、松平元康(のちの徳川家康とくがわ いえやす)が三河で力を広げると、長篠城は家康の側に移った。その後、武田信玄たけだ しんげんが三河にも勢力を伸ばすなかで、長篠の菅沼氏は、1571年、または1572年に武田方についた。信玄は1573年、三河の野田城を落としたあと病に倒れ、長篠城などで体を休めたのち、甲斐へ引き返す途中で亡くなった。

1573年——家康が城を奪う

信玄が亡くなると、家康は失った土地を取り戻そうと、同じ1573年に長篠城を囲んだ。火矢を使った激しい攻めで、9月には城を手に入れた。武田方だった長篠の菅沼氏は城を追われ、菅沼氏が城主だった時代は終わった。

1575年2月——奥平信昌が城主になる

家康は1575年2月、奥三河の国衆・奥平氏の奥平信昌を城主として長篠城に入れた。奥平氏も一時は武田方についていたが、信玄の死後に武田氏を離れ、家康に従っていた。信昌は家康の命で壊れていた城を直し、家康は城に兵糧を入れて、武田方の攻撃に備えた。

籠城——救援が来るまで城を守る

武田勝頼は、三河に攻め入り、1575年5月、西へ勢力を伸ばすうえで重要な拠点となる長篠城を囲んだ。この城をめぐる攻防が、長篠の戦い(長篠・設楽原の戦い)の前半にあたる。勝頼の軍勢は約1万5千、城を守る兵は約500と伝わる。勝頼は城の近くの医王寺山いおうじやまに本陣を置き、川をはさんだ対岸の山々にも砦を築いて、城を取り囲んだ。

  1. 8日、武田軍は城の攻撃を始め、曲輪を次々に攻めた。城兵は鉄砲で応戦して持ちこたえた。
  2. 14日の夜、城主の信昌の命を受け、救援を求める使者として城を抜け出した鳥居強右衛門とりい すねえもんは、15日に岡崎城に着いて城のようすを伝えた。16日、救援が来ることを知らせに城へ戻ろうとしたところを、武田軍に捕らえられた。強右衛門は救援が近いことを城に向かって叫び、磔はりつけにされたと伝わる。
  3. 18日、織田信長おだ のぶながと徳川家康の救援軍が、城の西およそ4キロの設楽原に着き、陣を築いた。
  4. 20日、武田軍の主力は城のまわりを離れて、設楽原へ進んだ。城の対岸の砦には、武田の兵が残った。
  5. 21日の明け方、徳川方の酒井忠次さかい ただつぐらが、対岸の鳶ヶ巣山とびがすやまの砦を背後から襲って落とした。城を囲む武田軍の構えは崩れ、長篠城は包囲から解き放たれた。同じ日、設楽原の決戦で武田軍は大敗した。

このように長篠の戦いは、長篠城をめぐる城攻めと、設楽原での野戦とをあわせた戦いだった。

戦いの後——新城城への移転と廃城の時期

戦いの翌年の1576年、奥平信昌は、新しく新城城を築いて移った。この築城が、今の新城市の中心部の町の土台になり、「新城」という地名は、長篠城に対する新しい城という意味から来たともいわれる。長篠城の建物の一部は、新城城や吉田城(今の愛知県豊橋市)に移されたといわれる。

伝わる年 1576年に廃城と伝わる

信昌が新城城へ移った年に城は役目を終え、廃城になったとされてきた。

出土品から 16世紀末まで使われた可能性

長篠城の発掘では、16世紀末ごろの焼き物も出土した。このことから、城は16世紀末まで続いた可能性があり、廃城の時期は考え直す必要があるとされている。また、新城城が築かれた後も、武田氏の脅威に備えて長篠城が保たれていた可能性も考えられている。

今の城跡——削られた城跡と、残った土塁

江戸時代、長篠城の跡は「古城藪」と呼ばれる竹やぶとして残された。城藪の竹は、江戸の蔵の工事に使うため、切ることを禁じられていた。18世紀前半からは、城跡は畑として使われるようになる。さらに1894年から1904年ごろの耕地整理で、土塁や堀の大半が削られ、埋められた。1922年には、本丸(主郭しゅかく)とその隣の曲輪を分けるように、鉄道(今のJR飯田線)が敷かれた。これをきっかけに、1924年、地元の長篠村は城跡を公有地にする方針を決めた。1929年12月17日、長篠城跡は国の史跡に指定された。1964年には、城跡の中に長篠城址史跡保存館が開館した。

本丸の北東 大きな土塁と堀

本丸の北東には、高さ約5メートル・長さ約80メートルの土塁と、幅10〜15メートル・深さ約6メートルの堀が残る。土塁は、攻めてくる敵を横から撃てるように折れ曲がっている。武田氏の攻撃に備えて、徳川氏が造り直したと推定されている。

発掘調査 16世紀中ごろ以降の大改修

城跡では、1999年から2006年までに8回の発掘調査が行われた。16世紀中ごろ以降に曲輪を広げる大きな改修が行われたことが分かり、火縄銃の弾なども出土している。

長篠城の疑問に答える

長篠城跡へは、どう行けばいい?

JR飯田線の長篠城駅で降りて、歩いて約8分。

長篠城から、次にたどる

参考にした資料

  • 新城市「史跡長篠城跡」(1508年に菅沼元成が築いたとする伝え・今川方から家康方、武田方への移り変わりと1571年とする年・1573年の家康による奪回・翌年に城を移して廃城とされること・豊川と宇連川の合流点の「後ろ堅固」の立地・武田軍が設楽原で大敗したこと・国の史跡の指定年月日・所在地)
  • 新城市教育委員会『史跡長篠城跡保存活用計画』(2020年3月)(築城の年代ははっきりせず発掘から15世紀末〜16世紀初めと推測されること・1929年の指定説明が1508年の菅沼元成の築城を挙げること・奥三河の国衆の菅沼氏と奥平氏、長篠菅沼氏・平野と山地の境目で、戦国時代に美濃・信濃・遠江と三河平野部を結ぶ交通の要所で、勢力の境目だったこと・1572年とする武田方への移り・1573年9月の家康の奪取と菅沼氏が城を追われたこと・1575年2月に信昌が家康の命で入り、城の普請をしたこと・5月8日からの攻撃・設楽原での決戦・出土品から16世紀末まで存続した可能性と、廃城の時期を考え直す必要があること・新城城の築城後も武田氏の脅威に備えて城が保たれていた可能性・『参河志』が伝える豊橋の吉田城の門・古城藪と竹の伐採の禁止・18世紀前半からの畑・明治の耕地整理・1922年の鉄道と1924年の長篠村の公有化の方針・1964年の保存館の開館・1999〜2006年の発掘調査と16世紀中ごろ以降の大改修・火縄銃の弾の出土)
  • 新城市・長篠城址史跡保存館「長篠城解説パンフレット」(「長篠・設楽原の戦い」がこの城をめぐって起こったこと・信玄の死を受け、家康が失った土地を取り戻そうと城を攻めたこと・信玄の後継者の勝頼が三河へ攻め入って城を囲んだこと・三河の東の端で遠江との国境地域にあり交通の要衝だったこと・南と西の崖と北と東の曲輪・本丸北東の土塁と堀の大きさと形、徳川氏の改修と推定されること・家康が火矢で攻めて城を手に入れたこと・信玄が長篠城で療養したこと・家康が信昌を城主にし、城を修復して兵糧を入れたこと・医王寺山の本陣と対岸の砦・約1万5千と約500の兵・建物の一部が新城城と吉田城に移されたといわれること・長篠城駅からの道のり)
  • 新城市・長篠城址史跡保存館「展示解説」(信玄が野田城の攻撃ののち病となり長篠城などで休養したこと・信玄の死後に奥平氏が家康の味方になったこと・5月8日の包囲と城兵の数・14日夜の鳥居強右衛門の出発・長篠の戦いが長篠城の周辺での城攻めと設楽原での野戦を兼ねた戦いだったこと)
  • 新城市「鳥居強右衛門」(長篠城の攻防戦が長篠・設楽原の戦いの前半戦と位置づけられること・14日に城を出て15日に岡崎城に着き、16日に捕らえられ、救援が来ることを叫んで磔にされたこと)
  • 新城市「長篠城址史跡保存館」(信玄の跡を継いだ勝頼が、西へ勢力を伸ばすために重要な拠点となる長篠城を包囲したこと・5月18日に救援軍が城の西約4キロの設楽原に着いて陣を築いたこと・20日に武田軍が長篠城の包囲を解いて設楽原へ進んだこと)
  • 新城市「しんしろ家康紀行 其の八 酒井忠次の大作戦『鳶ヶ巣山』」(信玄の死を受けた家康の長篠城攻め・酒井忠次らが明け方に、鳶ヶ巣山の砦を守る武田軍を背後から襲い、長篠城の包囲が崩れたこと)
  • 新城市「奥平信昌」(戦いの翌年に新城城を築き、今の中心市街の基礎になったこと)
  • 新城市「新城城跡(新城陣屋跡)の発掘調査」(新城城が1576年に築かれ奥平信昌が初代の城主だったこと・「新城」の地名の由来とされる説)
  • 新城市・長篠城址史跡保存館「国指定史跡長篠城跡のご案内」(長篠城駅から歩いて約8分であること)
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」長篠城跡(史跡としての名称と、1929年12月17日の指定)