人物ページ / 越前丸岡藩・本多家の初代藩主

本多成重ほんだ なりしげ

本多成重とは?

「鬼作左」と呼ばれた本多重次の嫡男で、幼い名を仙千代といいます。慶長18(1613)年、福井藩主松平忠直の付家老として越前国(今の福井県)の丸岡城に入り、寛永元(1624)年に福井藩から独立して、4万6300石の丸岡藩の初代藩主となりました。

今の丸岡城天守は、成重の代の寛永年間に整備されたと、坂井市の学術調査は結論づけています。正保4(1647)年、丸岡で亡くなりました。

元亀3(1572)年に浜松で生まれ、天正12(1584)年、結城秀康に従って人質として京へ上ります。
慶長18(1613)年、松平忠直に付けられ、4万石で丸岡城に入ります。
大坂の陣で戦功を立て、忠直の配流ののち、寛永元(1624)年に丸岡藩が独立します。
今の天守は、寛永年間、成重の代に整備されたとされます。
正保2(1645)年に隠居し、正保4(1647)年に没します。本多家は元禄8(1695)年に改易されました。

鬼作左の子——浜松から、秀康とともに京へ

のちに幕府が編んだ『寛政重修諸家譜』によれば、成重は元亀3(1572)年に浜松で生まれた。天正4(1576)年5月11日、家康が父重次の屋敷を訪れたとき、はじめて家康に会っている。天正11(1583)年から家康の側に仕え、翌12年12月、小牧・長久手の戦いのあとに家康が羽柴秀吉はしば ひでよしと和睦すると、家康の子の秀康(のちの結城秀康)に従って人質として京へ向かった。13年には父の計らいで浜松に戻り、12月8日に家康の前で元服している。のち父の跡を継ぎ、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに従い、慶長7(1602)年には近江の蒲生郡で2000石を加えられた。

父・本多重次 三河三奉行の「鬼作左」

父の重次は家康の祖父の代から徳川家に仕え、永禄8(1565)年に高力清長こうりき きよなが・天野康景あまの やすかげとともに三河三奉行に取り立てられた。妥協しない厳しい性格で「鬼作左」と呼ばれたという。福井県の資料は、重次の家と本多忠勝の家は、忠勝の5代前の本多定助を祖として二つに分かれた一族だと紹介している。

秀康の養育 重次の屋敷か、中村家の屋敷か

秀康が生まれたとき、家康の命で重次の屋敷で育てたと『寛政重修諸家譜』は書き、福井県の資料も重次が引き取って育てたとする。一方、福井県文化課の別の資料は、重次と交流のあった中村家の屋敷で育てられたと書いている。

付家老として丸岡へ——久世騒動のあと

関ヶ原の戦いののち、越前一国は結城秀康の領地となり、重臣の今村盛次が2万5000石で丸岡城に入った。秀康は慶長12(1607)年に亡くなり、子の忠直の代の慶長17(1612)年、家臣どうしの争い(久世騒動)で盛次が除かれた。翌18年5月19日、成重は幕府の命で忠直に付けられて越前へ赴き、4万石を与えられて丸岡城に入った。『福井県史』は、成重が府中の本多富正と協力して18歳の忠直を補佐し、二人は「両本多」と呼ばれて藩政に力を尽くしたと書く。

富正の願い 「越前は大国にして肝要の地」

富正は重次の甥で、成重の従兄にあたる。福井県の資料は、富正が「越前は大国にして肝要の地」として家臣をもう一人遣わしてほしいと願い、成重を望んだという話を『富正公御代々覚書』から紹介している。

騒動の呼び名 久世騒動・越前騒動

慶長17年の騒動は、『福井県史』では久世騒動と呼ばれ、越前騒動や自休騒動とも呼ばれたと紹介されている。坂井市の丸岡城の解説には、本多氏の入封を慶長17年と書く箇所もあるが、同じページの城主の表や略年表、『福井県史』は慶長18年としている。

大坂の陣と独立——諫言から丸岡藩へ

大坂冬の陣・夏の陣で、成重は越前勢の中心となって戦った。『福井県史』は、夏の陣で成重が300騎を率いて真田幸村の軍を破り、大坂城へ一番に乗り込み、家康から国光の刀と三吉野の茶壺を与えられたと書く。元和元(1615)年閏6月19日には従五位下・飛騨守に叙任された。やがて忠直の振る舞いが乱れ、成重の諫言も聞き入れられず、元和9(1623)年、忠直は隠居を命じられて豊後に流された。寛永元(1624)年4月に松平忠昌が福井に入ると、成重は5月18日に将軍のもとに呼び戻され、6300石を加えられて4万6300石の大名となり、引き続き丸岡城に住んだ。

伝わる話 丸岡城を抜け出して京都所司代へ

坂井市の調査報告は、幕府の記録『年録』の話を紹介している。元和8(1622)年に成重が諫言すると忠直が怒り、丸岡城を攻める用意をみせたため、成重はひそかに城を抜け出して京都所司代に相談に行ったとされる。忠直が隠居すると、成重は越前に戻り、忠直を越前に戻さないという上意を家中に伝えたという。

丸岡藩の領地 75か村、4万6300石

「正保郷帳」によれば、丸岡藩の領地は坂井郡を中心とする75か村、4万6300石だった。寛永3(1626)年、成重は二男の重看に3000石を分け与え(本多大膳家の始まり)、以後の丸岡藩の領地は4万3300石となった。寛永5(1628)年には、娘の豊姫が秀康の六男の松平直良に嫁いでいる。

藩政では苦労も多かった。寛永20(1643)年に幕府が異国船の取り調べを強めるよう命じたのを機に、三国湊以外の浦に着く船も厳しく検問されるようになり、藩の倉を置いた滝谷出村に船が泊まれなくなった。翌正保元(1644)年、成重は福井藩に抗議したが聞き入れられなかった。本多氏の時代に5度の検地が行われたと伝わり、石高に比べて耕地が少ないことが当時から問題になっていたようである。

丸岡城の天守——寛永年間の整備

丸岡城は、天正4(1576)年に柴田勝家しばた かついえの甥の勝豊が築いた城である。天守の建った時期については、勝豊が建てたとする説と、成重が入った慶長18年以降とする説があった。坂井市が平成27(2015)年から30(2018)年にかけて行った総合学術調査では、年輪や放射性炭素、酸素同位体比による年代の測定(2・3階を通る柱の最も外側の年輪は1626年)と歴史的な背景から、今の天守は寛永年間、成重の代に整備されたと結論づけた。

調査の見方 「最大のキーパーソン」

坂井市の調査報告は、天守を建てた経緯を記した古文書は今のところ確認できないとしながら、時期からみて丸岡藩の成立が今の天守を建てるきっかけになった可能性が高く、成重は天守に関する「最大のキーパーソン」だと書いている。一方、文化庁の文化遺産オンラインの解説は、天守は築城時の建築と考えられているとしている。

国宝と重要文化財 昭和9年の国宝から重要文化財へ

丸岡城天守は昭和9(1934)年に国宝保存法にもとづいて国宝に指定され、昭和25(1950)年の文化財保護法の施行で、ほかの天守と同じく重要文化財になった。坂井市は今、天守の国宝指定をめざす取り組みを進めている。

晩年と本多家のその後

成重は正保2(1645)年5月19日に隠居し、嫡男の重能が跡を継いだ。正保4(1647)年6月23日、丸岡で亡くなった。76歳だった。坂井市の本光院には、父の重次、成重、重能、重昭の墓とされる大きな石の五輪塔が並び、本多家歴代墓所として市の史跡に指定されている。坂井市の解説によれば、本光院は成重の死後に本多家の菩提寺として創られ、のちに今の地に移った。一方、『福井県史』は、本多家が丸岡に入ってからも本光院を菩提所としていたと書く。丸岡藩の本多家は重能・重昭・重益と4代続いたが、元禄8(1695)年、重益は政治がよくないとして領地を取り上げられ、代わって有馬清純が丸岡に入った。

一筆啓上 「お仙泣かすな」のお仙

丸岡城には「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑がある。重次が戦場から妻に書き送ったとされる手紙で、『福井県史』は、この「おせん」(仙千代)が成重だと書く。福井県の資料は、天正3(1575)年の長篠の戦いの陣中から送ったものと紹介している。

本多家の行方 旗本として続く

改易された重益は宝永6(1709)年に許されて旗本に戻り、翌年、下総の相馬郡で2000石を与えられた。この家は明治維新まで続いたと『福井県史』は書く。

本多成重の疑問に答える

成重は、結城秀康の家老だったの?

資料からは、そうは言えない。成重は天正12年に人質として秀康に従って京へ上ったが、付家老として越前に入ったのは、秀康が亡くなったあとの慶長18年で、付けられた相手は子の忠直だった。秀康の家老として越前府中に入ったのは、従兄の本多富正である。

「お仙泣かすな」の手紙は、本当に成重のこと?

『福井県史』や坂井市、福井県の資料は、手紙の「お仙」を成重と紹介している。ただし『福井県史』は手紙そのものを「書き送ったとされる」と書いており、これらの資料には手紙の原本や出典は示されていない。

丸岡城の天守は日本でいちばん古いの?

福井県の資料は「現存する天守閣としては、日本最古」と書き、福井県文書館の展示パネルは「日本最古のものの一つ」とする。一方、坂井市の学術調査は今の天守を寛永年間の整備としており、資料によって書き方が分かれる。

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参考にした資料

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