三河三奉行とは?
三河三奉行とは、徳川家康が三河(今の愛知県東部)を治めるために置いたと伝わる、三人の奉行(領内のことを任されて取り仕切る役)のことです。岡崎の名を冠して「岡崎三奉行」とも呼ばれます。あてられたのは高力清長・本多重次・天野康景の三人で、担ったのは民政(領内の暮らしを回す政治)と訴訟を扱う仕事だったと伝わります。
三河統一——一揆の翌年に、領国を治めるための職が置かれた
1563年(永禄6年)、西三河で三河一向一揆が起こり、翌1564年に終結した。家康はこののち三河をまとめ、1565年(永禄8年)、24歳のときに、三河の地を治めるための職をつくったと伝わる。翌1566年には徳川への復姓を勅許され、三河守に叙任される。三河の国主として領国の仕組みを組み立てていく、その最初の段階にあたる時期だ。
1565年 三奉行——一揆との因果を書いた資料はない
三奉行が置かれたと伝わる1565年は、一揆が終わった翌年にあたる。ただし、一揆のあとに置かれたというだけで、そのせいで置いたと書いた資料はない。
三人の役目——民政と訴訟を担う職として
三奉行が担ったのは、民政と訴訟を担当する職だったと伝わる。戦場での働きとは別に、領内の暮らしを回し、争いごとを裁く仕事が、徳川の家臣団の中に職として置かれた。あてられたのは高力清長、通称を作左衛門という本多重次、通称を三郎兵衛という天野康景の三人だった。
呼び名 「岡崎三奉行」と「三河三奉行」
1565年に置かれたと伝わるこの職には、「岡崎三奉行」と「三河三奉行」という二つの呼び名が伝わっている。岡崎という城下の名で呼ぶか、三河という国の名で呼ぶかの違いで、指しているのは同じ職だ。資料の中でも、どちらの表記も並べて使われる。
役目の中身 戦の場での働きとは別の仕事だった
この職が1565年から受け持ったのは、民政と訴訟にかかわる仕事だったと伝わる。家臣団には戦のために動く役目があり、その一方で、領内を治める仕事と争いごとを裁く仕事もあった。三奉行は後者を担う職として書き残されている。
流行り歌——仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵
家康は、性格の異なる三人を抜擢し、適材適所に配置したと評価されている。その人事に対して当時、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という歌が流行したと伝わる。
どちへんなし 「どちらにもかたよらない」の意味
歌の中の「どちへんなし」は、どちらにもかたよらない、公平な、という意味の当時の言葉だ。三人目の「天野三兵」は、通称を三郎兵衛といった天野康景を縮めた呼び方で、歌は三人それぞれの名を短く言い換えて調子をつけている。清長がなぜ仏、重次がなぜ鬼にたとえられたのかは、史料では確認できない。
表記の揺れ 資料によって書き方が分かれる
この歌は当時流行したと伝わるが、書き留められた形は一つに定まらない。別の資料では「仏の高力、鬼作左、どっちでもない天野」と記される。どちらが元の形かを決められる材料はなく、書き方が分かれたまま伝わっている。
揺れる伝承——年も人数も、一つに定まらない
三奉行の成立は1565年(永禄8年)と伝わる一方で、1567年(永禄10年)ではないかとする異説がある。また、高力・本多・天野の三人のほかにも奉行職にあたった者がいたのではないか、という説もある。これらは江戸時代に編まれた家伝や系譜の書物を通して伝わってきたため、年も人数も一つに絞りきれないままになっている。
1565年か、1567年か 二年の幅がある
三奉行の成立年は、1565年(永禄8年)とする伝えのほかに、1567年(永禄10年)とする異説がある。三河を統一した直後に置いたのか、それから二年ほど経ってからなのかで、家康がこの職をどの段階で必要としたかの読み方も変わる。史料では確定できない。
三人か、それ以上か 顔ぶれにも異説がある
あてられた人数についても、この三人のほかに奉行職にあたった者がいたとする説がある。三奉行という名は三人でひと組の職に見えるが、実際に何人がこの役を務めたのかは分かれる。「三」という数がいつ固まったのかも、史料では確定できない。
三人のその後——三河を離れ、別々の土地へ
三奉行として並んだ三人は、のちにそれぞれ違う土地へ移っていく。三河を離れた三人が向かった先は、武蔵・下総・駿河と三方に分かれた。
高力清長 1590年から岩槻の城主になった
高力清長は1590年から岩槻城主となり、1608年まで(一説に1604年まで)2万石を領した。今のさいたま市岩槻区にあたる。1601年11月1日付で城下の町の代表に宛てて出した「市掟」が残り、町の運営を委ねつつ掟に背いた者は代官を通じて訴え出るよう定めている。供養塔は浄安寺にある。
本多重次 1596年、下総の井野で世を去った
本多重次は1529年に三河で生まれ、松平清康・広忠・家康の三代に仕えた。晩年は下総国相馬郡井野で過ごし、1596年に68歳で病没する。今の茨城県取手市にあたり、三つの墓塔が並ぶ墳墓は茨城県指定の史跡になっている。
天野康景 1607年、城を去って廃城になった
天野康景は1601年、興国寺城で1万石の城主となった。今の静岡県沼津市にあたる。しかし康景は、ある一件で家臣をかばって自ら城を去り、1607年、興国寺城は廃城となった。城主となってから六年後のことで、三奉行の一人が城と領地を手放す形になった。
三河三奉行の疑問に答える
なぜ性格の違う三人を並べた?
家康が性格の異なる三人を抜擢し、適材適所に配置したという評価が当時あり、それを受けて流行り歌が生まれたと伝わる。
三人が担った仕事は、どこまで分かっている?
民政と訴訟を担当する職だった、というところまでだ。三奉行としてどんな決まりを出し、どんな争いを裁いたかを具体的に伝える資料は見当たらない。高力清長が岩槻城主になってから出した「市掟」のように、後年の別の役目での文書のほうが形をとどめている。
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参考にした資料
- 岡崎市「岡崎市歴史的風致維持向上計画 第1章」(1565年に三河を統一した家康が民政・訴訟等を担当する職をつくったと伝わること・三人の名と通称・流行り歌の文句と「どちへんなし」の意味・1567年成立説と三人以外の奉行がいたとする異説・1563年の一向一揆勃発と翌年の終結・1566年の徳川復姓と三河守叙任)
- さいたま市「さいたま市文化財時報 第54号」(高力清長が1590年から1608年まで(一説に1604年まで)2万石の岩槻藩主だったこと)
- さいたま市「慶長六年霜月一日高力清長『市掟』を読む」(1601年11月1日付で岩槻城主の高力清長が城下の町の代表に宛てて市掟を出したこと・町の運営を委ねつつ掟に背いた者は代官を通じて訴え出るよう定めたこと)
- 沼津市「興国寺城跡」(天野康景が1601年に1万石の城主となり、家臣をかばって城を去ったため1607年に興国寺城が廃城となったこと)
- 茨城県教育委員会「本多作左衛門重次墳墓」(重次が1529年に三河で生まれ、松平清康・広忠・家康に仕え、晩年を下総国相馬郡井野で過ごして1596年に68歳で病没したこと・三つの墓塔が並ぶ墳墓が県指定史跡であること)
- 福井県「戦国秘話」(同じ流行り歌が「仏の高力、鬼作左、どっちでもない天野」とも記され、書き方が資料によって分かれること)