人物ページ / 家康の大工頭・城と社寺の造営・中井家の初代

中井正清なかい まさきよ

中井正清とは?

大和の法隆寺西里(今の奈良県斑鳩町)の大工の家に永禄8(1565)年に生まれ、徳川家康に召し抱えられて五畿内と近江の大工を束ね、伏見城・二条城・江戸城・駿府城・名古屋城や久能山・日光の東照宮など、徳川家の主要な建物の作事を受け持った大工頭です。

慶長17(1612)年には大工として異例の従四位下に昇り、中井家は江戸時代を通じて十代にわたって京都の大工頭を継ぎました。

法隆寺の大工棟梁の家に生まれ、天正16(1588)年に24歳で家康に召し抱えられたとされます。
関ヶ原の戦いのあと、五畿内と近江の大工を束ね、慶長11(1606)年に大和守となります。
慶長7(1602)年の伏見城から、名古屋城の天守、久能山・日光の東照宮まで作事を受け持ちます。
秀頼のもとで方広寺大仏殿の再建の棟梁も務め、大坂冬の陣にも加わりました。
元和5(1619)年1月21日に没し、中井家に伝わった5,195点の資料が国の重要文化財になっています。

法隆寺の大工——西里から家康のもとへ

正清は永禄8(1565)年、法隆寺西里で生まれた。父の正吉は法隆寺の大工棟梁である。正清ははじめ藤右衛門と名のった。天正16(1588)年、24歳で徳川家康に召し抱えられたとされ、200石を与えられたのち500石に加増された。伏見城・二条城・知恩院などの作事(建物を建てたり直したりすること)に、大工棟梁として加わっていく。

法隆寺の慶長大修理 秀頼の援助による修理で、大工棟梁に

関ヶ原の戦いのあとの慶長6(1601)年から慶長11(1606)年にかけて、豊臣秀頼の援助を受けて、戦国時代の動乱で荒れていた法隆寺の大修理が行われた。このときの大工棟梁を正清が務めている。

西里の大工たち 法隆寺村の大工を率いて現場へ

江戸時代のはじめ、法隆寺村の大工たちは、西里出身の大工頭である正清に率いられ、法隆寺の慶長大修理のほか二条城などの造営に加わった。西里の安田家も、中井家の配下の大工棟梁として普請や作事に携わっている。

家康の大工頭——五畿内と近江の大工を束ねる

関ヶ原の戦いのあと、正清は家康の厚い信任を受け、五畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)と近江の6か国の大工、杣(山で木を切る職人)、木挽(材木をひく職人)を組織し、城や寺社、御所などの作事と、江戸の城下などの町割りを取りまとめた。慶長11(1606)年に従五位下・大和守に任じられ、慶長14(1609)年には千石を与えられ、慶長17(1612)年には大工としては異例の従四位下に昇った。

なぜ重く用いられたか 技術と、大工集団を配置する力

正清が家康に重く用いられたのは、法隆寺の大工集団の中で磨かれた高い技術に加えて、その大工集団を的確に配置する統率力があったからだ、と説明されている。正清を通じて畿内の大工を押さえたことは、ほかの大名に対する徳川家の軍事・経済の上での優位を支えた、とも評価されている。

書状が語るもの 家康の意向と正清の動き

中井家には、家康の側近の年寄衆や京都所司代から正清に宛てた書状が残る。作事にあたって幕府と正清がどう交渉し、家康が何を求め、正清がどう動いたかが具体的に分かる資料である。作事の指揮、職人の動員、労働の管理、勘定についての証文類も伝わっている。

城と社寺——伏見城から日光まで

正清が受け持った作事は、慶長7(1602)年の伏見城に始まり、二条・江戸・駿府・名古屋の城、知恩院、増上寺、久能山と日光の東照宮など、徳川将軍家の主要な建物のほとんどに及んだ。地元の斑鳩町がまとめた年表では、慶長8(1603)年に二条城の御殿、慶長11(1606)年に二条城の天守、慶長12(1607)年に江戸城の天守と仙洞御所、慶長13(1608)年に駿府城の天守、慶長18(1613)年に内裏(慶長度内裏)、元和2(1616)年に久能山東照宮、元和3(1617)年に日光東照宮となっている。

名古屋城の天守 小堀政一と組み、慶長17年に完成

名古屋城では、家康から天守の大工棟梁を命じられた。作事奉行は小堀政一で、二人は駿府城の築城も務めた組み合わせだった。天守の設計は第5次計画まであったとされ、天守は慶長17(1612)年に完成した。中井家に伝わる建築図のうち最も古いのは、慶長年間の名古屋城の指図(平面図)である。

久能山東照宮 今に残る、正清の代表的な遺構

家康を祀る久能山東照宮の本殿・石の間・拝殿は、元和3(1617)年に正清が造営した権現造の社殿で、平成22(2010)年に国宝に指定された。幕府の造営組織の草創期にその礎を築いた正清の、代表的な遺構の一つとされる。斑鳩町の年表は、久能山東照宮を元和2(1616)年の作事としている。

豊臣の仕事と大坂の陣——方広寺大仏殿から冬の陣へ

正清は徳川家の大工頭であると同時に、豊臣家の大きな造営にも関わった。慶長14(1609)年、豊臣秀頼から方広寺大仏殿の再建の棟梁に任じられ、作事奉行の片桐且元とともに事業を取りまとめた。翌年6月12日に地鎮祭と釿始ちょうなはじめが行われ、大工3千人・木挽2千人が動員され、8月22日に柱立てが始まっている。

豊国神社の釣燈籠 正清の名を刻んだ寄進

秀吉を祀る京都の豊国神社には、慶長15(1610)年7月の年紀と、「中井大和守橘朝臣正清」らの寄進の銘を透かし彫りにした、金銅の六角形の釣燈籠が伝わる。方広寺大仏殿の再建が始まったころの寄進である。豊国神社はのちに家康によって廃され、燈籠は明治から大正のころに神社へ戻された。

大坂の陣 鐘銘事件と冬の陣、焼かれた屋敷

正清は大坂冬の陣のきっかけとなった方広寺の鐘銘事件に深く関わっていたと言われ、大坂冬の陣にも加わった。地元西里の記録には、慶長20(1615)年の大坂の陣のときに正清の屋敷が豊臣方の焼き討ちにあったと書かれている。

中井家と資料——十代の大工頭と5,195点

正清は元和5(1619)年1月21日に没した。中井家はその後も江戸時代を通じて幕府の大工頭を継ぎ、正清から正居(1835〜1900年)まで十代を数える。元禄6(1693)年には幕府が中井役所を設け、大工頭と配下の棟梁たちに設計・積算・入札図書の作成・現場の管理を担わせた。元禄5(1692)年には、中井家は6,677人の大工を率いていたとされる。

重要文化財 「大工頭中井家関係資料」5,195点

中井家に伝わった資料は、平成23(2011)年に「大工頭中井家関係資料」として国の重要文化財に指定された。文書・記録類3,942点、指図・絵図類645点、典籍類515点、書画・器物類93点からなり、とくに慶長から元和にかけての作事の資料が充実している。豊臣時代の大坂城の本丸を描いた絵図も含まれる。

分かれて伝わる資料 京都大学などにも

中井家の資料は一か所にまとまっておらず、京都大学附属図書館、宮内庁書陵部、京都府立京都学・歴彩館、大阪市立住まいのミュージアムなどに分かれて伝わる。京都大学の解説は、二条城や京都御所、下鴨神社などの図面を含むこの中井家文書を、約2,500点からなる資料と紹介している。

中井正清の疑問に答える

今の京都御所の建物は、中井正清が建てたもの?

ちがう。正清が関わった慶長の内裏の造営は1611年から1614年にかけてで、その建物は寛永の造営のときに一部が取り壊された。今の京都御所の建物は、安政元(1854)年の焼失のあと、翌年に建て直されたものである。

正清の父は誰?

法隆寺の大工棟梁だった中井正吉である。辞典によっては「孫太夫の子」とも書かれるが、別の辞典は「中井孫大夫正吉の子」としており、孫太夫(孫大夫)は正吉の通称にあたる。

徳川の家臣なのに、なぜ豊臣の仕事もしたの?

法隆寺の慶長大修理や方広寺大仏殿の再建は、豊臣秀頼が援助したり命じたりした事業で、正清はその大工棟梁を務めた。同じ時期に、正清は家康のもとで城や御殿の作事も担っていた。なぜ両方を任されたのかは、ここで参考にした資料には書かれていない。

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参考にした資料