人物ページ / 1560年〜1624年・徳川家康の異父弟・桑名藩3代藩主

松平定勝まつだいら さだかつ

松平定勝とは?

松平定勝は、徳川家康の異父弟(母が同じで父が違う弟)で、1617年に伏見から伊勢国桑名(今の三重県桑名市)へ移り、11万石を領する桑名藩3代藩主を務めた人物です。

母は徳川家康の生母・於大の方、父は久松俊勝ひさまつとしかつです。於大の方が松平広忠と離別して再嫁したあとの子で、家康とは母を同じくします。
遠江国掛川(今の静岡県掛川市)の3万石が、定勝から子の松平定行さだゆきへ譲られ、定行が掛川藩主になります。
本多家が播磨国姫路へ移った後任として、山城国伏見から伊勢国桑名に入り、11万石の桑名城主になりました。桑名藩の3代藩主にあたります。
桑名の隣の伊勢国長島(今の三重県桑名市長島町)の藩主を、桑名藩主のまま3年ほど兼ねました。
1624年 没する
寛永元年に没し、6月5日に定行が所領を継ぎます。定行は父をとむらうために、桑名市東方ひがしかたにある照源寺しょうげんじを建てました。
定行が伊予国松山(今の愛媛県松山市)へ移り、入れかわりに弟の定綱さだつなが美濃国大垣から桑名へ入ります。

再婚の先に生まれる——於大の方と久松俊勝の子として

松平定勝は1560年に生まれた。母は徳川家康の生母である於大の方、父は久松俊勝である。於大の方は14歳で岡崎城主の松平広忠に嫁ぎ、翌年に竹千代(のちの家康)を産んだあと、政略のうえで離別させられ、坂部城主の久松俊勝に再嫁した。定勝はその再婚のあとに生まれた子で、家康とは母を同じくする。生まれた月日については、今回の公的資料には記述がない。生まれた場所は、阿久比町に伝わる昔話に坂部城と出てくる。

離別の事情 実家が織田方に付いたこと

於大の方と松平広忠が離別したのは、竹千代が3歳の天文13(1544)年である。於大の方の実家が織田方に属したことが大きな要因とされ、広忠は離別することで、松平家が今川方に残ることを示したとされている。父の違う弟が生まれたのは、この離別があったためである。

阿久比の15年 母が暮らした土地と、父の城の呼び名

再嫁したあと、於大の方は阿久比あぐい(今の愛知県知多郡阿久比町)で15年を過ごした。定勝の父の城は、資料によって書き方が分かれ、坂部城とするものと阿古居あぐい城とするものがある。この家は、阿久比を本拠とする松平(久松)家として紹介される。

掛川3万石を子に譲る——1607年、家の中で領地が動いた

慶長12(1607)年の閏うるう4月、遠江国掛川(今の静岡県掛川市)の3万石が、定勝から子の松平定行へ譲られた。定行はこれによって掛川藩主となる。定行は1587年に三河国宝飯郡西郡(今の愛知県蒲郡がまごおり市)で生まれており、このとき20歳ほどだった。定勝がいつから掛川を領していたのか、また子に譲った理由については、今回の公的資料には記述がない。

松平(久松)家 定勝と定行が属した一族

定行は、阿古居城を本拠とする松平(久松)家の一族として、松平定勝の次男と記されている。掛川の3万石は、この家の中で父から子へ移った所領である。

子どもたち 名前が残るのは次男から六男まで

定勝の子で名前と生没年が記録に残るのは、次男の定行(1587〜1668年)、三男の定綱(1592〜1651年)、五男の定房さだふさ(1604〜1676年)、六男の定政さだまさ(1610〜1672年)である。長男と四男が誰であったかは、今回の公的資料には記述がない。

伏見から桑名へ移る——1617年、11万石の城主になる

元和3(1617)年7月、定勝は山城国伏見から伊勢国桑名へ移り、11万石の桑名城主となった。桑名藩の3代藩主にあたる。前年の元和2(1616)年、桑名城主・本多忠政ほんだ ただまさ(初代藩主本多忠勝の子)の子の忠刻ただときが、徳川家康の孫の千姫せんひめと結婚した。その翌年に本多家が播磨国姫路(今の兵庫県姫路市)へ移り、その後任として定勝が入る。定勝は城の郭(くるわ)である吉之丸よしのまる・外朝日丸などを拡張した。伏見にいたころの所領や役目については、今回の公的資料には記述がない。

桑名という土地 三つの街道が集まる町

江戸時代の桑名は、東海道と、桑名から多度を通って岐阜県側へ向かう美濃街道、桑名からいなべを通って岐阜県側へ向かう員弁いなべ街道が発達した町だった。桑名藩の領地は、今の桑名市の大部分(多度町を含む)と、いなべ市の一部、四日市市の一部にあたる。

なぜ定勝が入ったか 家康の血縁だから、交通の要所を任された

徳川家康は、親藩しんぱん(徳川氏の親せきの大名)・譜代ふだい(関ヶ原の戦いの前から家来だった大名)・外様とざま(関ヶ原の戦いの後に家来になった大名)のうち、信用できる大名を交通の中心や反乱の起こりそうな場所の藩主にした。桑名の初代藩主の本多忠勝は、関ヶ原の戦いの前から家来だった家である。その子の代で家が姫路へ移ったあとに、家康の異父弟である定勝が入った。

長島藩主も兼ねる——1621年からの3年

元和7(1621)年から1624年まで、定勝は伊勢国長島の藩主も兼ねた。長島は桑名藩とは別に藩が置かれた土地で、今はどちらも三重県桑名市に含まれる。長島藩ではそれまで菅沼すがぬま定仍、続いて定芳が藩主を務め、定芳は長島城の修理と城下町の整備を行っていた。定芳が近江国膳所ぜぜ(今の滋賀県大津市)へ移ったあとを、桑名藩主のまま定勝が引き受けた。

二つの藩 隣り合う土地を、同じ人が預かった

桑名11万石と長島を、定勝は3年ほど同時に預かった。徳川に近い一族が、伊勢の入口にあたる隣り合う二つの藩を同時に任された時期にあたる。

そのあと 長島は定勝の子が続けて継いだ

定勝が没した1624年に、定勝のもうひとりの子である定実さだざねが長島藩主を継いだ。定実は病弱のため、翌1625年に弟の定房へ譲ったと記録されている。定房は1635年まで、そのあと定政が1649年まで長島藩主を務めた。

没する——寛永元年の死去と、照源寺の墓所

寛永元(1624)年、定勝は没した。1560年生まれと記録されるので、64歳から65歳のころにあたる。6月5日、子の定行が所領を相続し、桑名藩の4代藩主となった。定行は父の菩提ぼだいをとむらうため、桑名市東方ひがしかたにある照源寺を創建した。

照源寺 藩主とその妻子が葬られた寺

照源寺には、明治時代にいたるまで桑名藩主やその妻子が埋葬された。境内の墓所は昭和12(1937)年に三重県の史跡に指定され、「松平定綱及一統之墓所」という名称が付いている。

今の調査 国の史跡を目指す発掘が進む

桑名市は、この墓所を国の史跡に指定してもらうことを目指し、令和7(2025)年度から発掘調査を始めた。墓所の範囲、時期ごとの移り変わり、地中の遺構や遺物の残り具合を確かめる調査で、令和9年度ごろまで続く予定である。

子の代に家が分かれる——桑名、松山、長島

定勝の子は、桑名・松山・長島などの藩主になった。桑名を継いだ定行は、寛永12(1635)年に伊予国松山15万石へ移り、松山藩の松平(久松)家の初代藩主となる。入れかわりに、三男の定綱が美濃国大垣(今の岐阜県大垣市)から桑名へ入り、11万3千石を領した。桑名城と城下町がほぼ形を整え「海道の名城」と呼ばれるようになったのは、この定綱のときである。

長島から今治・刈谷へ 子どもたちが移った先

長島藩主を務めた五男の定房は、のちに伊予国今治(今の愛媛県今治市)へ移った。六男の定政は、長島城の修理や新田の開発を行ったあと、三河国刈谷(今の愛知県刈谷市)へ移った。定勝の子の代で、この家は伊勢・伊予・三河に分かれている。

家の呼び名 「松平(久松)家」とも「久松松平家」とも書く

この一族は、資料によって書き方が分かれ、「松平(久松)家」と書くものと「久松松平家」と書くものがある。

松平定勝の疑問に答える

家康の家臣なのか、親族なのか?

どちらの面もある。血縁としては母を同じくする弟で、立場としては桑名11万石を任された藩主である。呼び方は資料によって分かれ、「徳川家康の弟」とだけ書くものと、「徳川家康の異父弟」と父の違いまで書き分けるものとがある。

なぜ、家康と父が違う?

母の於大の方が、竹千代(のちの家康)を産んだあとに松平広忠と離別し、久松俊勝に再嫁したためである。離別の事情は「再婚の先に生まれる」の章にまとめてある。定勝は、その再婚のあとに生まれた子である。

桑名の前は、どこにいた?

山城国の伏見(今の京都市伏見区)から桑名へ移ったと記録されている。1607年に遠江国掛川の3万石を子の定行へ譲った記録があるので、それ以前に掛川と関わりを持っていたとみられる。

伊予松山との関係は?

松山へ移ったのは、定勝の子の定行である。定行は1635年に桑名から松山15万石へ移り、松山藩の松平(久松)家の初代藩主となった。定勝自身が伊予松山を領したという記述は、今回の公的資料には記述がない。

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参考にした資料