人物ページ / 会津・宇都宮・豊臣政権の大名

蒲生秀行がもうひでゆき

蒲生秀行とは?

13歳で会津(今の福島県会津若松市)を継いだが、家中の不和で宇都宮(今の栃木県宇都宮市)へ移され、関ヶ原の戦いの功績で会津へ戻った大名です。

父・蒲生氏郷の急死により、嫡男ちゃくなんの秀行が13歳で蒲生家の家督を継ぎます。
会津を離れ、宇都宮18万石へ移されます。
関ヶ原の戦い(1600年)のころ、秀行は宇都宮城の城郭整備を行い、会津征伐の拠点としました。
関ヶ原の戦いでの功績により、慶長6年(1601年)に会津へ復帰します。
会津では城郭の整備や多くの社寺の再興など、町方まちかた(城下の町人が住む区域)の振興に努めました。
家中の不和などの心労が重なり、30歳で死去します。子の忠郷たださとが跡を継ぎ、蒲生家三代目の領主となりました。

13歳の家督——父の急死で、会津の家を受け継いだ

蒲生秀行は、蒲生氏郷の嫡男である。父が急に世を去り、秀行は13歳で蒲生家の家督を継いだ。氏郷は会津若松の城下町の礎いしずえを築いた大名で、秀行が受け取ったのは、その城と城下、そして父の代から仕えてきた家臣たちだった。

家督とは 当主の地位と、所領と家臣を、まとめて引き継ぐ

家督は、家の当主の地位と、それに伴う所領や家臣をまとめて引き継ぐことをいう。当主が代われば、領地の管理も、家臣への指示も、新しい当主の名で動く。13歳の秀行も、家督を継いだ時点で当主として扱われた。

受け取ったもの 父が整えた城下を、そのまま拠点にした

秀行の拠点は、父・氏郷が整えた会津の城と城下である。城下がどのように作られたかは会津黒川・若松のページ、父自身の経歴は蒲生氏郷のページで扱う。秀行の代には、家中の不和が豊臣秀吉に咎められる。

宇都宮18万石——家中の不和を咎められ、会津を離れた

家督を継いだのち、秀行は家中の不和を関白・豊臣秀吉に咎められ、会津から宇都宮18万石へ移された。公的な資料が理由として挙げるのは「家中の不和」というこの一点で、だれとだれの間の、何をめぐる不和だったかまでは、その文面からはたどれない。

石高とは 領地の大きさを、米の量で表す

石高こくだかは、領地の大きさを米の量に換算して表す言い方である。18万石は、宇都宮へ移されたあとの秀行の領地の大きさとして記録された数字にあたる。大名の格も、動員できる兵の数も、この数字を基準に測られた。

移されるということ 城も城下も家臣も、まるごと動く

大名を別の土地へ移す処分には、当主の移動のほかに大きな作業が伴う。城と城下の運営、家臣それぞれの知行ちぎょう地、年貢の取り方までを、新しい土地の条件に合わせて組み直す必要がある。会津から宇都宮への移動で、蒲生家はその作業を一度通った。

宇都宮城の整備——会津征伐の拠点として、城の形を整えた

関ヶ原の戦い(1600年)のころ、秀行は宇都宮城の城郭整備を行った。この城は、会津の上杉景勝を討つために動いた会津征伐の拠点として使われる。秀行の手が入ったこのときの姿が、近世の宇都宮城下の原形になったとされる。

城の始まり 最初の築城には、平安・中世の伝承がある

宇都宮城が最初に築かれた経緯には、平安から中世にかけての築城伝承が二つ伝わる。近世の宇都宮城下の原形を整えたのは、秀行や本多正純ほんだ まさずみによる整備である。

秀行のあとの整備 秀行のあと、本多正純が手を入れた

秀行の整備の次に宇都宮城へ大きく手が入るのは、1619年から1622年にかけてである。二代将軍・徳川秀忠とくがわ ひでただの日光社参にっこうしゃさん(将軍が日光へ参詣すること)にそなえて、本多正純ほんだまさずみが城郭整備を行った。宇都宮城の姿は、始まりの伝承、秀行の整備、正純の整備という段階を追ってたどられる。

会津へ復帰——慶長6年から、「蒲生家(再封)」の時代

関ヶ原の戦いでの功績により、秀行は慶長6年(1601年)に会津へ戻った。会津の家臣について調べるときには、この慶長6年から、子・忠郷が世を去る寛永4年(1627年)までを「蒲生家(再封)」の時代と呼び、一つの時期として区切る。

再封とは 一度離れた土地へ、もう一度置かれる

再封さいほうは、一度離れた土地へもう一度領主として置かれることをいう。蒲生家の会津支配は、氏郷の代と、秀行が戻ってからの代の二つに分かれる。前後で領主の家は同じでも、間に別の大名の支配を挟むため、後のほうを「再封」と呼び分ける。

城下の振興——城郭の整備と、社寺の再興

会津に戻った秀行は、城郭の整備や多くの社寺の再興など、町方の振興に努めた。数年ぶりに会津へ戻り、父が作った城と町を、あらためて整え直す仕事にあたる。

町方とは 城下のうち、町人が住み、商いをする区域

町方は、城下町のうち町人が住んで商いをする区域を指す言葉である。武士の住む区域とは別に町割りされ、市や職人の仕事もここに集まった。町方の振興は、城の普請と並んで、城下に人と物を戻す仕事にあたった。

社寺の再興 多くの社寺に、手を入れ直した

秀行が会津で行ったこととして記録されているのは、城郭の整備と並ぶ「多くの社寺の再興」である。社寺は城下の人が集まる場であり、領主が替われば保護のあり方も替わった。秀行自身の菩提寺ぼだいじ(一族の葬りと供養を受け持つ寺)となる弘真院も、のちに秀行の廟が建つ場所である。

30歳での死去——子の忠郷が、蒲生家三代目を継いだ

会津へ戻ったのちの秀行には、家中の不和などの心労が重なった。秀行は30歳の若さで死去し、跡は子の忠郷が継ぐ。忠郷は氏郷の孫にあたり、蒲生家三代目の領主として数えられる。忠郷が世を去ったのは寛永4年(1627年)である。

三代の数え方 氏郷、秀行、忠郷

会津の蒲生家は、氏郷を初代、秀行を二代目、忠郷を三代目と数える。忠郷から見れば、氏郷は祖父、秀行は父にあたる。この三代のうち、会津にいた期間が宇都宮への移動で二つに割れているのは、秀行の代だけである。

秀行が残したもの——会津若松に立つ、蒲生秀行廟

秀行の名は、宇都宮では城下の原形として、会津では墓所の建物として残った。会津若松市の廟びょう(貴人の墓所に建てる建物)は、修理を重ねながら今も建っている。

蒲生秀行廟 五輪塔を、木造の建物が包んでいる

蒲生秀行廟は、秀行の菩提寺である弘真院の境内に、今から約400年前に建てられた。石造りの五輪塔があり、それを護るように木造の鞘堂さやどう(外から建物や石造物を覆う建物)が建つ形式である。

県の重要文化財 桃山から江戸初期の特色が、細部に残る

鞘堂は、遺構の原型部分、とくに懸魚げぎょ(棟木や桁の端に取り付ける飾りの板)に桃山ないし江戸初期の特色があり、建築当時の様式をよく残しているとして、昭和61年に福島県の重要文化財に指定された。

屋根の葺き替え 茅葺きから、銅板葺きへ

平成3年に建物の解体修理が行われ、茅葺かやぶき屋根も葺き替えられた。それから30年以上が過ぎて茅が痩せ、窪みや隙間が目立ってきたため、今後の維持管理を考えて銅板葺きへ葺き替える工事が二か年度で進められている。銅板葺きでも、軒の反りといった茅葺きの曲線は再現できる。

蒲生秀行の疑問に答える

なぜ会津から宇都宮へ移されたのか?

公的な資料が理由として書くのは、家中の不和を豊臣秀吉に咎められたという一点である。ほぼ同じころ、上杉景勝が会津へ入っている。ただし、二つを結びつける記述は、ここで参照した公的な資料には出てこない。

秀行が生きたのは、いつごろ?

生まれた年と没した年を西暦で示した記述は、公的資料には見当たらない。確認できるのは、13歳で家督を継ぎ、慶長6年(1601年)に会津へ復帰し、30歳で死去したという年齢と年号で、遅くとも1601年には会津の当主として活動していたことが分かる。

会津での石高は、どれくらいだったのか?

数字がはっきり残るのは、宇都宮での18万石である。会津での石高は、家督を継いだ時点も、復帰後も、数字を明記した公的資料が見当たらない。父・氏郷の代の会津の大きさについては、蒲生氏郷のページで扱う。

秀行の廟と、子・忠郷の五輪塔は、同じ場所にある?

別々の場所にある。秀行の廟は会津若松市館馬町の弘真院の境内、忠郷の五輪塔は会津若松市中央二丁目の高巌寺の裏にあたる。指定の区分も分かれており、廟は福島県の重要文化財、五輪塔は会津若松市の指定文化財の史跡である。

蒲生秀行から、次にたどる

参考にした資料