信長ルート / 1567〜1573年 / 岐阜から畿内へ

上洛、畿内への進出

岐阜を手にした信長は、足利義昭を奉じて京都へ向かいます。将軍の権威と信長の軍事力が結びつき、戦いの舞台は尾張・美濃から畿内へ広がりました。上洛、浅井・朝倉との決裂、義昭の追放までを追うと、信長が中央の主導者になる道筋が見えてきます。

岐阜城 足利義昭 上洛 室町幕府の終わり

岐阜を得て、信長の舞台が変わる

1567年、信長は稲葉山城を攻略して岐阜を本拠にします。尾張の外に安定した基盤を得たことで、信長は京都と畿内へ軍を動かせる位置に立ちました。けれども、上洛は領土を広げるだけの進軍ではありません。

第13代将軍・足利義輝の死後、弟の義昭は将軍就任を求めて各地の大名に協力を求めていました。信長は義昭を支えて京都へ入り、義昭は15代将軍となります。信長の軍事力と義昭の権威は、京都の政治を動かすために互いを必要としていました。

信長の変化

尾張・美濃を治める大名から、京都と畿内の秩序に関わる存在へ変わります。

義昭の変化

将軍候補から、京都に戻った室町幕府15代将軍になります。

畿内の変化

三好方などが築いてきた政治の枠組みが揺れ、諸勢力の関係が組み替わります。

上洛から畿内の主導権へ

  1. 011565年、将軍・足利義輝が殺害される

    将軍家の後継問題が起こり、弟の義昭は京都へ戻って将軍に就くための協力者を探します。

  2. 021567年、信長が美濃を得て岐阜を本拠にする

    稲葉山城を攻略した信長は、尾張から北へ勢力を広げ、上洛のための軍事・政治の足場を整えます。

  3. 031568年、義昭を奉じて京都へ進出する

    近江・摂津を通って畿内へ入り、義昭を将軍に立てます。ここから信長は京都の政治と切り離せない存在になります。

  4. 041570年、浅井・朝倉との対立が表面化する

    金ヶ崎の退却と姉川の戦いを通じて、信長は北近江・越前の勢力と本格的に戦うことになります。

  5. 051573年、義昭を追放し室町幕府が終わる

    将軍との協力関係は主導権争いへ変わり、義昭は京都を去ります。信長は畿内での立場を大きく固めました。

畿内への進出を形づくった人物

上洛を軸にすると、信長と義昭の協力、浅井・朝倉との関係、そしてその決裂が一本の流れとしてつながります。

「上洛した」で終わらせない

1568年の上洛は大きな事件ですが、信長の畿内進出はその一日で完成したわけではありません。義昭を将軍に立て、近江・越前の勢力と対立し、最終的に義昭を追放するまでを続けて見ると、信長の立場の変化が分かります。

三つの読み解きポイント

  • 将軍の権威と信長の力が結びついた

    信長は義昭を奉じることで、京都の政治に関わる意味を得ました。義昭もまた、信長の軍事力によって将軍になれました。

  • 畿内進出は、新しい敵と関係を生んだ

    浅井・朝倉、三好方、本願寺など、信長は尾張・美濃とは異なる政治と軍事の網の目に入ります。

  • 1573年は協力関係の結末

    義昭追放は室町幕府の終わりと結びつく出来事です。上洛と追放を対にすると、信長の進出がどこまで進んだかをつかめます。

参考にした資料

信長の上洛から義昭追放までの流れを、公開されている自治体・博物館・公的アーカイブの資料を参照して独自に整理しています。上洛の軍事行動と信長・義昭の関係の細部には、史料と研究による解釈の違いがあります。

畿内から、信長の時代を広げる

上洛の瞬間を詳しく見ることも、浅井・朝倉との戦いへ進むこともできます。畿内進出を起点に、信長の政権がどう広がるかをたどってください。