人物ページ / 1560年〜1639年・徳川家の旗本

大久保忠教おおくぼただたか

大久保忠教とは?

晩年に徳川家の来歴を記した『三河物語』を書き残した旗本で、今の愛知県岡崎市にあたる三河・上和田に大久保忠員ただかずの八男として生まれ、徳川家康・徳川秀忠とくがわ ひでただ・徳川家光の三代に仕えた人物です。

徳川家譜代の家臣・大久保忠員の八男として、三河の上和田(今の愛知県岡崎市上和田町)に生まれます。通称は彦左衛門。
15歳で浜松の徳川家康に仕え、遠江の犬居いぬい城攻め、高天神城攻めと、武田軍との戦いで戦功を重ねます。
大坂冬の陣・大坂夏の陣に鎗奉行やりぶぎょうとして加わります。家康の死後も徳川秀忠の上洛に従い、徳川家光の代まで奉公を続けました。
子孫のために『三河物語』を著します。草稿の完成は元和8年(1622)、最終的な完成は寛永3年(1626)と推定されています。
徳川家光の時代に旗奉行はたぶぎょうへ転じ、翌年7月に1,000石を加増されて、あわせて2,000石を知行しました。
80歳で没し、今の岡崎市竜泉寺町にある長福寺墓地に葬られます。墓は1962年に岡崎市の指定史跡となりました。

上和田に生まれる——徳川家譜代、大久保忠員の八男

大久保忠教は1560年(永禄3)、三河の上和田に生まれた。今の愛知県岡崎市上和田町にあたる。父は徳川家譜代の家臣・大久保忠員で、忠教はその八男である。通称は彦左衛門といい、後世まで広く伝わったのはこちらの呼び名のほうである。

大久保の家 徳川家譜代の家柄

大久保家は徳川家譜代の家柄で、忠教もその家の一員として家康のもとに入り、10代のうちから戦場に出た。父・忠員の墓は、忠教の墓と同じ岡崎市指定の史跡に含まれる。

15歳で浜松へ——遠江で武田軍と戦う

1575年(天正3)、忠教は15歳で、浜松にいた徳川家康に仕えた。翌1576年には遠江の犬居城攻めに加わり、1581年(天正9)には同じ遠江の高天神城攻めに加わっている。どちらも武田軍との戦いで、忠教はこの一連の戦いで戦功を上げた。

初陣 最初の戦いは17歳のとき

初陣ういじん(はじめて戦に出ること)を遂げたのは17歳と伝わる。翌1576年には遠江犬居城攻めにも加わっており、忠教は10代のうちから武田軍との戦いに出ていた。

遠江という戦場 出仕した時期の徳川家が向き合っていた相手

犬居城も高天神城も遠江にある。忠教が出仕した1570年代後半、徳川家は遠江で武田軍と戦い続けており、忠教の初期の軍歴はこの二つの城攻めに集約される。

大坂の陣——鎗奉行として参陣する

1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦にも参陣したと年譜に挙がるが、忠教自身が何をしたかまでは分かっていない。1614年(慶長19)から翌年にかけての大坂冬の陣・大坂夏の陣には、鎗奉行として加わった。鎗奉行は、槍を持つ部隊をまとめる戦場の役である。15歳で家康に仕えてから、およそ40年が経っていた。

合戦の側 陣の経過は、それぞれのページで

忠教は大坂冬の陣・夏の陣の両方に鎗奉行として加わったと記録されているが、詳しい経過までは分かっていない。両陣の布陣や経過は、大坂冬の陣・大坂夏の陣のページで扱う。

三代への奉公 家康・秀忠・家光に仕えた

忠教が仕えたのは家康・秀忠・家光の三代にわたる。家康の死後は2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代まで徳川家への奉公を続けた。

『三河物語』——子孫のために書いた、徳川家の来歴

忠教が晩年に著したのが『三河物語』である。徳川家の祖先から家康に至るまでの事蹟を、大久保一族の勲功と自身の武功を織り込みながら記した本で、家訓かくん(子孫に守らせる家の教え)としての性格が強い歴史書である。草稿の完成は元和8年(1622)、最終的な完成は寛永3年(1626)と推定されており、上中下の3冊で伝わる。

書いた理由 子孫に武功と教訓を伝えるため

余生を送りながら、子孫に武功と教訓を伝えるために書かれた。三河以来の旗本が厚遇されていない現状への不満を抱きつつ、それでも徳川家への忠義を激しい口調で子孫に説く記述が置かれており、その語り口が本書の特色である。

中身の形 家康一代記ともいうべき形式

全体は、家康一代記ともいうべき形式をとる。近世初期の武士の生活と思想、とりわけ三河武士団の姿を伝え、当時の語法を詳しく示す点で、文学史の上でも重要とされる。忠教自身が戦場に立った経験が、そのまま記述の材料に組み込まれている。

1974年 自筆本が重要文化財に指定された

自筆本は1974年(昭和49)6月8日、書跡・典籍の重要文化財に指定された。3冊で、現存する唯一の著者自筆本として注目されている。国の指定文化財のデータでは、所在都道府県は愛知県とされる。

旗奉行と二千石——家光の代に就いた役

寛永9年(1632)、3代将軍・徳川家光の時代に、忠教は旗奉行へ転じた。旗奉行は、合戦で主君の旗を預かる役である。翌年7月には1,000石を加増され、あわせて2,000石を知行ちぎょう(将軍から与えられた土地とその年貢)した。70歳を過ぎてからの役替えと加増だった。

知行地 与えられたのは、故郷の三河だった

後年、忠教は故郷の三河に知行地を与えられた。今の岡崎市竜泉寺町・桑谷町・生平町と、幸田町坂崎にあたる地域である。生まれた上和田から遠くない範囲に、忠教の所領がまとまって置かれた。

坂崎の陣屋跡 石垣が今も残っている

幸田町坂崎には、知行地を治めるために置かれた陣屋じんや(城を持たない領主の役所)の跡があり、当時の石垣が残る。

長福寺墓地——80歳での死と、市の指定史跡になった墓

寛永16年(1639)、忠教は80歳で没した。葬られたのは、今の愛知県岡崎市竜泉寺町にある長福寺墓地である。墓は高さ124.22センチの五輪塔ごりんとう(五つの石を積み上げた供養塔)で、周囲は自然石で高さ1メートルほどに築いてある。

墓石に刻まれた名 「大久保彦左衛門」と没した時期

墓石の側面には「大久保彦左衛門 寛永16(1639)年2月下旬」と刻まれている。石に残されたのは、忠教という名よりも通称の彦左衛門のほうだった。この墓は1962年(昭和37)6月15日、岡崎市の指定史跡となった。

大久保家の菩提寺 父の墓も同じ指定に含まれる

岡崎市の史跡指定は、忠教の墓を含む三基の墓をひとまとめにしたもので、父・大久保忠員の墓もこの指定に含まれる。大久保家一族の菩提寺である長福寺は、忠教の墓所から西へ500メートルほどのところにあり、法華経10巻や位牌6基、石造の宝塔3基を所有している。

彦左衛門という名の広がり——後世についた愛称

大久保忠教の名は、今日では通称の彦左衛門のほうがよく知られている。三河武士としての誇りを保った生き方が語り継がれ、映画の主人公として取り上げられることも多い。

後世の呼び名 「天下のご意見番」は後からついた愛称

忠教は「天下のご意見番」の愛称で親しまれている。ただしこれは後世に広まった呼び方で、忠教が同時代にそうした役回りを務めたことを示す記述は見当たらない。役職として確認できるのは、鎗奉行と旗奉行である。

大久保忠教の疑問に答える

大久保忠世・大久保忠佐とはどういう関係?

今回参考にした資料には、忠世・忠佐と忠教の続柄を直接示す記述がない。三人とも大久保の姓を持ち、徳川家に仕えた人物として記録が残っている。忠世・忠佐それぞれの経歴は、各人物ページで扱う。

『三河物語』の自筆本は、今どこにある?

『国宝・重要文化財総合目録』は東京都大田区の個人蔵とし、『日本思想大系』と『国書総目録』は愛知県豊川市の穂久邇ほくに文庫の保管とする。国の指定文化財のデータでは所在都道府県が愛知県となっており、資料によって書き方が分かれる。

関ヶ原の戦いには出た?

忠教の年譜には1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦が項目として挙がっているが、忠教自身がそこで何をしたかは分かっていない。年譜のうえで戦への参加が具体的に書かれるのは、1570年代から1580年代の遠江での戦いと、1614年からの大坂の陣である。

大久保忠教から、次にたどる

参考にした資料