板倉勝重とは?
板倉勝重は、幼くして出家しながら父と、跡を継いだ定重の戦死を受けて徳川家康の命で武士に戻り、江戸の町奉行や今の東京都板橋区・練馬区にあたる村々の代官を経て、江戸幕府の初代京都所司代として朝廷との窓口と京の治安を担った人物です。
出家と還俗——僧だった次男が、江戸の町を預かるまで
板倉勝重は天文14年(1545)、三河の板倉家に、板倉好重の次男として生まれた。『寛政重修諸家譜』の巻第八一によれば、この家は勝重の祖父・頼重の代から三河国の深溝松平氏に仕えていた。次男の勝重は幼くして出家し、僧として育った。
相次ぐ戦死 父が討たれ、跡を継いだ者も討たれた
父の好重が戦死し、跡を継いだ定重も戦死した。板倉家に家督を継ぐ者がいなくなったところで、徳川家康が勝重に還俗(僧が俗人の生活に戻ること)を命じ、板倉家を継がせて自らの家臣とした。
江戸の町奉行 家康の関東入りとともに、町を預かった
家康が関東の支配を始めると、勝重は江戸の町奉行を務めた。あわせて堀之内村と中台村(今の東京都板橋区)を知行地として与えられている。江戸城に近いこの一帯は、家康の直轄地や旗本領となっていった区域である。
代官と地奉行 街道の要地を、あわせて預かった
知行地の周辺、今の東京都板橋区・練馬区にあたる赤塚・徳丸・下練馬・土支田など8000石余を代官として支配した。さらに小田原の地奉行も務めている。家康が新しい領国の経営に着手した時期に、拠点である江戸の治安と、中山道・東海道の要地を守る役目を担った。
京都所司代への就任——就いた年は、資料によって書き方が分かれる
江戸幕府が開かれる前後に、勝重は京都所司代に任じられた。京都所司代は、朝廷・公家への対応と、畿内・西国の支配の統括をあわせ持つ役で、老中に次ぐ重職とされる。ただし勝重がその職に就いた年については、公的な資料の間で書き方が三通りに分かれる。
三通りの表記 慶長5年、慶長6年、慶長8年
家康によって慶長5年(1600)に任ぜられたと書く資料がある。慶長6年(1601)8月に命ぜられたと書く資料と、慶長6年に初代京都所司代に任ぜられたと書く資料がある。慶長8年(1603)に江戸幕府が開かれると登用されたと書く資料もある。就任の年は、資料によって書き方が分かれる。
6610石の加増 三河の三郡で、新しい領村を与えられた
慶長6年(1601)8月に所司代を命ぜられた際、貝吹村・永良村など碧海・幡豆・額田の三郡で6610石を加増された。今の愛知県西尾市域を含む土地である。
仕置之覚 新しい領村へ、七か条を示した
同じ年の9月23日、板倉四郎右衛門の名で、貝吹村と永良村の庄屋・百姓中に宛てた七か条の文書が出されている。仕置之覚と呼ばれ、新たな領村の領民が守るべき事柄を示したものである。縦31.3センチ、横45.9センチの一通で、今は西尾市の指定文化財である。
所司代の仕事——朝廷への日常の報告と、京の人さらいの取り締まり
勝重は慶長8年(1603)以降、上京区堀川通竹屋町の西北角に建てられた官邸に住んだ。ここは堀川屋敷とも呼ばれ、京都所司代邸の一郭をなした。所司代として何をしていたのかは、残る書状と書状案、京の文化人との交流からうかがえる。
元和2年(1616) 人さらいの取り締まりを、朽木領にまで求めた
京都所司代の勝重から朽木元綱に宛てた書状の案が残っている。京では女性や幼児が誘拐され、人身売買が横行していた。書状は、朽木領でも若狭国へ向かう女性や15歳以下の子供を連れた者がいれば尋問し、不審な者を通さないよう指示している。京で連れ去った者を若狭から船で全国へ運び出す経路があり、その途上に朽木家の所領があった。書状案を収める『朽木家古文書』は重要文化財である。
武家伝奏へ 家康が鶴を捕らえた、という知らせ
朝廷側の連絡係である武家伝奏(朝廷と幕府をつなぐ公家の役)の広橋兼勝と勧修寺光豊に宛てた書状も残る。内容は、大御所(将軍を退いた徳川家康)が、今の静岡県磐田市にある別荘のそばで鷹狩りをして鶴を捕らえ、その鶴を上様(徳川秀忠)へ献上する、という知らせである。折り曲げた紙に書く折紙という略式の形で、日常のやりとりに使う形式である。武家と公家の間には、常に双方の連絡役が置かれていた。
京の人びとと 文化人や知識人と、身分を越えて付き合った
京では、本阿弥光悦、安楽庵策伝、石川丈山、松花堂昭乗、松永貞徳といった文化人・知識人と、身分や立場を越えた親交を結び、経済的にも支えた。石川丈山は三河の安城の出身で、勝重と同じく家康に仕えた漢学者である。
隠居と死去——京都周辺を加増され、1万6600石余の大名として退いた
元和6年(1620)、勝重は京都所司代を退いて隠居した。在任の間に京都周辺の数郡を与えられ、堀之内村・中台村などとあわせて1万6600石余となり、大名の列に入っている。寛永元年(1624)4月29日、80歳で亡くなった。
在任の長さ 17年と19年、二通りの数え方
在任の年数は、元和6年(1620)の隠居までの17年間と書く資料と、19年と書く資料がある。隠居年を書く資料は、元和6年とする。
跡を継いだ長男 重宗が、二代目の所司代を務めた
長男の重宗(1586〜1656)が二代目の京都所司代を継いだ。重宗の在任は34年におよび、堀川屋敷も引き継いだ。
長圓寺と板倉家——遺骨を納めた坐像と、備中松山への移り
勝重の遺骸は、萬燈山長圓寺(今の愛知県西尾市貝吹町)に葬られた。曹洞宗の寺で、勝重とその子孫にあたる板倉六家(板倉氏が分かれた六つの家)の菩提寺である。寛永7年(1630)、勝重の七回忌にあたる年に、長男の重宗が寺を現在地へ移し、霊廟の肖影堂を中心とした伽藍を整えた。寺の成り立ちは、寛永7年の創建と書く資料、現在地への移転と書く資料、勝重が慶長年間に再興した寺と書く資料があり、書き方が分かれる。
肖影堂 三間四方の宝形造、扁額は石川丈山の筆
愛知県指定の建造物で、桁行三間・梁間三間の宝形造(四方の屋根が頂点で合わさる形)、本瓦葺。内部には作り付けの厨子が据えられている。正面に掲げられた扁額「肖影堂」は石川丈山の筆による。
坐像 胎内に遺骨が納められていると口伝される
厨子の中に、像高70センチの木造板倉勝重坐像が祀られている。寄木造に彩色を施し、頭部が挿し首になっていて、胎内に勝重の遺骨が納められていると口伝されている。愛知県指定の彫刻で、肖影堂と同じ寛永7年ごろの制作と安置とみられ、肖像画をもとに作られたと推測されている。
肖像画 裏書だけが、元の絵から受け継がれた
長圓寺に伝わる紙本著色の肖像(愛知県指定)は、裏面に青蓮院宮尊純法親王が勝重の人柄と業績をたたえた裏書が貼り付けられ、寄進者として嫡子・重宗の名が付されている。絵そのものは江戸時代中期の作とみられ、没後まもなく作られた原画が傷んだために新調し、裏書を貼り直したものと推定されている。
その後の板倉家 嫡流は、延享元年から備中松山へ
板倉氏は数家に分かれた。嫡流は何回かの領地替えを経て、延享元年(1744)から備中松山藩(今の岡山県高梁市)に移り、明治を迎えている。板倉氏は歴代、京都所司代や老中など幕府の要職を務めた。
墓所 六家の当主と、重昌の記念碑
長圓寺の墓所には板倉六家の代々の当主と夫人の墓塔が並ぶ。島原の乱で戦死した子の重昌にちなむ「島原殉難諸士之墓」の石碑も建つ。
板倉勝重の疑問に答える
なぜ家康は、僧だった勝重を家臣にした?
板倉家では父の好重と、跡を継いだ定重が相次いで戦死し、家督を継ぐ者がいなくなっていた。家康が還俗を命じたのはこの状況を受けてのことだが、なぜ勝重を選んで直属の家臣としたのかを記した文は、公的資料には見あたらない。
いつからいつまで、京都所司代を務めた?
退いた年は元和6年(1620)である。就いた年は資料によって書き方が分かれる。在任の長さも17年間と19年で分かれる。
京都に何が残っている?
上京区堀川通竹屋町の西北角、今はひまわり幼稚園の敷地内に、板倉勝重・重宗の屋敷跡を示す石標が立つ。1970年に京都市が建てたもので、高さ98センチ、幅と奥行きがそれぞれ18センチ。東面に「板倉勝重重宗屋敷跡」と刻まれている。
勝重を描いた絵は、長圓寺のほかにもある?
備中松山へ移った板倉家ゆかりの肖像画がある。勝重と重宗の父子を祭神とする八重籬神社が所蔵していたもので、今は高梁市歴史美術館の所蔵となっている。平服姿で、頭巾をかぶり杖を持つ構図で描かれる。同じ構図は儒者の肖像画によく見られる。
参考にした資料
- 板橋区「板倉勝重~「志村」の領主~」(『寛政重修諸家譜』巻第八一による家柄・天文14年に好重の次男として生まれ幼くして出家したこと・父と定重の戦死と家康による還俗の命令・江戸の町奉行と堀之内村/中台村の知行・周辺8000石余の代官と小田原の地奉行・慶長8年に登用されたという書き方・京都所司代の職掌と老中に次ぐ重職という位置づけ・元和6年の隠居までの17年間という書き方・1万6600石余の大名・寛永元年4月29日に80歳で死去し長圓寺に葬られたこと・延享元年からの備中松山藩・八重籬神社と高梁市歴史美術館の肖像画)
- 西尾市「板倉勝重の「仕置之覚」」(慶長6年8月に京都所司代を命ぜられたという書き方・碧海/幡豆/額田三郡での6610石の加増・慶長6年9月23日付の七か条と宛先・法量と所蔵と指定)
- 西尾市「長圓寺」(慶長5年に任ぜられたという書き方・勝重19年/重宗34年という書き方・京の文化人および知識人との親交・寛永7年の創建という書き方・境内の建物と墓所・宗派と所在)
- 西尾市「長圓寺肖影堂」(桁行三間・梁間三間の宝形造本瓦葺・寛永7年に重宗が現在地へ移して伽藍を整えたこと・板倉六家の菩提寺・作り付けの厨子・石川丈山筆の扁額)
- 西尾市「木造板倉勝重坐像」(像高70センチと寄木造・彩色・挿し首・胎内に遺骨が納められているという口伝・寛永7年ごろの制作と安置の推定・肖像画をもとにしたという推測)
- 西尾市「紙本著色板倉勝重肖像」(勝重の生没年1545〜1624・重宗の生没年1586〜1656・尊純法親王の裏書と重宗の寄進・江戸時代中期の制作という推定と裏書の貼付)
- 京都市「いしぶみデータベース KA075 板倉勝重・重宗屋敷跡」(慶長6年に初代京都所司代へ任ぜられたという書き方・慶長8年以降の官邸と堀川屋敷の呼称・重宗も同邸を用いたこと・石標の所在地と寸法と碑文と建立年)
- 国立公文書館「29.板倉勝重書状案」(元和2年の朽木元綱宛書状案・京での誘拐と人身売買・先年の指令・若狭へ向かう者の尋問の指示・連れ出しの経路・『朽木家古文書』が重要文化財であること・戦国の戦場で黙認されていた行為)
- 文化庁 文化遺産オンライン「板倉勝重書状」(京都所司代が朝廷との窓口であったこと・武家伝奏の広橋兼勝と勧修寺光豊が宛先であること・折紙という略式の形式・大御所家康の鷹狩りと秀忠への鶴の献上・双方に連絡役が置かれたこと)
- 愛知県総合教育センター「板倉勝重廟所」(長圓寺の所在地・慶長年間に再興したという書き方・江戸町奉行と京都所司代を務めたこと・肖影堂と板倉氏代々の墓石・石川丈山が安城の出身であること・重昌の戦死と「島原殉難諸士之墓」・板倉氏歴代の要職)