堀秀治とは?
上杉景勝が会津へ移ったあと、今の新潟県上越市にあたる越後を任され、福島城を築いた豊臣政権の大名です。
越前から越後へ——北庄を出て、春日山43万石に入る
天正13年(1585年)以降、堀秀治は越前の北庄(今の福井県福井市)にあった。慶長3年(1598年)4月、上杉景勝が会津120万石へ転封(領地をよその国へ移されること)した跡を受けて、堀秀治は越後春日山43万石へ移る。空いた北庄には、代わって小早川秀秋が入った。
同時の決定 引き渡しは、検地が終わってから
小早川秀秋の越前領知は、堀秀治の越後転封と同時に決まっていた。ただし領地の引き渡しは、この年の5月から7月にかけて越前一国を対象に行われた太閤検地の完了後だったとみられる。秀秋が家臣へ領地を与えたのは、検地が終わった8月になってからである。秀秋の越前での領知高は12万石ともいわれるが、確かではない。
6月末 北庄に残っていた、秀治の留守居
転封の決定から二か月以上たった6月の末になっても、北庄には堀秀治の留守居(主人の不在中に城や屋敷を預かる役)が残っていた。北庄城には溝江長氏が入り、在番(城に詰めて守る勤め)を勤めている。長氏はこの年の越前の太閤検地で検地奉行も務め、検地を機に一万石に加増された。
越後に入って二年後——上杉遺民一揆と向き合う
越後は、上杉氏が長く本拠を置いた国である。堀氏が入って二年後の慶長5年(1600年)、その旧領で上杉遺民一揆が起こった。堀氏の越後統治は、この一揆と向き合うところから始まる。
一揆の跡は、今の上越市大字滝寺に残っている。滝寺毘沙門堂は、慶長5年の一揆の際に堀氏によって堂塔伽藍(お堂や寺の建物一式)を焼かれたと記録され、その後、近郷近在の人々の手で堂が建て直された。
滝寺毘沙門堂 焼かれた堂は、地元の手で建て直された
滝寺毘沙門堂は和銅5年(712年)の創建と伝えられ、上杉謙信も篤く信仰して出陣のたびに戦勝を祈願したと伝わる堂である。堂の礎石には、鎌倉時代のものとみられる五輪塔が転用されている。
春日山から福島城へ——越後ではじめての平城
上杉景勝の会津移封後、堀氏は春日山城主となった。それから9年たった慶長12年(1607年)、堀氏は福島城を築く。越後ではじめての平城(平地に築いた城)である。越後一国の城として、堀秀治と子の忠俊により築かれた規模の雄大な城郭だった。
築城の中心 家老・堀監物直政が担った
築城の中心を担ったのは、家老(家臣の筆頭にあたる重臣)の堀監物直政である。福島城は、平地で軍備と港の機能を十分に活用できる城として築かれたと伝えられる。堀氏の拠点は、春日山から平地と港のそばへ移った。
直江津 日本海に面した平地に置かれた
城が置かれたのは、今の上越市港町1・2丁目と市之町にあたる直江津の平地である。日本海に面し、関川の河口に近く、佐渡へ渡る船が今も発着する一帯にあたる。堀氏はここを越後一国の城の場所に選んだ。
港につながる城——海と川で囲み、舟で城内へ運び入れる
福島城は、北を日本海、東を当時の保倉川(現在は城の南を流れる)と関川、南を外堀で囲んで防備を固めた。城内を流れる小町川は、物資を舟で城内へ直接運び入れるのに用いられた。
昭和42〜44年 発掘でわかった本丸の姿
昭和42年から44年(1967年から1969年)にかけて行われた発掘調査により、本丸は約180メートルの方形で、腰巻の石垣(土塁の裾を覆う石垣)を持つ土塁と、幅50メートルから70メートルの堀に囲まれていたことが明らかになった。
城の外側 武家屋敷と蔵、その南に町
二の丸と三の丸には武家屋敷や蔵が配置され、三の丸の南側には町人町と寺町が広がっていたとされる。城の内側に武士、その外側に町人と寺という順で、直江津の町が組み立てられていた。
改易——慶長15年、堀家は取り潰された
築城から三年後の慶長15年(1610年)、堀家は御家取り潰し、すなわち改易となった。代わって、徳川家康の六男・松平忠輝が信濃国川中島から福島城へ入る。堀家が改易となった理由について、公的な資料には記述がない。
堀秀治が越後に残したもの——直江津へ動いた中心
堀氏が越後にいたのは、慶長3年(1598年)から慶長15年(1610年)までの12年である。その間に築かれた福島城は、いま上越市の港町・市之町にあたる場所に跡を残している。
三つの城 春日山、福島、高田
上越市には、春日山城跡、福島城跡、高田城跡という三つの城跡がある。越後の中心は、上杉氏の春日山城から堀氏の福島城へ、さらに松平忠輝の高田城へと、20年たらずの間に二度動いた。三つのうち平地の城は、堀氏の福島城から始まる。
石碑と資料 本丸跡は、学校の跡地にあたる
本丸跡は旧古城小学校の敷地内にあたり、「福島城址」の石碑が立つ。旧古城小学校内にあった福島城資料館は閉館し、館内の資料の一部は、佐渡汽船直江津港ターミナル(上越市港町)の1階に展示されている。
堀秀治の疑問に答える
上杉氏が去った越後は、すんなり治まった?
入封から二年後の慶長5年(1600年)、越後で上杉遺民一揆が起こっています。今の上越市大字滝寺にある滝寺毘沙門堂は、この一揆の際に堀氏によって堂塔伽藍を焼かれたと記録されています。
なぜ新しく福島城を築いた?
福島城は、平地で軍備と港の機能を十分に活用できる城として築かれたと伝わる。城内を流れる小町川からは、物資を舟で城内へ直接運び入れることができた。日本海に面し、関川の河口に近い直江津の平地に城を置けば、港と城が直につながる。慶長12年(1607年)に築かれた福島城は、越後ではじめての平城とされる。
堀家はその後どうなった?
慶長15年(1610年)に改易となった。福島城には徳川家康の六男・松平忠輝が信濃国川中島から入り、忠輝が慶長19年(1614年)に高田城の築城へ着手すると、福島城は堀氏の築城からわずか7年で廃城となった。
生まれた年と亡くなった年は?
公的な資料でたどれるのは、天正13年(1585年)以降に越前北庄にあったこと、慶長3年(1598年)に越後へ移ったこと、慶長12年(1607年)に福島城を築いたこと、慶長15年(1610年)に堀家が改易となったことである。生没年については、公的な資料に記述がない。
参考にした資料
- 福井県文書館『福井県史』通史編3 近世一「堀秀治の越後転封」(天正13年以降に北庄にあったこと・慶長3年4月の越後春日山43万石への転封・上杉景勝の会津120万石転封・小早川秀秋の北庄入り・越前一国の太閤検地と領地引き渡しの時期・6月末に残っていた留守居・溝江長氏の北庄在番と検地奉行・秀秋の領知高12万石という伝え)
- 上越市 文化行政課「福島城址」(上杉景勝の会津移封後に堀氏が春日山城主となったこと・慶長12年の築城と越後ではじめての平城であること・家老堀監物直政・堀秀治忠俊父子による築城・所在地・日本海と保倉川と関川と外堀による防備・小町川の舟運・昭和42〜44年の発掘調査でわかった本丸の規模と土塁と堀・二の丸三の丸の武家屋敷と町人町寺町・わずか7年での廃城・本丸跡の石碑と資料の展示先)
- 上越市 文化行政課「滝寺毘沙門堂」(慶長5年の上杉遺民一揆の際に堀氏によって堂塔伽藍が焼かれたこと・近郷近在の人による再建・和銅5年の創建の伝え・上杉謙信の信仰・礎石に転用された五輪塔)
- 上越市立歴史博物館「高田城の歴史」(越前北ノ庄城主としての越後入封・慶長15年の御家取り潰し・松平忠輝の川中島からの入封と前田利常を牽制するための配置という推定・慶長19年の高田城天下普請と13大名の任命・総裁伊達政宗)