人物ページ / 越後・春日山の豊臣大名

堀秀治ほりひではる

堀秀治とは?

上杉景勝が会津へ移ったあと、今の新潟県上越市にあたる越後を任され、福島城を築いた豊臣政権の大名です。

越前の北庄(今の福井県福井市)にいた堀秀治は、上杉景勝が会津120万石へ移った跡を受けて、越後春日山43万石へ転封されます。北庄には小早川秀秋こばやかわ ひであきが入りました。
越後で上杉遺民一揆(上杉の旧臣による蜂起)が起こります。堀氏の統治は、この一揆と向き合うところから始まりました。
春日山城主となっていた堀氏は、直江津の平地に福島城を築きます。家老の堀直政が築城の中心を担いました。
堀家は御家取り潰しとなり、徳川家康とくがわ いえやすの六男・松平忠輝まつだいら ただてるが信濃国川中島から福島城へ入ります。

越前から越後へ——北庄を出て、春日山43万石に入る

天正13年(1585年)以降、堀秀治は越前の北庄(今の福井県福井市)にあった。慶長3年(1598年)4月、上杉景勝が会津120万石へ転封てんぽう(領地をよその国へ移されること)した跡を受けて、堀秀治は越後春日山43万石へ移る。空いた北庄には、代わって小早川秀秋が入った。

同時の決定 引き渡しは、検地が終わってから

小早川秀秋の越前領知は、堀秀治の越後転封と同時に決まっていた。ただし領地の引き渡しは、この年の5月から7月にかけて越前一国を対象に行われた太閤検地の完了後だったとみられる。秀秋が家臣へ領地を与えたのは、検地が終わった8月になってからである。秀秋の越前での領知高は12万石ともいわれるが、確かではない。

6月末 北庄に残っていた、秀治の留守居

転封の決定から二か月以上たった6月の末になっても、北庄には堀秀治の留守居るすい(主人の不在中に城や屋敷を預かる役)が残っていた。北庄城には溝江長氏みぞえながうじが入り、在番ざいばん(城に詰めて守る勤め)を勤めている。長氏はこの年の越前の太閤検地で検地奉行も務め、検地を機に一万石に加増された。

越後に入って二年後——上杉遺民一揆と向き合う

越後は、上杉氏が長く本拠を置いた国である。堀氏が入って二年後の慶長5年(1600年)、その旧領で上杉遺民一揆が起こった。堀氏の越後統治は、この一揆と向き合うところから始まる。

一揆の跡は、今の上越市大字滝寺に残っている。滝寺毘沙門堂は、慶長5年の一揆の際に堀氏によって堂塔伽藍どうとうがらん(お堂や寺の建物一式)を焼かれたと記録され、その後、近郷近在の人々の手で堂が建て直された。

滝寺毘沙門堂 焼かれた堂は、地元の手で建て直された

滝寺毘沙門堂は和銅5年(712年)の創建と伝えられ、上杉謙信うえすぎ けんしんも篤く信仰して出陣のたびに戦勝を祈願したと伝わる堂である。堂の礎石には、鎌倉時代のものとみられる五輪塔が転用されている。

春日山から福島城へ——越後ではじめての平城

上杉景勝の会津移封後、堀氏は春日山城主となった。それから9年たった慶長12年(1607年)、堀氏は福島城を築く。越後ではじめての平城ひらじろ(平地に築いた城)である。越後一国の城として、堀秀治と子の忠俊により築かれた規模の雄大な城郭だった。

築城の中心 家老・堀監物直政が担った

築城の中心を担ったのは、家老(家臣の筆頭にあたる重臣)の堀監物けんもつ直政である。福島城は、平地で軍備と港の機能を十分に活用できる城として築かれたと伝えられる。堀氏の拠点は、春日山から平地と港のそばへ移った。

直江津 日本海に面した平地に置かれた

城が置かれたのは、今の上越市港町1・2丁目と市之町にあたる直江津の平地である。日本海に面し、関川の河口に近く、佐渡へ渡る船が今も発着する一帯にあたる。堀氏はここを越後一国の城の場所に選んだ。

港につながる城——海と川で囲み、舟で城内へ運び入れる

福島城は、北を日本海、東を当時の保倉川(現在は城の南を流れる)と関川、南を外堀で囲んで防備を固めた。城内を流れる小町川は、物資を舟で城内へ直接運び入れるのに用いられた。

昭和42〜44年 発掘でわかった本丸の姿

昭和42年から44年(1967年から1969年)にかけて行われた発掘調査により、本丸は約180メートルの方形で、腰巻こしまきの石垣(土塁の裾を覆う石垣)を持つ土塁と、幅50メートルから70メートルの堀に囲まれていたことが明らかになった。

城の外側 武家屋敷と蔵、その南に町

二の丸と三の丸には武家屋敷や蔵が配置され、三の丸の南側には町人町と寺町が広がっていたとされる。城の内側に武士、その外側に町人と寺という順で、直江津の町が組み立てられていた。

改易——慶長15年、堀家は取り潰された

築城から三年後の慶長15年(1610年)、堀家は御家取り潰し、すなわち改易となった。代わって、徳川家康の六男・松平忠輝が信濃国川中島から福島城へ入る。堀家が改易となった理由について、公的な資料には記述がない。

忠輝の入封 交通の要衝に、家康の六男を置いた

徳川と豊臣の抗争が激しくなるなかで、松平忠輝が交通の要衝である福島城に置かれたのは、加賀の前田利常を牽制するためと推定されている。堀氏が築いた越後一国の城は、そのまま徳川方の拠点として使われた。

わずか7年 高田城が築かれ、福島城は廃された

忠輝は慶長19年(1614年)、天下普請てんかぶしん(幕府の命で大名に負担させる工事)として高田城の築城に着手した。普請には上杉景勝や前田利常など13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅しゅうとの伊達政宗だて まさむねが就いている。高田城が築かれたことで、福島城は堀氏の築城からわずか7年で廃城となった。

堀秀治が越後に残したもの——直江津へ動いた中心

堀氏が越後にいたのは、慶長3年(1598年)から慶長15年(1610年)までの12年である。その間に築かれた福島城は、いま上越市の港町・市之町にあたる場所に跡を残している。

三つの城 春日山、福島、高田

上越市には、春日山城跡、福島城跡、高田城跡という三つの城跡がある。越後の中心は、上杉氏の春日山城から堀氏の福島城へ、さらに松平忠輝の高田城へと、20年たらずの間に二度動いた。三つのうち平地の城は、堀氏の福島城から始まる。

石碑と資料 本丸跡は、学校の跡地にあたる

本丸跡は旧古城小学校の敷地内にあたり、「福島城址」の石碑が立つ。旧古城小学校内にあった福島城資料館は閉館し、館内の資料の一部は、佐渡汽船直江津港ターミナル(上越市港町)の1階に展示されている。

堀秀治の疑問に答える

上杉氏が去った越後は、すんなり治まった?

入封から二年後の慶長5年(1600年)、越後で上杉遺民一揆が起こっています。今の上越市大字滝寺にある滝寺毘沙門堂は、この一揆の際に堀氏によって堂塔伽藍を焼かれたと記録されています。

なぜ新しく福島城を築いた?

福島城は、平地で軍備と港の機能を十分に活用できる城として築かれたと伝わる。城内を流れる小町川からは、物資を舟で城内へ直接運び入れることができた。日本海に面し、関川の河口に近い直江津の平地に城を置けば、港と城が直につながる。慶長12年(1607年)に築かれた福島城は、越後ではじめての平城とされる。

堀家はその後どうなった?

慶長15年(1610年)に改易となった。福島城には徳川家康の六男・松平忠輝が信濃国川中島から入り、忠輝が慶長19年(1614年)に高田城の築城へ着手すると、福島城は堀氏の築城からわずか7年で廃城となった。

生まれた年と亡くなった年は?

公的な資料でたどれるのは、天正13年(1585年)以降に越前北庄にあったこと、慶長3年(1598年)に越後へ移ったこと、慶長12年(1607年)に福島城を築いたこと、慶長15年(1610年)に堀家が改易となったことである。生没年については、公的な資料に記述がない。

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参考にした資料