場所ページ / 流浪する戦国本山が京都へ戻り、近世の二つの本願寺へ分かれる場所

京都六条本願寺

京都六条本願寺は、1591年に豊臣秀吉から京都六条堀川の寺地を与えられた本願寺が、現在の西本願寺へ続く本山を置いた場所です。8月5日、顕如は大坂天満から移り、1592年には阿弥陀堂と御影堂が完成しました。山科本願寺が1532年に焼失してから約六十年、本願寺は大坂石山・紀伊鷺森・和泉貝塚・大坂天満を経て京都へ戻ったことになります。しかし到着は安定の終点ではありません。同年に顕如が死去し、長男教如がいったん寺務を担った後、1593年に秀吉の裁定で三男准如が継承します。1594年の親鸞三百三十三回忌は、准如への交替を門末へ示す役割も持ったと考えられています。1596年の大地震では両堂と寺内町が大被害を受け、1602年には徳川家康が教如へ東六条の寺地を与え、二つの本願寺が並立しました。現在の主要堂宇も1591年当時のままではなく、1617年の大火後に再建された建物です。京都六条本願寺をたどると、顕如が守った教団が都市本山として定着する一方、宗主継承と天下人の介入によって東西へ分かれていく過程が見えてきます。

1591年8月5日 京都移転 1593年 継承交替 1602年 東西分立 現在の西本願寺
本山移動の終点は、継承争いの始点になった。 顕如が京都へ戻した本願寺は、教如と准如、秀吉と家康の時代を経て二つの本山へ分かれます。
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京都六条本願寺を見る要点

京都六条本願寺は、「戦国を生き残った本願寺」と「現在の西本願寺」をつなぐ場所です。石山合戦の終結後も本山を動かし続けた顕如が、最後に寺基を定めました。

  • 1591年、秀吉が京都六条堀川の寺地を寄進
  • 1592年、阿弥陀堂・御影堂が完成し、同年顕如が死去
  • 1593年、教如が隠退し、准如が寺務を継承
  • 1596年、慶長伏見地震で両堂と寺内町が大きく倒壊
  • 1602年、家康が教如へ東六条の寺地を与え、東西の本願寺が並立

「本願寺が京都に帰って安定した」と一文で終えると、顕如の死、宗主交替、災害、東西分立が抜けます。むしろ京都移転後の十年余りは、本願寺の近世的な形が激しく組み替わった時期です。

京都六条本願寺をつくる六つの層

顕如の終点

石山・鷺森・貝塚・天満を経て、現在まで続く本山の場所を定めた。

秀吉の京都政策

寺地寄進によって本願寺を保護し、都市秩序の中へ配置した。

宗主継承

教如と准如の支持層、顕如の意向、秀吉の裁定が重なった。

西寺内

坊官・商工業者・参詣者を支える宿や仏具商が集まる町が育った。

災害と再建

1596年の地震と1617年の火災を越え、門徒の支えで堂舎を再建した。

東西分立

1602年、教如の新本願寺が成立し、位置から東・西と呼び分けられた。

人物と勢力の関係

本願寺顕如天満から京都へ本山を移し、翌年に死去した第11代宗主。
本願寺教如顕如の長男。父の死後に寺務を担い、隠退後も活動して東本願寺を成立させた。
本願寺准如顕如の三男。1593年に継承を認められ、京都本願寺の再建を担った。
豊臣秀吉六条堀川の寺地を寄進し、教如・准如の継承問題にも裁定を下した天下人。
徳川家康1602年に教如へ東六条の寺地を与え、二つの本願寺が並立する条件を作った。
下間頼廉石山合戦以来の坊官。分立後は准如側で西本願寺の運営を支えた。

じっくり年表

1532
山科本願寺が焼失。本願寺は大坂へ本山を移し、京都を離れます。
1580
顕如が信長と講和し、石山本願寺を退去。鷺森へ移ります。
1583
鷺森から和泉貝塚へ本山を移します。
1585
秀吉の寺地提供を受け、大坂天満へ移ります。
1591.8.5
顕如が天満から京都六条堀川へ移り、現在地に本願寺の寺基を定めます。
1592
阿弥陀堂・御影堂が完成。顕如が死去し、教如が寺務を担います。
1593
秀吉の裁定によって教如が隠退し、17歳ほどの准如が寺務を継承します。
1594
親鸞三百三十三回忌を厳修。准如への継承を門末へ示す法要にもなりました。
1596.7.13
慶長伏見地震で両堂・諸堂・寺内の家々が大きく倒壊します。
1602
家康が教如へ京都東六条の寺地を寄進。二つの本願寺が並立します。
1603
東山大谷の祖廟を現在の大谷本廟の地へ移します。
1617
失火で両堂をはじめ多くの堂舎が焼失します。
1636
准如の子・良如の時代に、現在の御影堂が再建されます。
1760
現在の阿弥陀堂が再建されます。

京都六条本願寺・本願寺・西本願寺

京都六条本願寺1591年に六条堀川へ移った本山を、場所と時代から示す呼び方。
本願寺現在の正式名称。浄土真宗本願寺派の本山です。
西本願寺1602年に東側の本願寺が成立した後、位置関係から定着した通称。
西六条・西寺内本山と周囲の寺内町を、東本願寺側と区別するときに使われる名称。

1591年の移転時点で、宗派名を「西本願寺派」へ変更したわけではありません。まず一つの本願寺が六条堀川へ移り、1602年以後に二つの本山を東・西と呼び分けるようになりました。

「六条」と「七条」、どちらなのか

公式史では、顕如が寺基を定めた場所を「京都堀川六条」「京都六条堀川」と表します。一方、現在の案内や周辺との位置関係では「七条堀川」「堀川花屋町」と説明されることもあります。

これは別々の本願寺を指すのではありません。歴史的な地域名・条坊や現代の道路案内が混在するためで、現在の西本願寺と同じ寺地を指しています。このページでは移転時の呼び方に合わせて「京都六条本願寺」とします。

約六十年ぶりに、京都へ戻る

本願寺は1532年に山科本願寺を焼かれ、翌年以後は大坂を本山としました。そこから石山合戦と退去を経て、紀伊・和泉・大坂天満を移動します。

1591年の六条移転は、単に大坂から京都へ引っ越した出来事ではありません。山科焼失以来、約六十年をかけて宗祖の地・京都に本山を戻した、本願寺史の大きな区切りです。

秀吉の京都改造と本願寺

秀吉は聚楽第の造営、寺町の形成、御土居の構築など、京都の空間を大きく組み替えました。本願寺の六条移転も、この京都市街経営の一部として行われました。

天満と同じく、寺地寄進は本願寺を再建させる保護である一方、巨大教団の本山を天下人が指定した場所へ配置する統制でもあります。本願寺は京都の朝廷・公家・寺社・町人社会へ近づき、武装拠点ではない都市本山へ変わりました。

1591年8月5日――天満から六条堀川へ

大阪市史編纂所の年表は、1591年8月5日に顕如が天満から京都堀川へ移ったと記録します。本願寺の公式史も、顕如が六条堀川に寺基を定めたと位置づけます。

本山の移転では、宗主や家族だけでなく、宗祖親鸞の御影、本尊、文書、寺務を担う坊官、奉公人、門徒との連絡機能が移動します。土地を得た日と、本山機能が整う過程は分けて考える必要があります。

1592年――阿弥陀堂と御影堂が完成

移転翌年には阿弥陀堂と御影堂が完成します。阿弥陀如来を安置する堂と、宗祖親鸞の御影を安置する堂がそろい、京都本山の礼拝と法要の中心が整いました。

ただし、この二つの堂は現在の国宝建築そのものではありません。1596年の地震と1617年の火災で失われ、現在の御影堂は1636年、阿弥陀堂は1760年の再建です。

顕如は、京都移転の翌年に亡くなる

顕如は1592年に50歳で死去しました。京都へ本山を戻し、両堂を整えた直後です。石山合戦を終わらせた後も約十二年間、鷺森・貝塚・天満・京都へ本山をつないだことになります。

顕如の最大の遺産は、石山を守り切ったことではなく、石山を失っても教団を残し、京都の都市本山へ着地させたことです。しかし後継をめぐる問題を完全に解消する前に亡くなりました。

教如から准如へ――何が起きたのか

顕如の死後、長男教如がいったん寺務を担います。しかし本願寺側の公式説明では、顕如が三男准如へあてた譲状が確認され、1593年に秀吉が教如を隠退させて准如の継承を認めたとされます。

この交替を「兄弟げんか」だけで説明することはできません。1580年の石山退去をめぐる父子の判断、教如を支持してきた門徒・坊官、顕如の継承意向、如春尼ら家族、秀吉の政治判断が重なった問題です。

「第12代」は、系統によって違う

本願寺派・西本願寺系准如を第12代宗主と数えます。
大谷派・東本願寺系教如を第12代宗主と数えます。
共通する事実顕如死後に教如が寺務を担い、1593年に准如が継承し、1602年に教如の本願寺が別立した。

どちらかが単純に人物を一人「飛ばした」のではありません。東西分立後、それぞれが自分たちの法統と宗主系譜を整えたため、同じ本願寺史を異なる継承線から数えています。

1594年の三百三十三回忌――継承を示す法要

1594年、准如は宗祖親鸞の三百三十三回忌を営みました。本願寺史料研究所は、この法要記録を現存最古の確実な回忌史料と説明しています。

通常の五十年刻みから外れる三百三十三回忌が営まれた背景には、前年の教如隠退と准如継職を全国の門末へ示す意図があったと考えられています。法要は信仰行事であると同時に、新しい宗主の正統性を共有する政治的な場でもありました。

西寺内――本山を支える町

本願寺の移転に伴い、周囲には坊官や商工業者が移住し、寺内町が形成されました。堂舎だけでなく、参詣者を泊める宿、仏壇・法衣・数珠・表具を扱う商店、食料や日用品を供給する町が必要だったからです。

この町はのちに東本願寺側の「東寺内」に対して「西寺内」と呼ばれます。現在も本願寺周辺には仏具店や旅館が集まり、近世寺内町の機能を受け継いだ景観が見られます。

城壁ではなく、御影と門徒網で続く本山

石山本願寺では堀・土塁・端城・水軍補給が本山を守りました。京都六条では、御影と本尊、法要、消息、地方寺院、講、参詣路が教団を結びます。

武装した寺内町から都市本山へ変わっても、本願寺の広域性が失われたわけではありません。全国の門徒が堂舎再建を支え、宗主の消息や本尊・御影の下付を通じて地方拠点と結ばれました。

1596年の大地震――完成した本山が倒れる

1596年7月13日の慶長伏見地震で、本願寺の両堂と諸堂はほとんど倒壊しました。『言経卿記』は寺内の家々も大半が崩れ、京都市中で多数の死者が出た惨状を記しています。

移転からわずか五年、両堂完成から四年ほどでの大被害です。准如の本山運営は、兄との継承問題だけでなく、都市全体の災害復興から始まりました。

再建を支えたのは、全国の門徒

本願寺は地震後、諸堂の再建を進めました。木材・資金・労力を一つの寺内だけで用意することはできず、各地の講と門徒の支援が必要でした。

ここに、戦国期から続く本願寺の強みがあります。常備軍を持たなくなっても、広域の信仰共同体が資金・物資・人を集め、本山を繰り返し再建できました。

1602年――家康が教如へ東六条の寺地を与える

秀吉没後、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が政治の主導権を握ります。1602年、家康は隠退中の教如へ京都東六条、烏丸六条・七条間の寺地を寄進しました。

教如は流浪・隠退中も支えた門徒と新しい本願寺を整えます。これにより、准如の六条堀川本願寺と教如の東六条本願寺が京都に並立しました。後者が現在の東本願寺へ続きます。

東西分立は、何が原因だった?

1580年顕如が石山を退去し、教如が残留。父子と支持層の判断差が表面化した。
1592~93年顕如死後の寺務継承が教如から准如へ交替した。
門徒・坊官教如を支える人々と准如側の組織が、それぞれ継続した。
天下人秀吉が准如の継承を認め、家康が教如へ別の寺地を与えた。
1602年二つの本山が制度・場所・宗主系統を持って並立した。

東西分立を「家康が本願寺の力を恐れて二つに割った」だけで説明するのは不十分です。内部の継承問題と支持層の分岐が先にあり、秀吉・家康の政策がそれを本山の並立として固定しました。

教えが二つに割れたのか

東西の本願寺は、どちらも親鸞を宗祖とし、浄土真宗の教えを継承します。1602年に新しい教義が作られ、別宗教になったわけではありません。

分かれたのは本山、宗主の系譜、坊官組織、所属寺院・門徒のまとまりです。その後、それぞれの教団制度と歴史叙述が整い、現在の浄土真宗本願寺派と真宗大谷派へ続きます。

1603年――宗祖の墓所も移る

東山大谷にあった宗祖親鸞の廟所は、知恩院の寺地拡張に伴い、1603年に現在の五条坂・大谷本廟へ移されました。

本山と祖廟は同じ機能ではありません。本山は宗主・堂舎・寺務の中心、祖廟は宗祖の墓所です。京都六条本願寺の成立後も、宗派の重要空間は本山だけで完結せず、京都市内の複数拠点へ整えられました。

1617年の大火――二十年の再建が焼ける

地震後に再建を進めた本願寺は、1617年12月20日、浴室から出た火で再び大被害を受けました。鐘楼・唐門などを除き、両堂をはじめ多くの堂舎が焼失したと伝わります。

このため、現在の大伽藍をそのまま「顕如が1591年に建てた本願寺」と見ることはできません。同じ寺地と教団は続きますが、建物は災害ごとの再建を重ねています。

現在の御影堂・阿弥陀堂はいつの建物?

御影堂1636年再建。宗祖親鸞の御影を安置する現在の国宝建築。
阿弥陀堂1760年再建。阿弥陀如来を本尊とする現在の国宝建築。
書院現在の建物は17世紀前半に整えられた、対面・接客の空間。
唐門・飛雲閣桃山文化を伝える国宝ですが、由来・移築時期には慎重な説明が必要です。
境内1591年に定めた現在地を継承し、世界遺産「古都京都の文化財」の一つ。

本山移動――石山から京都まで完成

大坂・石山1533年頃~1580年。本山・寺内町・要害・全国門徒網を持った。
紀伊・鷺森1580~83年。雑賀御坊と紀伊門徒を基盤に教団を維持した。
和泉・貝塚1583~85年。海塚坊と寺内町へ入り、秀吉の禁制で保護された。
大坂・天満1585~91年。豊臣大坂の城下で本山寺内町を再建した。
京都・六条堀川1591年以後。現在地に定着し、のちの西本願寺へ続いた。

この移動をたどると、本山は建物一棟ではなく、御影・本尊・宗主・文書・坊官・門徒網の組み合わせだと分かります。土地と堂舎を失っても、この組織を運べたことが本願寺の生存力でした。

石山本願寺と京都六条本願寺の違い

政治環境石山:信長と交戦。六条:秀吉・家康の都市秩序の中で運営。
防御石山:堀・土塁・端城・水軍補給。六条:都市本山で、軍事要塞ではない。
石山:自治と軍事を持つ寺内町。六条:坊官・商工業者・宿・仏具商の西寺内。
最大の危機石山:十年戦争。六条:継承問題、地震、火災、東西分立。
遺構石山:大坂城の地下に重なる。六条:同じ寺地に現在の本願寺が続く。

現在の境内で何を見ればいい?

御影堂宗祖の御影を中心にする本願寺の性格を、巨大な礼拝空間から見る。
阿弥陀堂本尊を安置する堂と御影堂の二堂構成を確認する。
堀川通側1591年の寺地と京都の街路・城下政策との関係を考える。
周辺の仏具店・旅館参詣者と本山を支えた西寺内の商工業が現在へ続く様子を見る。
興正寺本願寺に伴って移転し、南側に並ぶ別の真宗本山との関係を見る。

現地では桃山・江戸期の建築美だけでなく、「1591年の場所が続き、建物は何度も再建された」という時間の重なりを見ると、本山移動の終点として理解しやすくなります。

京都六条本願寺を読むときの注意点

  • 「六条本願寺」と「七条堀川の西本願寺」を別の寺院にしない
  • 1591年の移転時から「西本願寺」という新宗派名だったと考えない
  • 現在の御影堂・阿弥陀堂を顕如が建てた1592年の堂そのものとしない
  • 教如から准如への交替を、兄弟の性格や一枚の譲状だけで説明しない
  • 東西分立を1580年の石山退去、または家康の分断策だけに単純化しない
  • 東西の本願寺が教義の違いで別宗教になったと考えない
  • 1596年の地震と1617年の火災を混同しない

京都六条から戦国を読むと

撤退は終わりではない

石山を失っても、本山機能を移し続ければ教団は再建できました。

天下人は場所を支配する

秀吉と家康は寺地寄進によって、宗教教団の本山配置へ関与しました。

法要も政治を動かす

宗祖回忌は信仰だけでなく、新宗主を全国へ示す場になりました。

近世は再建から始まる

戦争後も地震・火災・継承問題が続き、門徒網が本山を支えました。

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10問クイズ

Q1. 京都六条本願寺へ移った第11代宗主は?

A. 本願寺顕如です。

Q2. 六条堀川の寺地を寄進した天下人は?

A. 豊臣秀吉です。

Q3. 顕如が天満から京都へ移った日は?

A. 1591年8月5日です。

Q4. 移転翌年に完成した二つの中心堂舎は?

A. 阿弥陀堂と御影堂です。

Q5. 1593年に寺務を継承した顕如の三男は?

A. 本願寺准如です。

Q6. 1594年に営まれた親鸞の回忌は?

A. 三百三十三回忌です。

Q7. 1596年に本山へ大被害を与えた災害は?

A. 慶長伏見地震です。

Q8. 1602年、教如へ東六条の寺地を与えた人物は?

A. 徳川家康です。

Q9. 現在の御影堂が再建された年は?

A. 1636年です。

Q10. 六条本願寺が後に呼ばれるようになった通称は?

A. 西本願寺です。

参考資料