勢力ページ / 瀬戸内の海を押さえた安芸の家

小早川氏こばやかわし

小早川氏(小早川家)は、安芸国(広島県)の瀬戸内沿岸を本拠とした一族です。鎌倉初期に相模から安芸の沼田荘に入り、のちに沼田小早川家と竹原小早川家に分かれて、瀬戸内の海運と水軍を押さえました。戦国時代、毛利元就の三男・小早川隆景が養子として両家を統合し、兄の吉川元春とともに毛利本家を支える「両川」となります。隆景は豊臣秀吉とよとみ ひでよしに重んじられて筑前を得ましたが、秀吉の甥・秀秋を養子に迎えたことで家の運命は変わり、関ヶ原での寝返りのあと、1602年に秀秋が急死して小早川氏は絶えました。

安芸沼田荘・瀬戸内水軍 隆景が両家を統合、毛利の両川 秀秋の養子入り 1602年 無嗣断絶
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要点

  • 出発点は相模の御家人。源頼朝に仕えた土肥氏の一族が、鎌倉初期に安芸の沼田荘の地頭となって移り住み、小早川を名乗った。
  • 二つの家に分かれた。1258年、一族が沼田本家(高山城)と竹原分家(木村城)に分かれた。いずれも瀬戸内の海運・水軍を基盤とし、分家の竹原家が応仁の乱後に本家をしのいだ。
  • 隆景が両家を一つにした。毛利元就の三男・隆景は1544年に竹原家を継ぎ、1550年に沼田本家も継いで両家を統合した。新高山城、のちに三原城を本拠とした。
  • 毛利の「両川」として本家を支えた。隆景は瀬戸内の水軍と外交を担い、兄の吉川元春とともに毛利本家を両側から支えた。厳島の戦い、本能寺の変後の秀吉との和睦でも中心となった。
  • 秀秋の養子入りで家が終わった。秀吉の甥・秀秋を養子に迎えた隆景は1597年に死去。秀秋は関ヶ原で東軍に寝返って岡山55万石を得たが、1602年に急死し、跡継ぎがなく断絶した。
家のはじまり

小早川氏は、どんな家だったのか

  • 相模から安芸へ。土肥実平の子・遠平が源頼朝から安芸の沼田荘を与えられ、鎌倉初期に移住した。名字は相模の小早川に由来する。
  • 沼田小早川家(本家)。沼田川流域の高山城を本拠とし、一族の惣領として続いた。戦国期には当主の早世が重なり、力を弱めていた。
  • 竹原小早川家(分家)。1258年に分かれ、竹原荘の木村城を本拠とした。瀬戸内の海に面した位置を生かし、応仁の乱後は本家をしのぐ勢力となった。
  • 水軍の家だった。両家とも瀬戸内の島々や港を押さえ、水軍を持っていた。この海の力が、のちに毛利氏が隆景を養子に送り込んだ理由である。

小早川氏は国衆の型ですが、陸ではなく海を基盤とした点が特徴です。安芸の地理は安芸国で整理しています。

隆景の時代

隆景は、小早川氏を何に変えたのか

  1. 011544年:竹原家を継ぐ

    竹原小早川家の当主・興景が跡継ぎなく死去し、毛利元就の三男・隆景が12歳で養子として継ぎました。大内氏の後押しがあったとされます。

  2. 021550年:沼田本家も継ぐ

    沼田小早川家の当主が病弱だったため、元就は隆景を本家にも入れて両家を統合させました。これで小早川氏の水軍はまるごと毛利氏の戦力になります。

  3. 031555年:厳島の戦い

    隆景は小早川水軍と村上水軍を動かし、陶晴賢すえ はるかたを厳島に閉じ込める海上封鎖を担いました。毛利氏の勝利は、隆景の海の力なしには成り立ちませんでした。

  4. 041567年〜:三原城と外交

    隆景は海に面した三原に城を築き、水軍の拠点としました。1582年の備中高松城では秀吉との和睦を主導し、以後、毛利氏と豊臣政権の橋渡し役となります。

  5. 051587年:筑前の大名に

    秀吉は隆景を高く評価し、九州平定後に筑前・筑後などを与えました。隆景は毛利一門でありながら、独立した大名として五大老にも名を連ねます。

隆景については小早川隆景こばやかわ たかかげで、本拠は三原城で整理しています。

秀秋と断絶

小早川氏はなぜ、秀秋の代で絶えたのか

  • 秀吉の甥を養子に迎えた。1594年、隆景は秀吉の甥・秀秋(ねねの兄・木下家定きのした いえさだの子)を養子に迎えた。秀吉が秀秋を毛利本家の養子にしようとしたため、隆景が先に引き取って毛利本家を守ったとする見方が有力である。
  • 隆景の死と秀秋の転落。1597年に隆景が死去すると、秀秋は筑前を継いだが、朝鮮出兵での行動を秀吉にとがめられて越前へ減転封された。秀吉の死後、家康の取りなしで筑前に戻る。
  • 関ヶ原の寝返り。1600年、秀秋は西軍として松尾山に布陣したが、戦いの途中で東軍に転じ、宇喜多軍を崩して東軍の勝利を決めた。戦後、宇喜多氏の旧領・岡山55万石を与えられる。
  • 1602年、無嗣断絶。秀秋は岡山で21歳で急死した。跡継ぎがなく、小早川氏は断絶した。隆景が育てた家は、養子の代で消えたことになる。

ただし毛利氏の一門として続いた小早川の分家や、旧臣の系統は残っています。秀秋については小早川秀秋こばやかわ ひであきで読めます。

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小早川氏をめぐる人物

小早川氏についてのよくある疑問

なぜ隆景は秀秋を養子にしたのか?

秀吉が甥の秀秋を毛利本家の養子にしようとしたため、それを避けるために隆景が自ら秀秋を引き取った、とする見方が有力です。毛利本家に秀吉の血縁が入れば、毛利氏は豊臣家に取り込まれてしまいます。隆景は小早川家を犠牲にして毛利本家を守ったことになり、この判断が「隆景の最後の奉公」として語られます。ただし史料で直接確かめられる話ではなく、結果から推測された面もあります。

小早川氏と毛利氏はどういう関係か?

もともと小早川氏は毛利氏とは別の家で、どちらも安芸の国人でした。毛利元就が三男の隆景を養子として送り込んだことで、小早川氏は毛利一門となります。ただし小早川家は毛利家の家臣ではなく、一門として独立した立場を保ち、隆景は秀吉から直接大名として認められました。「両川」は毛利本家を支える兄弟の家であって、本家に従属する家ではなかった点が重要です。

秀秋はなぜ寝返ったのか?

一つの理由には絞れませんが、秀吉に減転封された恨み、家康からの事前の働きかけと恩、若い秀秋を動かした家臣の判断などが挙げられます。開戦前から東軍への内応が噂されていたとされ、戦いの途中で動いたのは時機をうかがっていたためとする見方が一般的です。「家康の威嚇射撃で慌てて寝返った」という話は後世の記録によるものです。

小早川の家は完全に絶えたのか?

本家は秀秋の死で断絶しましたが、小早川の名は毛利氏のもとで残りました。隆景の養子だった秀包の系統や、沼田・竹原の一族の系統が毛利家臣として萩藩に続いています。また明治になって、毛利家から小早川家を再興する形で家名が復活しました。

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参考にした資料