人物ページ / 毛利の海を担い、秀吉の天下へ渡る道をつないだ両川の一人

小早川隆景

小早川隆景は毛利元就の三男として生まれ、竹原・沼田の二つに分かれていた小早川家を継いだ大名です。兄・吉川元春と「毛利の両川」として父と甥の輝元を支え、厳島合戦、中国地方の拡大、織田信長との長期戦を戦いました。新高山城から海に開く三原城へ本拠を移し、瀬戸内の船・港・島・街道を結ぶ支配を築きます。備中高松では羽柴秀吉と対峙し、本能寺の変後の講和を経て、やがて秀吉政権の有力大名へ転身。伊予、筑前名島、朝鮮出兵まで活動範囲を広げました。毛利家を守った調整役であると同時に、戦争と領国再編を進めた実戦的な大名です。

1533 - 1597 毛利元就の三男 三原城・名島城 毛利両川・秀吉政権
隆景の強さは「知略」より、家・海・政権をつなぎ直す力にある。 毛利の一族であり、小早川家の当主であり、秀吉から直接領地を与えられた大名でもある。三つの立場を使い分けながら、山陽から瀬戸内、四国、九州、朝鮮へ動いた生涯を追います。
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小早川隆景を理解する要点

隆景は1533年、毛利元就と妙玖の三男として生まれ、幼名を徳寿丸といいました。12歳で竹原小早川家を継ぎ、1550年には本家筋の沼田小早川家も相続。翌年に高山城へ入り、1552年には沼田川対岸の新高山城へ本拠を移しました。毛利家の子が他家を継ぎ、その軍事力・領地・家臣団を毛利の勢力へ結びつけたのです。

父元就のもとでは、兄の吉川元春とともに「毛利の両川」と呼ばれました。隆景は山陽・瀬戸内方面で働き、1555年の厳島合戦、尼子氏との戦い、石山本願寺への海上輸送、織田方の中国攻めに対応します。1567年から三原城を築き、山城と内陸市場を中心とした支配を、港・軍港・海上交通を組み込む形へ発展させました。

1582年の備中高松城では秀吉軍と対峙しましたが、本能寺の変後に講和。以後は秀吉との関係を深め、1585年に伊予35万石、1587年に筑前を中心とする九州の領地を与えられます。名島城を築き、博多の秩序回復を進め、朝鮮出兵では海を渡って侵攻軍を率いました。1594年に秀俊、のちの小早川秀秋を養子に迎え、1595年に家督を譲って三原へ戻り、1597年に没しました。

  • 毛利元就の三男として生まれ、12歳で竹原小早川家を継いだ
  • 沼田小早川家も相続し、二つの小早川家を一人の当主のもとへまとめた
  • 兄・吉川元春と「毛利の両川」として元就・輝元を支えた
  • 新高山城から三原城へ移り、瀬戸内海の交通と軍事を領国の軸にした
  • 備中高松で敵だった秀吉と講和し、のちに政権を担う有力大名となった
  • 伊予・筑前を治め、朝鮮侵攻にも大軍を率いて参加した
  • 秀秋へ小早川家を譲り、自身は三原で生涯を終えた

関係人物と事件

毛利元就父。隆景を小早川家へ入れ、吉川元春とともに毛利勢力の外側を支える役割を持たせました。
妙玖母。吉川国経の娘で、隆元・元春・隆景の母でもあります。
毛利隆元長兄で毛利家当主。1563年に急死し、その子輝元を元春と隆景が支える体制へ移りました。
吉川元春次兄。「毛利の両川」のもう一人。山陰方面で力を発揮し、隆景とともに本家を補佐しました。
毛利輝元甥で毛利家当主。元就死後、隆景は元春とともに軍事・外交・家中統制を助けました。
小早川興景竹原小早川家の前当主。跡継ぎなく死去した後、隆景が養子として家を継ぎました。
小早川繁平沼田小早川家の前当主。1550年に家督を退き、隆景が本家筋を相続しました。
問田大方隆景の正室。沼田小早川家の出身で、婚姻も二つの小早川家をつなぐ役割を持ちました。
乃美宗勝小早川水軍を率いた重臣。厳島の交渉、木津川口の補給、四国・九州遠征で海上戦力を支えました。
豊臣秀吉備中高松では敵として対峙し、のちに主従関係を結んだ天下人。伊予・筑前を与え、政権上層に隆景を置きました。
清水宗治備中高松城主。毛利への忠節を貫き、秀吉との講和条件として自害しました。
黒田官兵衛秀吉の軍師・奉行。高松で敵味方に分かれ、九州では隆景と連名で博多の略奪を禁じました。
安国寺恵瓊毛利側の外交僧。秀吉との交渉、九州での領国配置、豊臣政権との連絡に関わりました。
河野通直伊予の旧領主。四国攻めで隆景に降り、隆景の保護下で安芸竹原へ移りました。
島津義久九州で秀吉軍と戦った島津家当主。隆景は毛利軍を率いて九州征伐の先鋒を担いました。
小早川秀秋秀吉の養子・秀俊として迎えた後継者。1595年に小早川家と筑前領を譲りました。
厳島合戦毛利が陶晴賢を破った海陸の決戦。小早川の船と瀬戸内勢力が重要な役割を持ちました。
備中高松城の戦い隆景・元春・輝元が救援に進み、秀吉と講和した毛利・織田戦争の転換点です。
朝鮮出兵隆景が軍勢を率いて渡海し、碧蹄館などで戦った豊臣政権の侵攻戦争です。

隆景の生涯を動かした五段階

1. 毛利から小早川へ

元就の三男から竹原・沼田小早川家の当主へ。家と家臣団を継ぎ、毛利の勢力を瀬戸内へ伸ばしました。

2. 両川で中国を戦う

元春と本家を支え、厳島、尼子、織田との戦争を担いました。

3. 三原を海の本拠に

山城から海城へ重心を移し、港・船・島・街道を一体で押さえました。

4. 秀吉の有力大名へ

高松で戦った秀吉と講和し、四国・九州征伐で伊予と筑前を得ました。

5. 名島から三原へ戻る

朝鮮出兵後に秀秋へ家督を譲り、三原で毛利と豊臣の間を支えながら没しました。

じっくり年表

1533
毛利元就の三男として生まれます。幼名は徳寿丸。
1544
12歳で竹原小早川家を相続します。
1550
本家筋の沼田小早川家も継ぎ、二つの小早川家をまとめます。
1551
沼田小早川家の高山城へ入ります。
1552
沼田川対岸の新高山城を整え、本拠を移します。
1555
厳島合戦で毛利方が陶晴賢を破り、大内領へ進む転機となります。
1557
大内氏が滅び、毛利勢力が防長へ拡大します。
1563
兄・毛利隆元が急死。幼い輝元を元就・元春と支えます。
1566
尼子氏の月山富田城が開城し、毛利が中国地方の大勢力となります。
1567
海上交通に直結する三原城の築城を始めたと伝わります。
1571
元就が死去。隆景と元春は輝元を中心とする毛利家を支えます。
1576
第一次木津川口の戦い。毛利水軍が大坂本願寺への海上輸送を支援し、織田水軍を破ります。
1578
第二次木津川口の戦いで毛利方水軍が敗れ、海上優勢が揺らぎます。
1582
備中高松城救援へ出陣。本能寺の変後、秀吉と講和します。
1585
秀吉の四国攻めで毛利軍を率い、戦後に伊予35万石を与えられます。
1586–87
九州征伐の先鋒として豊前・筑前方面へ進み、島津方と戦います。
1587
筑前を中心とする約37万石へ移り、博多湾岸の名島を本拠とします。
1588
名島城の本格整備を進め、筑前支配の中心を築きます。
1590
小田原攻めに従い、秀吉の全国統一を支えます。
1592–93
文禄の役で朝鮮へ渡り、侵攻軍を率いて碧蹄館などで戦います。
1594
秀吉の養子・羽柴秀俊を小早川家の養子に迎えます。
1595
秀俊へ家督と九州領を譲り、三原へ隠居。秀頼を支える誓約にも加わります。
1597
三原で死去。65歳。米山寺などに墓所が残ります。

毛利の三男が、小早川家を継ぐ

隆景は毛利家の中で育ったまま、家臣として小早川を指揮したのではありません。竹原小早川家の養子となり、その家名・領地・家臣・婚姻関係を引き受けました。小早川氏は鎌倉時代以来の領主で、沼田川流域の荘園・市場と、竹原から瀬戸内へ開く港を持つ独自の勢力でした。

1550年には本家筋の沼田小早川家も相続します。これによって竹原系と沼田系が一人の当主のもとにまとまりましたが、継承に反対した重臣・田坂全慶が誅殺されるなど、統合は穏やかな話し合いだけで進んだわけではありません。元就の勢力拡大と、小早川家内部の再編が重なった家督継承でした。

竹原小早川家

瀬戸内へ開く竹原を基盤とした庶流。前当主の死後、隆景が12歳で入りました。

沼田小早川家

沼田荘と高山城を本拠とする本家筋。市場・農地・川の交通を押さえていました。

問田大方との婚姻

沼田小早川家出身の正室を迎え、血縁・家名の面からも統合を補いました。

毛利元就の狙い

息子を有力家へ送り、毛利家の外側に自立した一族大名を配置しました。

「毛利の両川」は、何を支えたのか

吉川の「川」と小早川の「川」を合わせ、元春と隆景は「両川」と呼ばれます。一般には元春が山陰、隆景が山陽・瀬戸内を担当したと説明されます。実際の行動範囲は重なっており、完全な方面分担ではありませんが、二つの有力な一族家が毛利本家を左右から支えた構造を表す言葉です。

1563年に毛利隆元が急死すると、その子の輝元が家督を継ぎました。元就存命中から、元春と隆景は若い当主を軍事・外交・家中統制で補佐します。1571年に元就が死ぬと、両川の役割はさらに大きくなりました。

毛利本家隆元、のち輝元が当主。領国全体の正統な中心です。
吉川元春石見・出雲・伯耆など山陰方面で軍事力を発揮しました。
小早川隆景備後・安芸・瀬戸内を軸に、船・港・山陽道と外交を担いました。
両川の意味本家に従うだけの家臣ではなく、独自の家臣団と領地を持つ一族大名が連携する仕組みです。

厳島合戦――海を渡れなければ成立しない勝利

1555年、元就は厳島で陶晴賢を破りました。狭い島へ毛利軍を渡し、陶軍の退路を断つには船と海上勢力の協力が欠かせません。小早川氏や乃美宗勝らの船団は、毛利が陸上の国人連合から瀬戸内の大名へ成長する力になりました。

ただし「隆景が一人で水軍を操り、奇襲を成功させた」とまとめるのは単純すぎます。毛利本隊、宮尾城の守備、村上氏を含む海上勢力、厳島周辺の地理と潮、陶軍内部の状況が重なった勝利です。隆景の重要性は、その複数の力を小早川家の海上基盤から支えた点にあります。

高山城、新高山城、三原城――本拠の移動に戦略が見える

高山城

沼田小早川家が二百年以上守った伝統的山城。隆景は1551年に入り、家督継承を示しました。

新高山城

1552年に沼田川対岸へ移った新本拠。六つの井戸と寺院を持ち、川・市場・街道を押さえました。

三原城

1567年から整備した海城。大島・小島をつなぎ、海へ舟入を開いた城郭兼軍港でした。

三つの城の関係

山を捨てて海だけへ移ったのではなく、内陸・河川・山陽道・瀬戸内を重ねて支配しました。

三原城は、満潮時に海へ浮かぶように見えたことから「浮城」と呼ばれます。海へ直接開く舟入を持ち、軍船の発着、物資の集積、城下の統制を一か所で行える拠点でした。後世の拡張を含めると、櫓32、城門14を備えた大規模城郭と伝わります。

隆景の城づくりは、「籠もって耐える山城」から「人・物・情報を動かす海城」への単純な交代ではありません。新高山城の沼田川流域と三原浦を結び、山陽道と瀬戸内航路を両方使える領国構造をつくった点が重要です。

織田との戦争――海上輸送から中国戦線へ

1570年代、毛利家は織田信長と対立し、大坂の石山本願寺を支援しました。1576年の第一次木津川口の戦いでは、毛利方の水軍が兵糧を積んで大坂湾へ入り、織田方の船団を破って本願寺へ物資を届けます。小早川・村上など瀬戸内の船と港を束ねた毛利側の強みが表れた戦いでした。

しかし1578年、織田方は九鬼嘉隆の大型船を投入し、毛利方は第二次木津川口の戦いで敗れます。海上優勢だけで戦争を支え続けることは難しくなり、羽柴秀吉の中国攻めが播磨・備前・備中へ進みました。隆景は水軍の指揮者であると同時に、長い陸上戦線を支える総大将層として動きます。

備中高松――敵だった秀吉と、なぜ結べたのか

1582年、秀吉軍は毛利方の備中高松城を水攻めにしました。城主・清水宗治を救うため、輝元・元春・隆景が大軍を率いて救援へ進みますが、冠山城など周辺拠点を失い、冠水した城へ近づけないまま両軍は対峙しました。

本能寺の変で信長が死ぬと、秀吉は事実を隠しながら講和を急ぎます。宗治の自害と領地の割譲を条件に和睦が成立し、秀吉は畿内へ引き返しました。毛利側は直後に信長の死を知りますが、追撃せず、講和の履行へ進みます。

後世には「隆景が元春の追撃論を抑えた」と明快に語られますが、細部は軍記による脚色を含みます。確かなのは、毛利首脳が追撃より国境と家の安定を選び、その後の交渉で秀吉との共存へ進んだことです。隆景は、その関係を実務として支える中心人物になりました。

  • 高松城は毛利と宇喜多・織田の境目を守る重要拠点だった
  • 隆景は輝元・元春と救援へ進んだが、水攻めを破れなかった
  • 清水宗治の自害を含む講和で、秀吉は中国大返しへ移った
  • 毛利は追撃せず、以後は秀吉との国境確定と臣従へ進んだ

毛利の補佐役から、秀吉直属の大名へ

高松の講和後も、毛利と秀吉の境界問題はすぐには解決しませんでした。人質、城の明け渡し、備中・美作・伯耆の国境をめぐる交渉が続きます。隆景は毛利家の利益を守りながら、秀吉との関係を安定させる役割を担いました。

1585年の四国攻め後、秀吉は隆景へ伊予35万石を与えます。これは毛利領の一部を任されたというより、秀吉が隆景を一人の大名として処遇したことを意味します。隆景は毛利一門であり続けながら、豊臣政権から直接領地と役割を受ける二重の立場になりました。

毛利家に対して

輝元を支え、国境交渉と秀吉への取次を担う一族の長老でした。

秀吉に対して

四国・九州・朝鮮で軍を率い、政権の命令を実行する有力大名でした。

小早川家に対して

三原と家臣団を持ち、伊予・筑前へ移っても独自の領国経営を続けました。

二重の立場

毛利から離反したのではなく、豊臣政権内で毛利を守れる位置へ移ったと見ることができます。

四国攻めと伊予――征服後の秩序を任される

1585年、秀吉は長宗我部元親を服属させるため四国へ大軍を送りました。隆景は毛利勢を率いて伊予へ渡り、東予の城を攻略し、湯築城の河野通直を降伏させます。戦後、元親は土佐一国へ縮小され、河野氏は伊予を失いました。

秀吉は隆景へ伊予35万石を与えました。隆景は征服軍の指揮だけでなく、旧河野勢力を処理し、新しい領国秩序へ組み直す役割を負います。河野通直を安芸竹原で保護したことにも、瀬戸内の旧勢力を完全に切り捨てず、自身の管理下へ置く姿勢が見えます。

九州征伐と筑前――三原の海から、博多湾の海へ

1586年からの九州征伐で、隆景は黒田官兵衛らと先発し、豊前・筑前方面へ進みました。戦乱下の博多では、隆景と官兵衛が連名で軍勢や無法者の略奪を禁じる禁制を出しています。戦うだけでなく、占領地の秩序を回復し、後続する秀吉軍の道を整える仕事でした。

島津氏の降伏後、隆景は伊予から筑前一国を中心とする約37万石へ移ります。新たな本拠とした名島は博多湾に突き出し、三方を海に囲まれた城でした。三原と同じく、海上交通と軍事を直接結びつけられる場所です。

博多の禁制

占領軍の略奪を禁じ、逃げた住民と商業都市を戻す前提を整えました。

名島城

東西約840メートル、三方を海に囲まれた海城。隆景と秀秋が改修しました。

九州の監視

島津・大友・龍造寺旧領が再編された九州北部で、秀吉政権の重しとなりました。

三原とのつながり

瀬戸内から関門海峡、博多湾まで、港と航路を使う経験を新領国へ移しました。

隆景の領国経営――城、港、寺社、学び

隆景の領国づくりは、城だけでは完結しません。三原では城郭兼軍港と城下を整え、周辺の寺院を移して町の骨格をつくりました。筑前では名島城を改修し、博多湾の航路を押さえ、1594年には筥崎宮楼門を建立しています。

名島には武士と庶民へ学びを勧めた「名島学校」の伝承もあります。ただし、学校の正確な場所や運営の実態は分かっていません。隆景を理想的な文化人に仕立てるのではなく、戦乱後の領国で寺社・教育・都市秩序を利用した統治として見るのが適切です。

  • 三原城を軍港と城下の中心にし、山陽道と海路をつないだ
  • 名島城を博多湾支配と朝鮮出兵の後方拠点にした
  • 禁制によって兵士の略奪を抑え、都市と住民の回復を図った
  • 寺社の造営・保護を通じ、権威と地域秩序を整えた
  • 文化事業の美談だけでなく、軍役・普請・侵攻を支える統治でもあった

朝鮮出兵――海を生かす力が、侵攻へ使われた

1592年に始まる文禄の役で、隆景は軍勢を率いて朝鮮へ渡りました。毛利輝元、黒田長政、立花宗茂らとともに戦線を担い、1593年の碧蹄館の戦いでは明軍と交戦します。日本側の軍記では戦功が強調されますが、これは他国へ攻め込んだ侵略戦争の一部です。

隆景が長年築いた瀬戸内の船・港・兵站運営は、九州から朝鮮へ兵と物資を送り続ける力になりました。海上交通を整えた「名将」という評価と、その能力が占領・戦闘・現地住民の被害に使われた事実は分けられません。

大名として豊臣政権の命令を受け、大軍を率いて渡海しました。
海の領主として名島・博多・瀬戸内をつなぐ船と港を兵站に利用しました。
戦場で碧蹄館などで明・朝鮮軍と交戦し、侵攻戦線を維持しました。
評価の注意戦術的な働きを語っても、侵略と住民被害を英雄譚の外へ追い出さないことが必要です。

小早川秀秋を迎える――家を残し、家中を揺らす養子

隆景と問田大方の間には家督を継ぐ実子がなく、1594年、秀吉の養子・羽柴秀俊を養子に迎えました。秀俊は高台院の甥で、豊臣家の近親です。小早川家にとっては後継を得ると同時に、豊臣政権との結びつきを家の内部へ迎える縁組でした。

1595年、隆景は秀俊へ家督と九州の領国を譲ります。若い新当主のもとには秀吉が付けた奉行・側近が入り、小早川旧臣と並びました。隆景が築いた家がそのまま一枚岩で秀秋へ移ったわけではなく、毛利一門の家と豊臣大名の家という二つの性格が重なります。

「秀吉が秀俊を毛利家へ入れようとしたため、隆景が身代わりに引き取った」という有名な説明は、後世の逸話を含みます。秀頼誕生後の養子再配置、毛利との関係、小早川家の後継問題を合わせた政治的な縁組として見る必要があります。

隠居後も消えなかった政治的な重み

家督を譲った隆景は三原へ戻り、城の本格的な修築や佛通寺の再興を進めました。秀吉からは筑前国内5万石余の隠居領を与えられ、単に無役となったわけではありません。毛利家と小早川家、豊臣政権をつなぐ長老として重みを保ちました。

1595年には家康・毛利輝元らと秀頼の養育・奉戴を誓っています。隆景はしばしば「五大老の一人」と紹介されますが、秀吉死後に知られる五大老制が固まる前の1597年に死去しました。「五大老」という肩書だけを遡って固定するより、政権上層で秀頼を支える誓約に加わった有力大名と捉える方が、時期の違いを理解しやすくなります。

三原での死と、その後の小早川家

1597年6月、隆景は三原で死去しました。65歳。小早川氏の菩提寺・米山寺には、初代実平から隆景までの墓塔群が残ります。毛利元就の息子として始まり、他家を継ぎ、最後は小早川家の歴代当主の一人として葬られました。

隆景の死後、秀秋は「秀俊」から秀秋へ名を改め、豊臣政権下の大名として朝鮮出兵と領地替えを経験します。1600年の関ヶ原で東軍へ転じ、備前・美作を得ましたが、1602年に後継者なく死去。秀秋の小早川大名家は改易され、のちに明治時代、毛利本家の働きかけで小早川家名が再興されました。

小早川隆景の四つの顔

毛利元就の三男

元春とともに父と甥を支え、毛利家の中国地方支配を外側から補強した一族大名。

瀬戸内の領主

小早川家の船・港・市場を継ぎ、三原城を中心に海陸交通を組み合わせた大名。

豊臣政権の有力者

かつて敵だった秀吉のもとで、伊予・筑前を与えられ、四国・九州・朝鮮で軍を率いた大名。

秀秋の養父

豊臣家の近親を迎えて小早川家を継がせ、毛利と豊臣が重なる複雑な家中を残した当主。

場所でたどる隆景

吉田郡山城毛利元就の三男として生まれ育った安芸の本拠。
竹原12歳で継いだ竹原小早川家の基盤。瀬戸内海へ開く港を持ちました。
高山城沼田小早川家の伝統的本拠。1551年に隆景が入り、正統な継承を示しました。
新高山城1552年からの本拠。沼田川・市場・山陽道を押さえ、六つの井戸と寺院を備えた山城です。
厳島1555年、海上戦力を生かして陶晴賢を破った毛利拡大の転換点。
三原城海へ舟入を開く城郭兼軍港。瀬戸内と山陽道を結ぶ隆景の中心拠点。
木津川口毛利水軍の強みと限界が表れた大坂本願寺への海上輸送路。
備中高松城秀吉と対峙し、敵対から講和・臣従へ進む起点となった境目の城。
伊予・湯築城四国攻めで河野氏が降り、隆景が35万石を得た新領国。
博多・名島城九州征伐後の本拠。都市博多と海上交通を監督し、朝鮮侵攻の後方を支えました。
朝鮮半島文禄の役で侵攻軍を率い、碧蹄館などで戦った海外戦場。
米山寺小早川氏歴代の墓塔が並び、隆景も小早川当主として位置づけられる菩提寺。

よくある誤解を整理

  • 隆景は毛利家臣の水軍司令官ではなく、独自の家と領国を持つ小早川家当主
  • 竹原・沼田小早川家の統合は、重臣の誅殺を伴う政治的・軍事的な家督再編だった
  • 「元春は山陰、隆景は山陽」という分担は目安で、実際の行動範囲は重なる
  • 厳島合戦は隆景一人の水軍戦術ではなく、毛利本隊と複数の海上勢力による勝利
  • 三原城は単なる海辺の城ではなく、舟入を備えた城郭兼軍港
  • 備中高松後の「追撃を止めた隆景」の細部には、後世の軍記による脚色がある
  • 秀吉に従った後も毛利を捨てたのではなく、毛利一門と豊臣大名の立場を併せ持った
  • 名島の文化政策だけでなく、九州支配と朝鮮侵攻の軍事拠点という面も見る
  • 秀秋を毛利家の身代わりとして引き取ったという話だけで、養子縁組の理由を確定しない
  • 「五大老」は便利な呼称だが、隆景は秀吉死後の五大老制が動く前に死去している

小早川隆景から何が見えるか

隆景からは、戦国大名の拡大が「敵を倒して領地を取る」だけではなかったことが見えます。息子を別家へ入れ、古い家名と家臣団を受け継ぎ、婚姻と粛清で統合する。元就の勢力は、小早川家を消すのではなく、隆景を当主として再編することで瀬戸内へ広がりました。

三原城と名島城は、隆景の戦略を地形で示します。港、船、島、川、街道、城下を結べば、軍勢だけでなく年貢・商人・情報も動かせます。その力は毛利の拡大、秀吉の九州支配、さらに朝鮮侵攻へ連続して使われました。

隆景は「毛利に忠実な知将」と「秀吉に重用された大名」のどちらか一方ではありません。敵だった秀吉と講和し、その政権内で地位を得ることで、毛利家の安全も支えました。戦国末期の生存には、同じ主君へ一生仕える忠義だけでなく、政権が変わるたびに家の位置を組み直す力が必要でした。

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10問クイズ

Q1. 隆景の父は?

A. 毛利元就です。

Q2. 隆景の幼名は?

A. 徳寿丸です。

Q3. 最初に継いだ小早川家は?

A. 竹原小早川家です。

Q4. 「毛利の両川」のもう一人は?

A. 兄の吉川元春です。

Q5. 新高山城の次に築いた海城は?

A. 三原城です。

Q6. 1582年に秀吉軍と対峙した城は?

A. 備中高松城です。

Q7. 四国攻め後に与えられた国は?

A. 伊予国です。

Q8. 筑前で本拠とした城は?

A. 博多湾岸の名島城です。

Q9. 隆景が参加した豊臣政権の海外侵攻は?

A. 朝鮮出兵、文禄の役です。

Q10. 小早川家を譲った養子は?

A. 羽柴秀俊、のちの小早川秀秋です。

参考資料