場所ページ / 鎌倉・室町期の沼田小早川氏が、二つの尾根に築き重ねた伝統の本拠

高山城

高山城は、広島県三原市の沼田川東岸、標高約190メートルの高山に築かれた大規模な山城です。沼田小早川氏が鎌倉・室町時代を通じて本拠とし、城域は約16ヘクタール。谷を挟んで並ぶ二つの尾根に、北側8郭、南側5郭の曲輪群が広がります。築城年代は分かっていませんが、小早川氏4代・茂平が築いたと伝わり、文献では1338年に初めて現れます。南北朝期に戦場となり、応仁・文明の乱では同族の竹原小早川氏、1544年には尼子勢の攻撃を受けました。七つの井戸、土塁、堀切、一部の石垣からは、数世紀にわたって守りと暮らしを拡張した姿が見えます。毛利元就の三男・隆景は1551年10月に入城しますが、翌1552年6月、沼田川対岸の新高山城へ移りました。高山城は隆景の前史ではなく、小早川家の正統性、家中抗争、周辺勢力との戦争を二百年以上受け止めた、三城ルートの出発点です。

文献初見 1338年 国史跡・城域約16ha 北8郭・南5郭・井戸跡7か所 沼田小早川氏の伝統的本拠
隆景の一年前だけを見る城ではなく、沼田小早川氏の二百年を読む城 南北朝、応仁・文明、尼子氏の攻撃を経て拡張された巨大山城。対岸の新高山城、その下流の三原城と並べると、本拠が担った役割の変化が見えます。
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高山城を見る要点

高山城は、沼田川流域を支配した沼田小早川氏の本拠です。小早川茂平の築城と伝わりますが、正確な築城年は不明。記録上は1338年に現れ、1552年に小早川隆景が新高山城へ移るまで、長い期間にわたって使われました。

最大の特徴は、一つの山頂だけで完結しない規模です。谷を挟む二つの尾根に曲輪群が並び、北側には本丸・二の丸・北の丸・扇の丸など8郭、南側には千畳郭・太鼓丸など5郭が配置されます。城内には七つの井戸跡があり、土塁、深い堀切、大石を使った石垣も残ります。

城は南北朝期に初めて戦場となり、応仁・文明の乱では竹原小早川氏に攻められて落城寸前となりました。1543年に尼子勢が小早川領へ侵入し、翌1544年には高山城を包囲・攻撃します。何度も危機を経験し、そのたびに尾根と谷を使う防御が整えられたと考えられます。

  • 築城は小早川茂平と伝わるが、確実な築城年代は分かっていない
  • 文献上の初見は南北朝期の1338年
  • 約16ヘクタールに北8郭・南5郭が並ぶ、中国地方でも大規模な山城
  • 七つの井戸跡があり、籠城と日常生活の両方を支えた
  • 南北朝、応仁・文明、尼子氏の攻撃と、異なる時代の戦争を経験した
  • 1551年に隆景が入城し、1552年の新高山城移転で本拠としての役目を終えた

最初に「四つの高山城」を分ける

鎌倉御家人の本拠

東国から沼田荘へ根を下ろした小早川氏が、土地と家臣を支配する中心として築いた城。

南北朝・室町の要塞

1338年に記録へ現れ、地域の争乱に対応しながら尾根ごとの曲輪を増やしたとみられる城。

戦国期の巨大山城

応仁・文明の乱や尼子勢の攻撃を受け、堀切・土塁・井戸を備える広域防御拠点となった城。

隆景の継承を示す旧城

隆景が一度入ることで沼田小早川家の正統な当主となり、対岸の新城へ移る出発点となった城。

関係人物と勢力

小早川茂平小早川氏4代。高山城を築いたと伝わり、沼田荘へ本拠を定着させた人物です。
沼田小早川氏高山城を代々の本拠とした小早川氏の本家筋。沼田川流域の土地・市場・寺院を支配しました。
竹原小早川氏沿岸部を基盤とした小早川氏の庶流。応仁・文明の乱では高山城を攻め、戦国期に隆景が先に継ぎました。
小早川春平室町期の高山城主。1397年に愚中周及を招き、佛通寺を開いたとされます。
尼子氏山陰から安芸・備後へ勢力を伸ばした大名。1543年に小早川領へ侵入し、翌年に高山城を包囲しました。
毛利元就隆景の父。三男を竹原・沼田両小早川家へ入れ、小早川勢力を毛利の両川へ組み込みました。
小早川隆景1550年に沼田家を継ぎ、1551年10月に高山城へ入城。翌年6月に新高山城へ本拠を移しました。
新高山城沼田川対岸にある次の本拠。旧城を見渡せる位置で隆景の新体制を示しました。
三原城隆景がさらに下流の海辺へ築いた本拠。高山城から始まる小早川氏の交通支配を瀬戸内へ広げました。
極楽寺山門が高山城の裏門を移したものという伝承を持ち、旧城の記憶を三原城下へ伝えます。

じっくり年表

12世紀末
土肥実平を祖とする小早川氏が、源頼朝のもとで安芸国沼田荘と関わります。
13世紀前半
小早川茂平が東国から沼田荘へ本拠を移し、高山城を築いたと伝わります。
1338
高山城が文献に初めて現れます。南北朝期の争乱の中で戦場となりました。
14世紀
小早川氏は室町幕府・守護勢力との関係を結びながら、沼田荘で支配を続けます。
1397
高山城主・小早川春平が愚中周及を招き、佛通寺を開いたとされます。
15世紀後半
応仁・文明の乱が地方へ波及し、小早川氏の一族間でも対立が深まります。
応仁・文明
竹原小早川氏が高山城を攻め、落城寸前まで追い込みます。
16世紀前半
大内氏と尼子氏が安芸・備後を争い、小早川氏は二大勢力の間で対応を迫られます。
1543
尼子勢が小早川氏の勢力圏へ侵入します。
1544
尼子勢が高山城を包囲・攻撃。城は戦国大名間の前線要塞となります。
1544
毛利元就の三男・隆景が竹原小早川家を継ぎます。
1550
隆景が本家筋の沼田小早川家も相続し、両小早川家が一人の当主のもとへまとまります。
1551.10
隆景が高山城へ入城し、沼田小早川家を継いだことを示します。
1552.6
隆景が対岸の新高山城を改修して本拠を移し、高山城は本拠としての役割を終えます。
1555
厳島合戦で毛利方が陶晴賢を破り、隆景と小早川勢の活動範囲が広がります。
1567
隆景が三原城の築城を始めたとされ、本拠の軸が川から海へさらに伸びます。
近世
高山城は軍事拠点として再利用されず、曲輪・土塁・井戸を残す城跡になります。
伝承
高山城の裏門は三原城下の町奉行所門などを経て、極楽寺山門になったと伝わります。
1957
高山城跡と新高山城跡が、国史跡「小早川氏城跡」に指定されます。
1998
三原城跡が国史跡へ追加され、三つの本拠の変化を一体で伝える史跡となります。

小早川氏は、なぜ沼田荘へ根を下ろしたか

小早川氏は、相模国の土肥氏につながる東国武士です。源頼朝に従った土肥実平の一族が安芸国沼田荘の地頭職を得て、鎌倉幕府の支配を西国で担いました。最初から三原周辺の土豪だったのではなく、幕府の御家人として土地へ入った家です。

4代とされる茂平の時代に、本拠を東国から沼田荘へ移したと伝わります。遠隔地の所領を代官任せにする段階から、当主自身が住み、家臣を配置し、年貢・裁判・軍事を直接動かす段階へ変わりました。高山城の築城伝承は、この地域定着の象徴です。

ただし「茂平が何年に現在見える巨大城郭を完成させた」と考えるのは早計です。築城年は不明で、現在の13郭・井戸・堀切は、南北朝から戦国期まで歴代当主が改修した結果と考えるべきです。高山城は一人の完成作品ではなく、小早川氏の長い歴史が地形へ積み重なった城です。

なぜ高山か――川・谷・街道を一望する

高山城は沼田川の東岸にあり、山頂から川沿いの平地と周辺の谷を見渡せます。沼田川流域には農地、集落、市場があり、上流・下流を結ぶ交通が集まりました。山上の城は領内の中心を監視し、危機には周辺の家臣と住民を集める場所になります。

城の南西には対岸の新高山、下流には三原浦と瀬戸内海があります。高山城の段階でも海と無関係だったわけではなく、川を通じて沿岸部へつながっていました。ただし、本拠の中心は港そのものではなく、沼田荘の農地と家臣団を押さえる山でした。

眼下の沼田川

天然の障害であると同時に、米・木材・人を運ぶ領内交通の軸。

周囲の谷

城へ近づく道を限定し、見張りと迎撃を行いやすくする地形。

背後の山地

内陸の所領や寺院へつながり、逃走・連絡・援軍の経路となる。

下流の瀬戸内

後に新高山城、三原城へ重心を動かす方向。水運が本拠移動を一本につなぎます。

城の構造――谷を挟む二つの曲輪群

高山城の城域は約16ヘクタール。北西から南東へ伸びる谷を挟み、二つの尾根に曲輪群がほぼ並行して置かれます。三原市は北側8郭、南側5郭と説明し、曲輪構成から北側が中心だったと考えています。

本丸北側曲輪群の中心。周囲の斜面には立石や大石を使った石垣が見られます。
二の丸本丸に隣接し、中心部へ入る動線を守る中核曲輪です。
北の丸北側尾根の一画を押さえ、城域外から中心へ近づく動きを監視します。
扇の丸本丸と二の丸の間に位置する曲輪。中枢部の空間を細かく分けます。
千畳郭南側の広い曲輪。名称は実測の畳数ではなく、広さを強調した呼び名です。
南丸・イワオ丸南側尾根を段階的に守る曲輪。イワオ丸には露出した大岩があります。
権現丸・太鼓丸南側曲輪群の防御・監視・合図を担ったと考えられる区画です。
西の丸・出丸中心から張り出して接近路を押さえ、尾根上の敵を早い段階で止めます。
谷の平坦地二つの尾根の間にあり、建物が置かれたと伝わる城内空間です。

堀切・土塁・石垣――時代の違う防御が重なる

尾根を登る敵に対しては、堀切で道を深く断ち、曲輪の縁へ土を盛った土塁を置きました。敵は一直線に本丸へ進めず、狭い斜面と曲輪ごとの入口で何度も止められます。南北二つの尾根があるため、一方を攻めても別の曲輪群から監視・反撃を受ける構造です。

本丸周辺などには大石を使った石垣や立石が見られます。ただし、近世城郭のように山全体を高い石垣で囲んだ城ではありません。地形を削る、土を盛る、尾根を切るという中世山城の技術が主体で、要所へ石を加えています。

石の使い方には吉川元春館跡と似た立石の配置も指摘されています。現在見える防御をすべて鎌倉期の築城時に戻すのではなく、戦争と築城技術の変化に応じて追加された層として読む必要があります。

七つの井戸――巨大な城を動かす水

高山城内には七か所の井戸跡があります。山城にとって水は、防御施設と同じほど重要です。攻城側が麓の道を断っても、飲み水を確保できれば長く持ちこたえられます。複数の井戸は、一つが崩れたり汚れたりしても城全体がすぐ水不足にならない備えです。

水は兵だけでなく、当主、家臣、奉公人、馬、炊事、清掃、宗教儀礼にも必要でした。約16ヘクタールの城域と七つの井戸を合わせると、高山城が少人数の見張り台ではなく、大勢を収容する領主の本拠だったことが分かります。

対岸の新高山城にも六つの井戸が残ります。隆景は規模の小さい簡易砦へ移ったのではなく、高山城で蓄積された「山上で大人数を支える本拠」の仕組みを、新しい城へ引き継いだと考えられます。

三つの戦争で見る高山城

南北朝期

幕府と朝廷をめぐる全国争乱の中で、1338年に城が記録へ現れ、初めて戦場となります。

応仁・文明の乱

京都の争乱が地方の同族対立と結びつき、竹原小早川氏が沼田本家の高山城を攻めます。

尼子氏の西進

1543~44年、山陰の大勢力が小早川領へ侵入。高山城は大名間戦争の前線になります。

戦わず終えた本拠

1552年の移転は落城による退去ではありません。隆景の政治判断で役割を新高山へ渡しました。

高山城の戦歴は、敵が時代ごとに変わったことを示します。南北朝の陣営争い、室町期の一族抗争、戦国大名の領国拡大。同じ城が異なる政治秩序の戦争に使われ、そのたびに防御と家臣団のまとまりが試されました。

竹原小早川氏との戦い――同族でも敵になる

小早川氏は一枚岩ではなく、沼田を本拠とする本家筋と、瀬戸内沿岸の竹原を基盤とする庶流に分かれていました。応仁・文明の乱では中央の陣営対立が地方へ持ち込まれ、竹原小早川氏が高山城を攻め、落城寸前に追い込みます。

これは「小早川対外敵」の戦いではなく、家名と血縁を共有する勢力同士の争いです。土地の相続、幕府・守護との関係、周辺大名との同盟が違えば、同族でも城を攻めます。高山城は小早川氏の結束だけでなく、分裂の歴史も残します。

約70年後、隆景が竹原家と沼田家を相続したことで、両家は一人の当主のもとへ統合されます。かつて竹原側に攻められた高山城へ隆景が入ったことは、二つの家の対立を終え、新しい継承を示す象徴的な行為でした。

1544年の尼子攻め――本拠が包囲された最後の危機

16世紀前半の安芸・備後は、西の大内氏、北の尼子氏が勢力を争う境目でした。小早川氏や毛利氏のような地域領主は、どちらと結ぶかを選びながら所領を守る必要がありました。

1543年、尼子勢が小早川氏の勢力圏へ侵入し、翌1544年に高山城を包囲・攻撃します。詳しい戦闘の全容は分かりませんが、城は落ちず、本拠として維持されました。七つの井戸、複数の尾根、深い堀切は、このような包囲へ耐えるための基盤でした。

この危機と前後して毛利元就の影響力が強まり、1544年には隆景が竹原小早川家へ入ります。尼子氏への防衛と小早川家の継承再編は別々の話ではなく、周辺の大勢力に対抗できる家中を作る動きとしてつながっています。

佛通寺――山城の支配は、寺院と文化にも広がる

1397年、高山城主の小早川春平は名僧・愚中周及を招き、佛通寺を開いたとされます。現在も臨済宗佛通寺派の大本山として知られる寺院です。城主の力は兵を集めるだけでなく、寺院を保護し、高僧を招き、地域の信仰と文化を整えることにも表れました。

寺院は祈願・供養の場であると同時に、文書、学問、人の交流を支える組織でした。小早川氏が沼田荘に長く根を張れた背景には、城から軍事的に押さえる力と、寺社・在地社会との関係を築く力の両方がありました。

高山城を曲輪と戦歴だけで読むと、領主の日常支配が抜け落ちます。城、川沿いの集落、農地、寺院を一つの領域として見ることで、沼田小早川氏の本拠が地域社会の中心だったことが見えてきます。

隆景は、なぜ高山城へ一度入ったのか

隆景は1550年に沼田小早川家を相続しましたが、毛利家から入った養子です。前当主を退かせた相続には毛利元就の強い政治力が働き、反対する家臣もいました。新しい城へ直行するだけでは、代々高山城を守った家臣から見て正統性が弱くなります。

1551年10月に高山城へ入ることは、歴代当主の座を受け継ぎ、沼田家の当主になったと示す儀礼的・政治的な意味を持ちました。そのうえで翌年6月、対岸の新高山城へ移ります。古い本拠で継承を確認し、新しい本拠で自分の体制を始める二段階の移動でした。

高山城が軍事的に弱くなったから、わずか八か月で逃げたわけではありません。城は大規模で、尼子勢の攻撃にも耐えています。移転の核心は、新当主による家臣団の再編と、竹原側を含む二つの小早川家を統合した政治秩序にありました。

高山から新高山へ――川を渡った本拠移動

新高山城は、高山城から沼田川を挟んだ西岸にあります。遠方へ領国を移したのではなく、旧城とほぼ同じ高さの対岸へ移りました。農地、市場、家臣の所領、水運との関係を保ちながら、当主の中心だけを新しくできる距離です。

新高山には隆景以前から副城があったと伝わり、隆景が大規模に改修して本拠にしました。既存の防御を利用しつつ、本丸・釣井の段・多数の井戸・寺院を持つ政治拠点へ発展させます。高山城で確立した山上本拠の仕組みは、対岸へ組み直されました。

高山城沼田小早川氏の歴史、家名の正統性、旧家臣団の記憶を背負う本拠。
新高山城隆景の新体制を示し、竹原・沼田両家をまとめる政治・軍事・生活の本拠。
変わらないもの沼田川流域の農地・市場・家臣団・街道・水運とのつながり。
変わったもの本拠を象徴する当主、家臣団の編成、毛利家との関係、城内空間の配置。

高山・新高山・三原――三つの城は何が違うか

高山城鎌倉・室町期の伝統的山城。沼田荘、旧家臣団、家の正統性を支える「受け継ぐ本拠」。
新高山城隆景が家中を再編した戦国期の山城。二つの小早川家をまとめる「作り直す本拠」。
三原城港・軍船・城下を組み込んだ海城。瀬戸内の人と物を広域に「動かす本拠」。
三城の連続伝統を継ぎ、新体制を築き、海上支配へ広げる小早川氏の変化を同じ流域で追える。

本拠の移動を「古い城を捨て、より強い城へ進歩した」とだけ見ると、三城の違いを失います。高山城は新高山城より広く、豊富な井戸を持ち、戦闘経験もあります。それでも隆景が移ったのは、城の強弱だけでなく、家督継承後の政治と交通の使い方が変わったためです。

極楽寺山門――高山城の裏門という伝承

三原市東町の極楽寺山門は、高山城の裏門を移したものと伝えられます。三原城築城時に城下の町奉行所門として使われ、幕末には学問所・亦楽舎の門となり、1878年に極楽寺へ移されたという来歴です。

門には桃山時代の作とされる彫刻があり、市重要文化財に指定されています。ただし、高山城の本拠時代は1552年までで、門の年代説明との間には検討すべき点があります。「鎌倉以来の門がそのまま残る」と断定せず、城門移築の伝承と、後世に修理・転用された建物として扱うのが適切です。

伝承が示す重要点は、廃城後の建物が無価値になったのではなく、新しい城下の役所、学校、寺院へ役割を変えたことです。城の記憶は山上だけでなく、三原の町にも移されました。

現在の遺構――何が残っているか

北側8郭本丸・二の丸・北の丸・扇の丸など、中枢を構成した曲輪群が残ります。
南側5郭千畳郭・太鼓丸など、谷を挟んで並行するもう一つの防御線を形成します。
七つの井戸跡大人数の滞在と籠城を支えた水源。新高山城の六井戸との比較にも向きます。
堀切南東へ伸びる尾根筋などを深く断ち、敵の直進を止めます。
土塁曲輪の縁を高くし、防御線と城内空間の境界を作ります。
石垣・立石本丸周辺などに残り、長い使用期間の中で石を使う技術が加わったことを示します。
谷の平坦地建物があったと伝わり、二つの尾根を結ぶ生活・移動空間を考える手掛かりです。
国史跡1957年指定。新高山城・三原城と合わせた「小早川氏城跡」の一部です。

城跡では、この順に見ると分かりやすい

  1. 山麓で沼田川を見る:対岸の新高山城との距離を確認し、本拠移動が領外への移転ではないと押さえる。
  2. 尾根の堀切を見る:登路をどこで断ち、敵を一列にさせたかを地形から読む。
  3. 南側曲輪群を歩く:南丸・イワオ丸・太鼓丸など、本丸とは別に続く防御線を確かめる。
  4. 谷の平坦地を見る:二尾根の間にも建物と移動の空間があった巨大城郭を想像する。
  5. 北側中枢へ進む:二の丸・扇の丸・本丸の重なりから、当主へ近づく段階的な守りを見る。
  6. 井戸跡を確認する:七つの水源から、籠城規模と日常生活を考える。
  7. 対岸と下流を見る:新高山、さらに三原へ本拠の軸が伸びた方向を地形でつなぐ。

よくある誤解を整理

  • 高山城の正確な築城年代は不明で、小早川茂平の築城は伝承として扱う
  • 1338年は築城年ではなく、現時点で確認できる文献上の初見
  • 現在見える13郭すべてが鎌倉期に完成していたわけではなく、数世紀の改修が重なる
  • 一つの山頂を囲む小城ではなく、谷を挟む二つの尾根に広がる約16ヘクタールの巨大山城
  • 「千畳郭」は畳千枚分を実測した名称ではなく、広い曲輪を表す呼び名
  • 城全体が石垣造りではなく、土塁・堀切を主体に要所へ石を用いた中世山城
  • 竹原小早川氏は常に味方の分家ではなく、応仁・文明の乱では高山城を攻めた
  • 隆景の在城が約八か月でも、高山城そのものの歴史は二百年以上ある
  • 新高山城への移転は、高山城が尼子攻めで落ちたためではない
  • 高山城は続日本100名城に単独選定された城ではないが、国史跡「小早川氏城跡」の重要な一部
  • 極楽寺山門は高山城裏門の移築伝承を持つが、建築年代と転用過程を含めて慎重に見る

高山城から何が見えるか

高山城からは、戦国大名が突然現れたのではなく、鎌倉以来の土地支配と武士団を受け継いで成立したことが見えます。隆景が得た小早川家の兵、船、土地、家名は、歴代当主が高山城を中心に積み上げたものでした。

二つの尾根、13の曲輪、七つの井戸は、一度の築城計画では説明できません。南北朝の戦場、同族間の攻城戦、尼子氏の包囲を経験するたび、必要な守りと生活空間が加わりました。高山城の複雑さは、小早川氏が地域で生き残った時間の長さそのものです。

そして隆景の入城と移転は、古い家を継ぐことと、新しい体制を作ることが別の段階だったと教えます。高山で正統性を受け取り、新高山で家臣団を再編し、三原で海上支配へ広げる。三城を順に読むと、小早川氏の本拠が「受け継ぐ城」から「作り直す城」、そして「動かす城」へ変わった道筋が完成します。

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10問クイズ

Q1. 高山城を本拠とした小早川氏の系統は?

A. 沼田小早川氏です。

Q2. 文献上の初見は何年?

A. 1338年です。築城年そのものではありません。

Q3. 高山城を築いたと伝わる人物は?

A. 小早川茂平です。

Q4. 城域はおよそ何ヘクタール?

A. 約16ヘクタールです。

Q5. 北側と南側を合わせて主要な曲輪はいくつ?

A. 北8郭と南5郭を合わせた13郭です。

Q6. 城内の井戸跡はいくつ?

A. 七か所です。

Q7. 応仁・文明の乱で高山城を攻めた同族は?

A. 竹原小早川氏です。

Q8. 1544年に高山城を包囲・攻撃した勢力は?

A. 尼子勢です。

Q9. 隆景が高山城へ入った時期は?

A. 1551年10月です。

Q10. 隆景が翌1552年6月に移った城は?

A. 沼田川対岸の新高山城です。

参考資料