勢力ページ / 岡山を作り、八丈島で終わった家

宇喜多氏うきたし

宇喜多氏(宇喜多家)は、備前国(岡山県東部)を本拠とした戦国大名の一族です。瀬戸内の海運に根を持つ備前の国人で、守護代・浦上氏に仕えていましたが、宇喜多直家の代に主家を押しのけて備前・美作を手中にし、岡山城を本拠としました。直家の子・宇喜多秀家は豊臣秀吉の猶子ゆうしとして育てられ、57万石の大名、そして五大老の一人となります。しかし関ヶ原の戦いで西軍の主力として敗れ、八丈島に流されて、大名としての宇喜多氏は二代で終わりました。

備前の国人・浦上氏の家臣 直家が一代で備前・美作を 秀家は五大老・57万石 関ヶ原で敗れ、八丈島へ
このページを読む順番

要点

  • 出発点は備前の国人。児島の三宅氏の流れを称し、瀬戸内の海運に関わる家だった。戦国初期は備前守護代・浦上氏の家臣。
  • 直家は没落から立ち上がった。祖父が殺されて幼くして流浪したのち浦上宗景に仕え、婚姻と謀略で周辺の国衆を従えて力を伸ばした。
  • 主家を追い、岡山を本拠にした。1570年代に浦上氏を追って備前・美作を手中にし、岡山の石山に城を築いて城下町を開いた。現在の岡山市の出発点である。
  • 秀家は秀吉に育てられた。直家の死後、幼い秀家を秀吉が猶子として引き立て、前田利家の娘・豪姫を妻に与えた。57万石の大名となり、五大老に加わった。
  • 関ヶ原で敗れ、八丈島へ。西軍の主力として戦った秀家は敗走し、捕らえられて八丈島に流された。そこで50年を生き、1655年に死去。大名家は二代で終わった。
家のはじまり

宇喜多氏は、どんな家だったのか

  • 出自は海に近い。備前の児島に漂着した百済の王子の子孫とする伝承を持ち、三宅氏から分かれたとされる。伝承の域を出ないが、瀬戸内の海運と結びついた家だったことは確かとみられる。
  • 浦上氏の家臣だった。備前の守護は播磨の赤松氏で、その守護代・浦上氏が備前を実際に治めていた。宇喜多氏は浦上氏に仕える国人の一つだった。
  • 1534年、祖父が殺され没落した。直家の祖父・能家は浦上氏の重臣だったが、同じ浦上家臣の島村氏に砥石城を攻められて自害。幼い直家は父とともに流浪した。

宇喜多氏は国衆から身を起こした型の戦国大名で、主家の浦上氏を追って一国の主になった点は毛利氏・龍造寺氏と似ています。備前の地理は備前国で整理しています。

直家の時代

直家は、どうやって備前の主になったのか

  1. 011540年代:浦上宗景に仕える

    流浪していた直家は浦上宗景に仕え、小さな所領を与えられました。祖父の仇である島村氏を討ち、砥石城を取り戻します。

  2. 021550〜60年代:婚姻と謀略で拡大

    直家は周辺の国衆に娘を嫁がせては、のちにその家を滅ぼすという手法で勢力を広げました。舅の中山氏、娘婿の松田氏、備中の三村氏の当主を討ったとされ、「謀将」の名が残ります。

  3. 031573年:岡山を本拠に

    直家は岡山の石山にあった城を手に入れて本拠とし、城下町を開きました。瀬戸内の海運と山陽道をつなぐ位置で、のちの岡山城下の出発点です。

  4. 041577〜79年:主家を追い、秀吉に従う

    主家の浦上宗景を播磨へ追い、備前・美作を手中にしました。毛利氏に従っていましたが、1579年に羽柴秀吉の中国攻めに応じて織田方へ転じ、備前の大名として認められます。1582年に病死。

直家については宇喜多直家うきた なおいえで、岡山の町は岡山で整理しています。

秀家と関ヶ原

秀家はなぜ、五大老から八丈島へ落ちたのか

  • 秀吉に育てられた。直家の死後、10歳の秀家は秀吉の猶子として手元で育てられた。元服して秀吉の「秀」の字を受け、前田利家の娘・豪姫(秀吉の養女)を妻とした。
  • 57万石の大名、五大老へ。四国・九州・小田原朝鮮出兵に従軍し、備前・美作・備中東部に播磨の一部を加えた57万石の大名となった。岡山城を大改築し、秀吉晩年には五大老の一人に加わった。
  • 宇喜多騒動で家中が割れた。1599年、秀家の政治に反発した重臣たちが出奔し、宇喜多家の家臣団は大きく損なわれた。関ヶ原の前年の出来事である。
  • 関ヶ原で西軍主力として敗れた。1600年、秀家は1万7千の兵を率いて西軍の主力となり、開戦から奮戦したが、小早川秀秋の寝返りで総崩れとなった。秀家は薩摩へ逃れ、島津氏にかくまわれた。
  • 八丈島で50年。島津氏の助命嘆願で死罪を免れ、1606年に八丈島へ流された。前田家からの援助を受けながら島で暮らし、1655年に84歳で死去。子孫は明治まで島に住んだ。

秀家については宇喜多秀家うきた ひでいえで、関ヶ原の経過は関ヶ原の戦いで読めます。

人物からたどる

宇喜多氏をめぐる人物

宇喜多氏についてのよくある疑問

直家は本当に「謀将」だったのか?

舅や娘婿を討って勢力を広げたことは事実とみられ、謀略を多用した武将だったことは否定できません。ただし「暗殺や毒殺を繰り返した冷酷な人物」という像は江戸時代の軍記物で強調されたもので、近年の岡山市などの研究では、海運を重んじた経済政策や、岡山の城下町を開いた統治者としての面が再評価されています。同じ時代の戦国大名と比べて特別に残虐だったとはいえない、という見方が出ています。

猶子とは何か?養子と違うのか?

猶子は、家督や財産を継がせる養子とは違い、親子の縁を結んで庇護を与える関係です。秀家は秀吉の猶子として育てられましたが、豊臣家を継ぐ立場ではなく、宇喜多家の当主のままでした。秀吉は一門の少なさを補うため、秀家のように有力大名の子を猶子として取り込み、自分の養女を嫁がせて親族の輪を広げました。

宇喜多騒動とは何か?

1599年、秀家の側近政治やキリスト教への傾きに反発した戸川達安ら重臣が、秀家と対立して出奔した事件です。家康の調停で収まりましたが、出奔した重臣の多くはそのまま徳川方に仕え、関ヶ原で宇喜多軍と戦っています。有力な家臣を失ったまま関ヶ原を迎えたことが、宇喜多氏の敗因の一つとされます。

秀家はなぜ処刑されなかったのか?

敗走した秀家をかくまった島津氏が、家康との和睦交渉のなかで助命を嘆願したこと、そして秀家の妻・豪姫の実家である前田家が幕府に働きかけたことが大きいとされます。死罪を免れて八丈島に流された秀家は、前田家から米や金の援助を受けながら島で50年近くを生き、関ヶ原の西軍大名のなかで最も長生きしました。

次にたどる

宇喜多氏から次にたどる

参考にした資料