勢力ページ / 一代で築かれた「加賀百万石」の家

前田家まえだけ

前田家(前田氏)は、加賀国の金沢を本拠とし、江戸時代を通じて全国最大の大名だった家です。出発点は尾張国荒子(名古屋市)の小さな土豪で、四男の前田利家が織田信長おだ のぶながに仕えて頭角を現し、豊臣秀吉のもとで能登・加賀を得て五大老の一人になりました。利家の死後、子の前田利長は徳川家康とくがわ いえやすに恭順して家を守り、関ヶ原ののち加賀・越中・能登の三か国およそ120万石を領します。「加賀百万石」と呼ばれるこの家は、外様大名でありながら将軍家に次ぐ格式を与えられ、明治維新まで続きました。

尾張荒子の土豪から 利家が一代で大名に 五大老・家康への恭順 加賀百万石、明治まで
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要点

  • 出発点は尾張の小さな土豪。前田利家は荒子城主・前田利昌の四男として生まれ、家を継ぐ立場ではなかった。信長の親衛隊(赤母衣衆)として武功を重ね、のちに荒子の家督を継いだ。
  • 秀吉との縁が家を大きくした。若いころから秀吉と親しく、1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側から秀吉側へ転じたことで、能登に加えて加賀二郡を得た。金沢城に入り、本拠とした。
  • 利家は五大老になった。秀吉の晩年、利家は徳川家康と並ぶ五大老の一人となり、幼い秀頼の後見役を任された。1599年に死去。
  • 利長が家康に恭順して家を守った。利家の死後、前田家は家康に疑われ攻められかけたが、利長は母のまつを人質として江戸へ送り、恭順した。関ヶ原では東軍に属し、越中を加えて約120万石となった。
  • 外様最大の家として明治まで続いた。加賀藩は将軍家に次ぐ格式を持ち、学問と工芸を奨励して「加賀百万石」の文化を育てた。幕末まで前田家の支配が続いた。
利家の時代

利家は、どうやって土豪の子から大名になったのか

  1. 01信長の赤母衣衆

    前田利家は若くして信長に仕え、槍の使い手として知られました。一時は信長の勘気を受けて浪人しましたが、桶狭間などで功を立てて復帰し、親衛隊の赤母衣衆の筆頭となります。1569年に兄を差し置いて荒子の家督を継ぎました。

  2. 021575〜81年:越前から能登へ

    柴田勝家の与力として越前に配され、1581年には能登一国を与えられて七尾城主となりました。土豪の子が一国の主になった瞬間です。

  3. 031583年:賤ヶ岳の判断

    本能寺の変後、勝家と秀吉が争った賤ヶ岳の戦いで、利家は勝家方として出陣しながら戦線を離脱し、秀吉に従いました。この判断で加賀二郡を加えられ、金沢城に入ります。

  4. 04五大老へ

    秀吉のもとで利家は徳川家康に次ぐ大大名となり、1598年には五大老の一人として秀頼の後見を託されました。家康と対立しかけたまま、翌1599年に病死します。

利家の歩みは前田利家まえだ としいえで、賤ヶ岳の経過は賤ヶ岳の戦いで整理しています。

利長と関ヶ原

前田家はなぜ、家康に攻められずに済んだのか

  • 利家の死で後ろ盾を失った。利家は秀頼の後見として家康に対抗しうる唯一の存在だった。1599年に利家が死ぬと、豊臣政権の均衡は崩れ、家康の力が一気に強まった。
  • 家康暗殺の疑いをかけられた。1599年、利長が家康の暗殺を企てたという噂が流れ、家康は加賀征伐の構えを見せた。
  • 母を人質に出して恭順した。利長は弁明の使者を送り、母のまつ(芳春院)を江戸へ人質として送ることで家康に従った。これが前田家を「徳川に従う外様大名」として位置づけた。
  • 関ヶ原で東軍に属した。1600年、利長は北陸で西軍方の大名と戦い、戦後に越中を加増されて三か国約120万石となった。弟の利政は西軍寄りと見なされて領地を失っている。

利長の判断は、秀吉の恩に報いるより家を守ることを選んだものでした。詳しくは前田利長まえだ としながで読めます。

加賀百万石

「百万石」の家は、どう続いたのか

  • 全国最大の石高。加賀・越中・能登の三か国でおよそ120万石。将軍家の直轄地を除けば、全国のどの大名よりも大きかった。
  • 将軍家に次ぐ格式を与えられた。外様でありながら、前田家の当主は将軍の一門に準じる扱いを受け、正室に将軍家の娘を迎えることもあった。幕府は前田家を警戒しつつ、格式で取り込んだ。
  • 軍事より文化に力を注いだ。三代利常以降、前田家は学問・工芸・能楽を奨励した。幕府の疑いを避ける意図もあったとされ、金沢は「百万石の文化」の都市となった。
  • 分家も大名になった。富山藩・大聖寺藩は前田家の分家で、本家とあわせて北陸を支えた。利家の次男・利政の系統は前田土佐守家として藩の重臣を務めた。

前田家は、関ヶ原で減封された毛利氏上杉氏と対照的に、恭順によって領地を増やした外様大名です。本拠の町は金沢で整理しています。

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前田家をめぐる人物

前田家についてのよくある疑問

「加賀百万石」は本当に百万石あったのか?

関ヶ原後の前田家の領地は加賀・越中・能登の三か国で、表向きの石高はおよそ119万5千石とされ、「百万石」を超えていました。ただし分家の富山藩・大聖寺藩を分けたあとの本家の石高は102万石ほどで、幕末まで「百万石」と呼ばれ続けました。全国の大名のなかで唯一、百万石を超えた家です。

利家は秀吉の友人だったのか?

二人は若いころから信長のもとで同僚として親しく、屋敷も隣どうしだったと伝わります。利家の妻まつと秀吉の妻ねねも親しい関係でした。賤ヶ岳での利家の判断には、この個人的な結びつきが影響したとみられます。ただし利家は秀吉の家臣というより、信長の家臣から秀吉に従った大名であり、秀吉から見れば最も信頼できる同輩でした。

前田玄以は前田家の一族か?

違います。前田玄以まえだ げんいは美濃出身で豊臣政権の五奉行を務めた人物ですが、加賀前田家とは血縁も主従関係もなく、名字が同じだけです。五大老の利家と五奉行の玄以が同じ時期に豊臣政権にいたため混同されやすいですが、別の家です。

前田家はなぜ取りつぶされなかったのか?

利長が早い段階で家康に恭順し、母を人質に差し出したことが決定的でした。関ヶ原で東軍についたことで加増も受けています。その後も前田家は幕府に対して従順な姿勢を保ち、軍事より文化に力を注ぎました。幕府の側も、最大の外様大名を敵に回すより、格式を与えて取り込む道を選んだといえます。

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参考にした資料