『信長公記』に残る簗田左衛門太郎の姿
- 『信長公記』には、はじめ「簗田左衛門太郎」、天正3年(1575)7月からは「別喜右近」の名で登場します。「広正」の名は『信長公記』には出てきません。
- 元亀元年(1570)には、浅井攻めから引き揚げる信長軍の殿(最後尾で追ってくる敵を防ぐ役)に奉行として付けられ、同じ年の志賀の陣では比叡山の麓の穴太に置かれました。
- 天正3年(1575)の越前攻めに加わって加賀へ攻め入り、加賀の江沼郡に構えられた檜屋城と大正寺(大聖寺)に、佐々権左衛門・堀江とともに入れ置かれました。
- 石川の郷土辞典によると、翌天正4年(1576)の秋、大聖寺で加賀の一揆に攻められて信長に援軍を求め、信長のもとへ呼び戻されました。
何を担った人物か
『信長公記』によれば、元亀元年(1570)6月21日、信長は浅井氏の居城に兵を寄せ、自らは虎御前山に登って一夜の陣を置き、周りの村々に火を放たせました。翌22日に軍を引き揚げるとき、殿には諸隊の鉄砲500挺と弓の衆30人ほどが付けられ、簗田左衛門太郎・中條将監・佐々内蔵介の3人が奉行として添えられました。簗田左衛門太郎は道の中ほどから少し左に寄って退き、追ってきた敵の足軽を近くまで引き付けては押し返して戦いました。続いて佐々内蔵介の持ち場、さらに中條将監の持ち場でも戦いになり、弓の衆が支えて殿は無事に退いたと記されます。
同じ年の9月、浅井・朝倉勢が比叡山に上ると、信長は9月25日に比叡山の麓を取り巻かせました(志賀の陣)。このとき麓の穴太の在所にも要害(守りの陣地)を構えさせ、簗田左衛門太郎・川尻与兵衛・佐々蔵介・明智十兵衛ら16人を置いています。天正2年(1574)に信長が伊勢長島の一向一揆を攻めたときには、嫡男の織田菅九郎(信忠)が江口から攻め入り、その伴衆(付き従った顔ぶれ)の中に簗田左衛門太郎の名が挙がっています。
天正3年(1575)7月3日、信長は官位を進めるという勅諚を辞退しました。そのうえで家老の衆のうち、友閑を宮内卿法印、夕庵を二位法印、明智十兵衛を惟任日向、丹羽五郎左衛門を惟住とし、簗田左衛門太郎には別喜右近の名を与えました。
その翌月、別喜右近は越前攻めに加わります。8月15日、大風雨のなか越前へ出陣した顔ぶれの中に、惟任日向守(明智十兵衛)や羽柴筑前守らとともに「別規右近」の名が見えます。8月23日、信長が一乗谷へ陣を移すと、稲葉伊予父子・惟任日向守・羽柴筑前守・長岡兵部太輔と別喜右近が加賀まで攻め入ったとの知らせが届きました。8月28日、信長が越前の豊原へ陣を移したころ、加賀の能美郡と江沼郡が信長方に付いたため、檜屋城と大正寺の二つの城が構えられ、別喜右近と佐々権左衛門に堀江を加えて入れ置かれました。大正寺は、石川県の県史や郷土辞典では「大聖寺」と書かれ、県史も天正3年に戸次広正を江沼郡大聖寺に置いたと記します。大聖寺城跡は今の石川県加賀市大聖寺にあり、天正3年(1575)からは織田氏、のちに豊臣氏が支配しました。
その後の加賀での動きは『信長公記』には見えず、1942年刊の郷土辞典『加能郷土辞彙』が伝えています。それによると、檜屋・大聖寺の二城を構えたとき、広正はその主将とされました。天正4年(1576)の秋、加賀の一揆が江沼郡の動橋に集まって大聖寺城の広正を脅かすと、広正は敷地山に出て防ぎ、一揆の首領の林新六郎・富樫六郎左衛門をはじめ250人を討ちました。しかし北加賀から来る一揆はますます多く、広正は御幸塚城を修めてここを拠点とし、急使を送って信長に援軍を求めました。信長は広正を呼び戻して馬廻の副将とし、加賀は佐久間盛政に攻め取らせることにしたとされます。
『信長公記』には、天正6年(1578)にも簗田左衛門太郎の名が見えます。播磨の神吉城攻めのころ、兵庫から明石、明石から高砂へと続く道の警固が命じられたなかで、道の要所ごとの警固を織田信忠が命じ、林佐渡・市橋九郎左衛門・浅井新八らとともに、簗田左衛門太郎が交代で警固に当たりました。
時系列
中條将監・佐々内蔵介とともに、鉄砲・弓の衆を率いる殿に添えられました。
比叡山の麓の穴太に構えた陣地に、16人の一人として置かれました。
江口から攻め入った織田信忠に付き従いました。
明智十兵衛が惟任日向、丹羽五郎左衛門が惟住となったのと同じ日です。
加賀の江沼郡に構えた檜屋城と大正寺(大聖寺)に入れ置かれました。
郷土辞典によると、敷地山で一揆を防いだのち御幸塚城を拠点とし、援軍を求めて信長に呼び戻されました。
神吉城攻めのころ、兵庫・明石・高砂の間の道を交代で守りました。
読み違えないために
『信長公記』に出てくる名は「簗田左衛門太郎」と「別喜右近」(越前攻めの顔ぶれの箇所だけ「別規右近」)で、「広正」の名も「戸次」の字も出てきません。戸次広正という書き方は『加能郷土辞彙』の見出しに見えるもので、同書は通称を右近、初めの名を簗田左衛門太郎とし、戸次を別の字で書く本は誤りだとしています。一方で『信長公記』は「別喜」と書いており、どちらの字がもとの形かは、これらの資料だけでは決められません。また、天正3年(1575)に別喜右近の名を受けたあとも、天正6年(1578)の記事では「簗田左衛門太郎」と書かれていますが、その事情は『信長公記』からは確かめられません。石川県立図書館の郷土人物データベースは信長の馬廻とし、『加能郷土辞彙』も加賀から呼び戻したあと馬廻の副将にしたと記す一方、『信長公記』は別喜右近の名を与えた記事で、名を受けた人々を「御家老之御衆」と呼んでいます。『信長公記』の最初の巻には「梁田弥次右衛門」という別の名の人物も出てきますが、広正との関係は書かれていません。大聖寺城跡の県の解説には、江戸時代の絵図に描かれた曲輪の一つとして「戸次丸」の名が挙がりますが、名の由来は書かれていません。
参考にした資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之上」(太田牛一著、1881年刊)(10コマ、最初の巻の見出し「梁田彌次右衛門御忠節之事」とその記事。巻之三〔元亀元年〕31コマに、6月21日に浅井氏の居城へ兵を寄せ、信長が虎御前山で一夜の陣を置いたこと、22日の引き揚げで鉄砲500挺・弓の衆30人ほどの殿に簗田左衛門太郎・中條将監・佐々内蔵介が奉行として添えられ、簗田左衛門太郎・佐々・中條の順に敵と戦って退いたこと。33コマに、9月25日に比叡山の麓を取り巻かせ、穴太の在所の要害に簗田左衛門太郎ら16人を置いたこと。巻之七〔天正2年〕48コマに、長島攻めで江口から攻め入った織田菅九郎の伴衆に簗田左衛門太郎の名があること)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之中」(太田牛一著、1881年刊)(巻之八〔天正3年〕8コマに、7月3日に信長が官位の勅諚を辞退し、家老の衆のうち友閑・夕庵・明智十兵衛・丹羽五郎左衛門とともに簗田左衛門太郎が別喜右近とされたこと。9コマに、8月15日の越前への出陣の顔ぶれに「別規右近」があること、8月23日に信長が一乗谷へ陣を移し、稲葉伊予父子・惟任日向守・羽柴筑前守・長岡兵部太輔・別喜右近が加賀まで攻め入ったとの知らせがあったこと。10コマに、8月28日に豊原へ陣を移したこと、能美郡・江沼郡が信長方に付いて檜屋城・大正寺の二城を構え、別喜右近・佐々権左衛門・堀江を入れ置いたこと。巻之十一〔天正6年〕25コマに、兵庫・明石・高砂の間の道の要所を織田信忠の命で林佐渡・市橋九郎左衛門・浅井新八・簗田左衛門太郎らが交代で警固したこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「加能郷土辞彙」(日置謙編、1942年刊)(374コマの見出し「ヘツギヒロマサ 戸次廣正」に、通称右近・初名簗田左衛門太郎であること、戸次を別の字で書く本は誤りとすること、天正3年に江沼郡に檜屋・大聖寺の二城を構えて広正を主将としたこと、天正4年秋に動橋に集まった一揆を敷地山で防いで林新六郎・富樫六郎左衛門ら250人を討ったこと、御幸塚城を修めて拠り、信長に援軍を求めたこと、呼び戻されて馬廻の副将とされ、加賀は佐久間盛政に攻め取らせることになったこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「石川県史 第2編」(石川県編、1928年刊)(20コマ、第一章「領主及び領土」に、天正3年に戸次広正を江沼郡大聖寺に置いたこと)
- 石川県「大聖寺城跡」(大聖寺城跡が加賀市大聖寺にあること、天正3年以降は織田・豊臣両氏が支配したこと、江戸時代の絵図に描かれた曲輪の一つに戸次丸があること)
- 石川県立図書館 ふるさとコレクション「簗田広正」(別名が別喜右近・戸次広正であること、信長の馬廻とされること、石川県史・加能郷土辞彙・金沢市史の掲載)
- 石川県立図書館 ふるさとコレクション「別喜右近」(読みがベツキウコンであること、別名が戸次広正・簗田広正であること)