人物ページ / 五摂家・二条家の当主

二条昭実にじょうあきざね

二条昭実とは?

二条昭実は、五摂家ごせっけ関白を出す家柄)の一つ二条家の当主で、1585年に近衛信輔のぶすけと関白の座を争い、1615年には前関白(かつて関白を務めた人物を指す肩書)として徳川秀忠・徳川家康とくがわ いえやすと法度に連署した公家です。1585年の争いは、秀吉が自ら関白になることで収まりました。

1585年3月に内大臣となった秀吉の叙任にともない、近衛信輔が右大臣、二条昭実が左大臣へ進みます。「秀吉が左大臣を望んだ」ことをきっかけに、次の関白をどちらにするかで相論が起きました。
争いを聞いた秀吉は、自分が関白になる案を出します。近衛家猶子ゆうしとなって、内大臣から関白になりました。
昭実が九条兼孝に宛てて書いた書状が、自筆の原本として今も伝わっています。
二条城で、前関白の二条昭実、将軍の徳川秀忠、大御所の徳川家康の三名が連署し、全17か条の法度が定められました。

二条家の当主——晴良の子は、三つの摂家に分かれた

二条昭実は、五摂家の一つである二条家の当主である。父の二条晴良は関白を務めた人物で、その子たちは一つの家にとどまらず、別々の摂家に入って当主となった。九条家へ入った九条兼孝、鷹司家を継いだ鷹司信房は、いずれも昭実の兄弟にあたる。昭実は父の家をそのまま継いだ。

五摂家 関白を受けられる家は、限られていた

五摂家は、関白の職を受けられる家柄として朝廷の中で扱われていた。1585年の争いの場でも、関白の職は藤原氏を宗家そうけとする五摂家以外は受けられない、という説明が出ている。二条家はその五つのうちの一つで、昭実はその当主だった。五摂家の筆頭に置かれていたのは近衛家である。

三人の兄弟 一つの家から、三つの家の当主が出た

晴良の子である三人は、九条・二条・鷹司という三つの摂家にそれぞれ分かれて入った。二条家をそのまま継いだのは昭実一人で、兼孝は九条家、信房は鷹司家の当主になっている。

関白をめぐる相論——右大臣から左大臣へ進んだ先で、争いになった

1585年3月に内大臣となった秀吉の叙任にともない、5月ごろ、近衛信輔は内大臣から右大臣へ、二条昭実は右大臣から左大臣へと移った。この人事の中で「秀吉が左大臣を望んだ」ことをきっかけに、次の関白を近衛信輔と二条昭実のどちらにするかという相論そうろん(互いの言い分を争うこと)が起きた。秀吉の望みがどのようにして関白争いに結びついたのか、その経緯を記した記述は資料になく、確定できない。

1585年3月〜5月 動いた官位——秀吉の任官が、二人を押し上げた

秀吉が内大臣になったのは1585年3月10日である。その2か月後の5月、秀吉の叙任にともなって近衛信輔と二条昭実の官職が一つずつ上がった。信輔は内大臣から右大臣へ、昭実は右大臣から左大臣へ移っている。

争点 次の関白は誰か——勝ち負けは史料では確定できない

1585年のこの相論で争われたのは、次に関白の座へ就くのが信輔か昭実かという一点である。どちらの言い分に理があったのか、どちらが押し切ったのかを示す記述は、公的機関の資料には見当たらない。

秀吉の関白就任——当事者ではない者が、関白になった

相論を聞いた秀吉は、自分が関白になることでこの争いを収める案を提示した。関白の職は五摂家以外には渡らないと信輔から聞いた秀吉は、摂家の筆頭である近衛家の猶子(他家の子として迎えられる縁組)になったうえで関白を受ける、という方法を持ち出す。この案に異論は上がらなかった。

1585年7月11日 藤原秀吉——内大臣から関白へ移った

1585年7月11日、秀吉は「藤原秀吉」として内大臣から関白となった。同じ日に、関白に相応する位階として従一位じゅいちいが与えられている。近衛家の猶子という形をとることで、五摂家の外にいた秀吉が関白の職に入る筋道が作られた。

その後 争った二人は、どちらも関白にならなかった

1585年7月のこの決着で、相論の当事者だった近衛信輔と二条昭実は、どちらもこのとき関白の座に就いていない。相論の外にいた秀吉が、その座に入る形で争いは終わった。

1601年の書状——九条兼孝に宛てた自筆が残る

1585年の相論から16年後の1601年、二条昭実が九条兼孝に宛てて書いた書状がある。書き写しではなく原本で、しかも昭実自身の筆によるものとして伝わっており、九条家に伝わった資料の中に含まれている。この間の16年について、昭実の動静を記した記述は資料には見当たらない。

1601年 自筆の原本が、一点伝わる

1601年に書かれたこの書状は、昭実自筆の原本一点として今に伝わる。書名には昭実の名と、宛先である九条兼孝の名が併せて記されている。文中で何を語ったのかまでは、目録の記載からは読み取れない。

前関白としての連署——二条城で、17か条が定まった

1615年(元和元年)7月17日、京都の二条城で、前関白の二条昭実、将軍の徳川秀忠、大御所の徳川家康の三名が連署し、全17か条からなる法度が制定された。この法度は、天皇・上皇・諸公家・親王家・諸門跡もんぜき(皇族や公家が住職を務める寺)の役目・身分・服装・序列などを定めたもので、江戸幕府が朝廷を統制するための基本の法令にあたる。この法度の名は、資料によって「禁中並公家中諸法度」「禁中並公家諸法度」と表記が分かれる。

1615年7月17日 三名の連署——武家の頂点と、朝廷の側が並んだ

1615年7月17日の連署には、将軍と大御所という武家の頂点の二人に加えて、前関白の二条昭実が名を連ねた。三名を並べた記載では、昭実の名が先頭に置かれている。

摂家の家格 宮家より格上と位置づけられた

1615年のこの法度では、摂家が宮家みやけ(皇族の家)より格上と位置づけられた。これが江戸時代における摂家の権威回復のきっかけになったとされる。二条家を含む摂家全体にかかわる話であり、昭実個人の働きとして説明されているものではない。

二条昭実の疑問に答える

秀吉が関白になる直前、関白を争ったのは誰?

近衛信輔と二条昭実の二人である。1585年3月の秀吉の内大臣叙任にともない、5月ごろ信輔が右大臣、昭実が左大臣へ進んだ直後に、次の関白をどちらにするかで相論になった。二人はどちらも五摂家の当主だった。

相論はどちらが勝った?

勝ち負けがついた形では収まっていない。公的機関の資料が伝えるのは、相論を聞いた秀吉が自分が関白になる案を出し、近衛家の猶子となって1585年7月11日に関白へ就いた、という経過である。信輔と昭実のどちらに理があったかを判定する記述はなく、史料の上では確定できない。

なぜ武家の秀忠・家康と、公家の昭実が一緒に法を作った?

1615年の法度が定めた相手が、天皇・上皇・公家・親王家・門跡という朝廷の側だったからである。連署したのは、武家の側の徳川秀忠・家康と、朝廷の側から名を連ねた前関白の二条昭実の3名だった。なぜこの組み合わせになったのかを直接説明する記述は資料になく、確定できない。

昭実はいつ関白を務めていた?

1615年の資料には「前関白」と記されており、この時点ですでに関白の座を離れていたことは分かる。ただし、いつ関白に就き、いつ退いたのかを示す年月日は、公的機関の資料からは特定できない。1585年の相論の時点で関白の座にあったかどうかも、同じく確定できない。

相論のあと、昭実はどうなった?

1601年には九条兼孝に宛てた自筆の書状を残し、1615年には二条城で徳川秀忠・徳川家康と並んで法度に署名している。1585年の相論と1601年の間の記録は資料には見当たらないが、1601年と1615年に公家として名が残っている。

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参考にした資料