前田利政とは?
前田利政は前田利家とまつの次男で、能登国(今の石川県北部)22万石余りを領有しましたが、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康の出兵要請に応じなかったことにより領知を没収された人物です。
利家とまつの次男——荒子に生まれ、分家筋の一家を立てた
前田利政は天正6年(1578)、前田利家と夫人のまつ(芳春院)の次男として生まれた。生誕地は荒子(今の名古屋市)である。幼名は又若、のちに孫四郎と名乗った。兄は加賀藩の藩主家を継いだ前田利長で、利政から始まる家は、加賀藩主前田家の分家筋にあたる。
名と官職 又若、孫四郎、そして「能登侍従」
官職は侍従(朝廷の官職の一つ)、位階(朝廷が与える身分の序列)は従四位下である。能登を領したことから「能登侍従」とも呼ばれた。人物の記録には、職位として「七尾城主」が記されている。母は芳春院、すなわち前田利家の夫人まつである。
家の位置 藩主家の分家筋として立った家
利政から始まる家は、のちに前田土佐守家(直之系前田家)と呼ばれた。加賀藩主となった兄・利長の家に対する分家筋にあたり、藩政期には家祖の利政から10代目の直信まで当主が続いている。加賀藩に仕えたのは、利政の嫡男・直之の代からである。
能登の国主——七尾城にあって、22万石余りを領有した
利政は七尾城にあって能登国22万石余りを領有した。能登は日本海に突き出た半島の国で、戦国時代には守護の能登畠山氏が七尾城を居城としていた。畠山氏の能登支配は天正5年(1577)の上杉謙信の攻撃で終わり、天正9年(1581)に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が七尾城に入る。利政が領有した能登は、この父・利家に与えられた国である。
七尾城 畠山氏の城から、前田氏の城へ
七尾城は能登畠山氏が16世紀前半に築いた山城で、南北約2.5キロ、東西約1.0キロの城域を持ち、全国でも屈指の規模とされる。
城のその後 廃城の時期は、資料によって書き方が分かれる
七尾市の説明は、天正10年(1582)から17年(1589)頃に港に近い小丸山で新たな城が築かれたことにより、七尾城は城としての機能を失ったとする。石川県の文化財の説明は、天正10年(1582)に廃城になったと推定する。七尾城跡は昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、指定面積は約27万7千平方メートルである。
慶長五年——出兵の要請に応じず、領知を没収された
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、利政は徳川家康の出兵要請に応じなかった。これにより領知(大名が治める領地)を没収された。七尾城にあって領有した能登22万石余りは、このとき利政の手を離れる。応じなかった理由は、公的資料に記述がない。
記録の言葉 罪を得て、封を除かれた
人物の記録は、この年の出来事を「慶長5年、罪を獲て封を除かれ、出家して宗祝と号す」と書く。「封を除く」は、大名として与えられていた領地と身分を取り上げることを指す言い方である。同じ出来事を、前田土佐守家の資料は「徳川家康の出兵要請に応じなかったことにより領知を没収された」と書いている。
没収のあと 出家して、宗祝と号した
領知を没収されたのち、利政は出家して宗祝と号した。以後、寛永10年(1633)に没するまでの33年間を、大名の立場を離れたまま京都で過ごした。
京都の33年——文化人や豪商と交わった
領知を失った利政は京都に隠棲(表舞台を離れて暮らすこと)した。京都では多くの文化人や豪商たちと交流を重ねたと記録される。大名として領地を与えられることのないまま、寛永10年(1633)7月14日、京都で没した。享年56。
33年という長さ 大名だった年数より、長い
利政が能登を領有したのは慶長5年(1600)に没収されるまでで、以後、寛永10年(1633)に没するまでの33年間を京都で過ごした。大名だった年数より、京都で過ごした33年のほうが長い。
嫡男・直之——祖母に育てられ、加賀藩に仕えた
利政の嫡男・直之は、幼少時に祖母の芳春院(前田利家の夫人まつ)に引き取られて養育された。芳春院の尽力があって、元和元年(1615)、12歳のときに3代加賀藩主・前田利常に召し抱えられた。これ以後、直之の家は藩政期を通じて1万余石の禄高(家に与えられた石高)をもって、加賀藩の要職を歴任した。
八家 藩の最高職に就く、八つの家
「八家」とは、加賀藩の行政組織の最高職である年寄役に就く門閥(家柄で役職を継ぐ家)で、他藩でいう家老にあたる。いずれも1万石以上を持つ大身の家臣で、全部で8家あったことからこう呼ばれた。制度は元禄期(17世紀末)に5代加賀藩主・前田綱紀が定めている。直之系前田家も、この8家の一つである。
禄高 1万50石から、1万1000石へ
直之系前田家の禄高は、初め1万50石、4代の直堅以降は1万1000石で、これを世襲した。幕末時の八家の禄高のうち、直之系前田家の1万1000石は最も低い。
利政のあとに続いた家——家の名と、位
前田土佐守家という呼び名は、代々の当主が名乗った通称に由来する。藩政期の当主10人のうち、利政を除く6人が従五位下の土佐守または近江守に叙爵(五位の位を授かること)され、そのうち4人が土佐守を通称とした。
家名の由来 土佐守を名乗った4人が、家の呼び名を決めた
歴代のうち4人が土佐守を通称とし、ここから当家は一般に「前田土佐守家」と称された。ほかに近江守を通称とした当主もいる。家の呼び名は、家祖の利政の官職から離れたところで定まった。
家祖だけの位 従四位下侍従は、利政ひとり
藩政期の当主10人の中で、従四位下侍従に叙任されたのは家祖の利政だけである。ほかの当主のうち6人が従五位下に叙爵されており、位階の上では家祖が最も高い。能登22万石余りを領有した大名としての立場が、そのまま位に表れている。
明治以降 10代直信のあとも、家は続いた
10代当主・直信のときに明治維新を迎えた。当家は明治以降も続き、現在の当主は家祖の利政から数えて14代目にあたる。
前田利政の疑問に答える
なぜ徳川家康の出兵要請に応じなかった?
今回の出典は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで出兵要請に応じなかったこと、そして罪を得て封を除かれ、出家して宗祝と号したことまでしか書いていない。応じなかった理由や、どちらの陣営に立ったのかは記されていない。
失った22万石と、子孫が保った1万余石は、どれくらい違う?
能登22万石余りを失った家が、代々保った禄高は1万余石である。石高でみるとおよそ20分の1にあたるが、加賀藩では1万石以上の家臣が大身とされ、八家はいずれもこの規模だった。大名としての家は失われ、藩の最高職に就く家として続いた。
墓はどこにある?
墓地は京都の寺院・芳春院と記録される。利政の法号(出家した人や没した人に付けられる名)は福昌院。母のまつの院号も芳春院で、墓所の寺と同じ名である。
参考にした資料
- 石川県立図書館 SHOSHO「ふるさとコレクション」人物詳細・前田利政(生没年1578〜1633・前田利家の次男・母は芳春院・幼名は又若から孫四郎・能登侍従・官職は侍従で位階は従四位下・職位は七尾城主・生誕地は荒子・没年月日と享年56・法号は福昌院・墓地は京都芳春院・慶長5年に罪を獲て封を除かれ出家して宗祝と号したこと)
- 金沢市立前田土佐守家資料館「前田土佐守家について」(前田利家とまつの次男であること・七尾城にあって能登国22万石余りを領有したこと・関ヶ原の戦いで徳川家康の出兵要請に応じず領知を没収されたこと・京都に隠棲して文化人や豪商と交流したこと・寛永10年に京都で没したこと・嫡男直之が芳春院に養育され元和元年12歳で前田利常に召し抱えられたこと・八家の定義と元禄期の制定と8家の禄高・直之系前田家の禄高1万50石と1万1000石・当主10人の叙爵と土佐守の通称・家祖のみ従四位下侍従・現当主が14代目であること)
- 七尾市「史跡七尾城跡」(七尾城の築城時期と城域の規模・能登畠山氏の居城であること・天正5年の上杉謙信の攻撃による落城・天正9年に織田信長から能登一国を与えられた前田利家の入城・天正10年から17年頃の小丸山での築城により城としての機能を失ったこと)
- 石川県「七尾城跡・鳥越城跡附二曲城跡」(七尾城跡が天正10年に廃城になったと推定されること・昭和9年12月28日の国史跡指定と指定面積)