人物ページ / 江戸時代初期・遠江横須賀の城主

井上正就いのうえまさなり

井上正就とは?

遠江横須賀城(今の静岡県掛川市西大渕)の第10代城主で、「井上主計頭かずえのかみ正就」と記される人物です。西大渕の本源寺に正就とその父親の墓塔が納められていますが、正就個人の事績を記した公的資料は乏しく、位置づけとしてたどれる範囲にとどまります。

徳川家康が家臣の大須賀康高に命じ、高天神城を攻める拠点として横須賀城を築かせます。天正9年(1581年)に高天神城が落ちると、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられました。
豊臣秀吉とよとみ ひでよしの家臣・渡瀬わたらせ繁詮と有馬豊氏ありま とようじが城主に入ったあと、関ヶ原の役を経て大須賀忠政が城主に戻り(6万石での再入部)、近世の横須賀藩が成立します。
城主は松平氏、井上氏、本多氏、西尾氏と移ります。正就は、このうち井上氏の代の第10代城主と記されています。
10代の正就のあと、井上正利が11代の城主となり、1645年まで務めます。
20代城主の西尾忠篤が明治元年(1868年)に安房あわ国花房(今の千葉県鴨川市)へ移され、横須賀藩は静岡藩に含まれます。城はその翌年、明治2年8月に廃されました。
本源寺にある正就とその父親の墓塔が、「城主井上氏の墓塔」として掛川市の指定文化財になります。1981年には横須賀城跡が国の史跡に指定されました。

1578年、城が築かれる——高天神城の喉元を押さえる場所

戦国時代の末期、遠江のこの地方は、西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いていた。天正6年(1578年)、徳川家康は家臣の大須賀康高に命じ、高天神城を攻める拠点として横須賀城を築かせた。康高が初代の城主である。天正9年(1581年)に高天神城が落ちて廃城となると、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられた。井上氏が城主の家として現れるのは、ここから下って、関ヶ原の役より後のことである。

1578年 攻めるために置かれた城

天正3年(1575年)の長篠合戦の勝利を受け、高天神城の奪還を目指した家康が築かせた城である。当時の家康は浜松城にいた。選ばれた地は小高い丘陵とその山麓の砂丘で、西へ進めば浜松、東へ進めば相良さがらに至る街道に面している。北西およそ2キロにある高天神城の喉元を押さえる位置だった。

288年・20代 廃城までに数えた城主の数

横須賀城は、明治維新で廃城となるまでの288年間に20代の城主を数えた。初代の大須賀康高から数え、井上氏はその途中にあたる。城の別称は松尾城で、平山城として山城から平城へ移る中間期の特徴を備えていた。

関ヶ原の後——6万石で戻り、横須賀藩が立った

大須賀康高のあと、城主は大須賀忠政、渡瀬繁詮、有馬豊氏と替わった。渡瀬と有馬は豊臣秀吉の家臣で、豊臣系の大名として城主に入ったのはこの2代である。関ヶ原の役の後、大須賀忠政が城主に戻り(6万石での再入部)、近世の横須賀藩が成立した。以後の城主として注記される譜代大名(将軍家に古くから仕えた大名)は、松平(大須賀)氏、松平(能見)氏、井上氏、本多氏、西尾氏の五つの家である。

井上氏の代——譜代大名として続いた家の一つ

掛川市が本源寺を紹介するページは、正就を「第10代横須賀城主、井上主計頭正就」と記している。井上氏は、横須賀城を居城とした譜代大名の家の一つとして注記されている。ただし、横須賀城の来歴を記す資料は、城主を「松平氏、井上氏、本多氏、西尾氏」と家の単位で並べ、個々の城主の名前と在任年をすべて並べた表は置いていない。そのため、正就がいつ入り、何石を領し、どんな仕事をしたのかは、これらの資料からは読み取れない。

1628年、11代へ——井上正利の17年

1628年、井上正利が横須賀の11代の城主になった。在任は1645年までの17年で、城下の武家屋敷(侍町さむらいまち)を番町の地内に造り、職人などの町を城下東部の河原町に計画させるなど、農業以外のことにはかなりの政治力を発揮した城主だったと記されている。10代の正就の代は、正利が11代に就いたこの1628年より前にあたる。正就と正利の続柄は、ここで参照した資料には書かれていない。

1869年、廃城へ——石垣も樹木も払い下げられた

明治元年(1868年)、20代城主の西尾忠篤が明治維新の動乱のなかで安房国花房(今の千葉県鴨川市)へ移され、横須賀藩は静岡藩に含まれた。横須賀城は翌明治2年(1869年)8月に廃された。明治6年には城内の土地、建物、石垣、樹木までが民間に払い下げられている。

明治6年 保存の声が史跡指定につながった

石垣や樹木まで払い下げられ、城跡が失われかけたところで住民から保存を求める声が上がった。これが、のちの史跡指定につながっている。

残った遺構 丘の上と砂丘の上に分かれて残る

丘陵の上には天守台、本丸、西の丸、北の丸、松尾山が、砂丘の上には二の丸、三の丸が残る。松尾山の北東には大空濠があり、城郭の北・西・南を区切る堀跡も残る。

井上氏が預かった城——両頭の城、玉石積み、城下に入る海

この井上氏が預かった城は、造りも立地もかなり細かいところまで分かっている。

両頭の城 大手門が東と西に二つあった

城の正面口である大手門は普通ひとつしか置かれない。横須賀城は東と西の二か所にこれを持ち、「両頭の城」と言われた。初期の主郭とみられる松尾山と本丸は小笠山おがさやま丘陵の先端に山城として築かれ、近世の中ごろまでに二の丸などの平城の部分が広げられて、今の姿の横須賀城になった。

玉石積み 丸い河原石を積んだ石垣

石垣には「玉石積み」と呼ばれる、丸い河原石を用いた積み方が使われた。この玉石積みの石垣は遺構としてよく残っている。舟入の形をした「隠し堀」と呼ばれる堀跡も残り、入江に面して湊を押さえていた城の性格を示す。

城下に入る海 掛川城とは船で行き来できた

近世の中ごろまで、城の手前まで海が深く入り込み、城は三方を入江と沼、深田に囲まれた要害の地だった。入江には横須賀湊みなとがあり、物流の拠点でもあった。築城当時、この入江は掛川城の外堀となっている逆川さかがわの河口だったとみられ、横須賀城と掛川城は船で行き来できたと考えられている。

1973年と1981年——墓塔と城跡が、それぞれ指定された

本源寺には、第10代城主の井上主計頭正就とその父親の墓塔が納められている。昭和48年(1973年)3月28日、この本源寺にある「城主井上氏の墓塔」が、掛川市の指定文化財のうち史跡の区分に入った。同じ日に、同じ西大渕の龍眠寺にある「城主西尾氏の墓塔」も指定されている。昭和56年(1981年)5月8日には、横須賀城跡が国の史跡に指定された。

1973年3月28日 城主井上氏の墓塔

所在地は掛川市西大渕、所有者は本源寺である。納められているのは正就とその父親の墓塔で、本源寺の山門も江戸中期ごろの形式を残す建造物として、墓塔とともに市の文化財に指定されている。

1981年5月8日 横須賀城跡が国の史跡に

所在地は静岡県掛川市山崎字外堀1-1、所有者は掛川市である。武田方の諏訪原城、武田方と徳川方の争奪地となった高天神城と合わせ、武田方の進出と衰亡、徳川氏の成長の過程を示す史跡として指定された。

井上正就の疑問に答える

井上正就はどこを治めていた?

遠江の横須賀城の第10代城主である。横須賀城跡公園の所在地は掛川市西大渕、国の史跡としての所在地は掛川市山崎字外堀1-1と記される。井上氏は、横須賀城を居城とした譜代大名の家の一つである。

江戸城で亡くなったという話は本当?

このページで参照した公的資料には、正就が江戸城で亡くなったことや、その経緯は書かれていない。本源寺の案内も、正就とその父親の墓塔が納められていることを記すだけである。江戸城の中では刃傷にんじょう(刃物で人を傷つけること)が複数回起きており、寛永4年(1627年)から文政6年(1823年)までの柳営りゅうえい(江戸城中を指す言葉)中の刃傷の始末を年代順に編纂した『営中刃傷記』という史料がある。事件別の年表を載せた本もある。ただし、その資料案内にも正就の名は出てこない。

正就は老中だった?

横須賀城の城主の中には江戸幕府の老中を務めた者もいた、と書かれている。ただしこれは城主全体についての記述で、誰のことかは示されていない。このページで参照した資料には正就個人を老中と記したものは無いため、このページでは城主一般の話として扱っている。

「11代」と「20代」は、どう数えている?

「20代」は、天正6年(1578年)の初代・大須賀康高から明治元年(1868年)の西尾忠篤までを通して数えた城主の数である。途中で豊臣秀吉の家臣の渡瀬繁詮と有馬豊氏が入り、関ヶ原の役の後に大須賀忠政が再び城主となっているが、これらをそれぞれ何代と数えたかは資料に書かれていない。掛川市の資料は正就を「第10代」、井上正利を「第11代」としており、二人の番号は続いている。ただし、この番号の一代一代がどの城主にあたるかを並べた表は資料に無く、20代の通し番号とまったく同じ数え方かどうかまでは確かめられない。

現地に何が残っている?

横須賀城跡は国の史跡で、城跡公園として整備が進められている。井上氏に直接つながるものとしては、西大渕の本源寺(掛川市西大渕5431番地)に正就とその父親の墓塔があり、「城主井上氏の墓塔」として掛川市の史跡に指定されている。江戸中期ごろの形式を残す本源寺の山門も、市の文化財である。

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参考にした資料