城・場所ページ / 肱川沿いで脇坂安治が近世の支配を整えた城

大洲城おおずじょう

大洲城は伊予西部、肱川のほとりに築かれた城です。戦国末から江戸初期にかけて、小早川隆景こばやかわ たかかげ、藤堂高虎とうどう たかとら、脇坂安治らが入城し、近世城郭として整えられました。賤ヶ岳しずがたけの七本槍の一人・脇坂安治わきざか やすはるは1609年に洲本から大洲へ移り、城と城下の支配を引き継ぎます。大洲城は、関ヶ原後の恩賞と転封が、地方の城下町をどう作り替えたかを見る場所です。

伊予国肱川の要地脇坂安治近世城郭

大洲城を理解する要点

大洲城は肱川の河岸段丘を利用する城で、川を使った物資輸送と周辺の平野を管理できる位置にあります。豊臣秀吉とよとみ ひでよしによる四国平定後、伊予には各地から大名が入り、城の整備と領地支配が進められました。大洲城もその過程で、戦国の拠点から近世の城へ変化します。

1595年には藤堂高虎が入り、1609年には脇坂安治が洲本から移りました。安治は入国翌年の1610年に給人所法度を出し、庄屋を軸にした支配の仕組みを整えようとしました。城は石垣と天守だけではなく、村から年貢を集め、家臣を配置し、川と町の物流を管理する場所でした。

  • 肱川沿いの交通と防御の要地
  • 藤堂高虎・脇坂安治らが近世城郭として整えた
  • 脇坂安治は1609年に洲本から入城した
  • 城下と村を結ぶ大洲藩の行政拠点になった
  • 現在の城は長い整備・損壊・復元の歴史を持つ

関係人物と出来事

脇坂安治わきざか やすはる1609年に大洲へ入り、領国支配を整えた七本槍の一人です。
藤堂高虎安治の前に大洲を治め、近世城郭の整備を進めた大名です。
戸田勝隆とだ かつたか秀吉の四国平定後、小早川隆景に続いて入城した秀吉子飼いの武将です。藤堂・脇坂より前の城主にあたります。
洲本城安治が大洲へ移る前に長く治めた淡路の城です。
関ヶ原の戦い安治が東軍側に移り、大洲入封へつながった転換点です。

肱川と城下――川を使う城

大洲城が立つ肱川は、山間部と海を結ぶ川です。川沿いの城は、攻めにくい地形を得るだけでなく、米や木材などを運び、城下へ人と物を集める利点がありました。川が氾濫すれば城下と村に被害が出るため、領主には治水と交通の両方を扱う力が求められます。

大洲城の城下は、城の軍事機能だけで成り立つのではありません。商人、職人、寺社、家臣の屋敷、周辺の農村が結びついて一つの領国の中心になります。地図で城を見るときは、天守の位置だけでなく肱川と城下の広がりも見るとよいでしょう。

脇坂安治の大洲入封――関ヶ原後の領国づくり

関ヶ原で安治は西軍側から東軍へ転じ、戦後も家を残しました。1609年に大洲5万3,500石へ移ると、淡路の海上拠点から、伊予西部の川沿いの領国へ仕事の場を移します。城主は変わっても、安治には家臣団と村を安定させ、幕府の秩序の中で領地を守ることが求められました。

大洲は安治がゼロから作った城ではありません。高虎ら前の城主が進めた整備を受け継ぎ、安治と家臣が支配の仕組みを重ねていきました。城の歴史を一人の名将だけの物語にせず、城主の交代が何を残し、何を作り替えたかで読むことが大切です。

ここは単純化しない

  • 大洲城を脇坂安治だけの城としない。高虎ら複数の城主が整備を重ねました。
  • 天守の姿を江戸初期のままの建物と決めつけない。城は長く改変・損壊・復元されます。
  • 川を景観としてだけ見ない。輸送、洪水、年貢、城下町を左右する政治の基盤でした。

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参考資料