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小出吉政こいでよしまさ

小出吉政とは?

小出吉政は、秀次事件で前野長康が改易(領地を取り上げる処分)されて空いた但馬たじま出石いずし(今の兵庫県豊岡市)に入り、山城に代わる出石城を築いたのち、父・小出秀政の死によって和泉いずみ岸和田(今の大阪府岸和田市)を継いだ大名です。

豊臣秀吉とよとみ ひでよしが紀州の根来寺を討ったあと、秀吉の叔父にあたる父・小出秀政が岸和田城主とされます。
1594年6月に龍野たつの城(今の兵庫県たつの市)へ入ります。翌年、但馬出石の前野長康まえのながやすが秀次事件で改易され、1596年8月、吉政が6万石で出石へ移りました。
標高321メートルの山頂にあった有子山ありこやま城に代えて、吉政が山麓に近世の出石城を築きます。
7月、但馬・丹波の諸大名とともに田辺城を攻撃した記録が年表に残ります。同じ年の9月、関ヶ原で石田三成いしだ みつなりらが徳川家康とくがわ いえやすの軍に敗れました。
父・秀政が岸和田城主のまま死去します。吉政が岸和田を継ぎ、出石は嫡男の吉英へ譲りました。但馬と和泉、離れた二か所を親子で分け持つ形が生まれます。
吉政が岸和田城主として死去し、岸和田は吉英、出石は弟の吉親が継ぎます。このとき出石領の一部が岸和田領へ組み入れられ、出石の石高は大きく減りました。

父の代の岸和田——秀吉の叔父が城主になった城

小出吉政は小出秀政の子である。父の秀政は豊臣秀吉の叔父にあたる人物で、天正13年(1585)、秀吉が紀州の根来寺を討ったあとに岸和田城主とされた。城の整備は秀政の手で進み、天守もこのときに築かれている。生年と幼少期については、公的資料には記述がない。

天正13年 紀州の押さえとして置かれた城

岸和田城は、16世紀中葉には松浦氏の居城だったと伝わる。秀吉は天下統一を進めるなかで紀州の根来寺などの勢力を押さえるため中村一氏なかむらかずうじを城主に置き、根来寺が壊滅したあと、叔父の秀政を城主とした。天守は秀政によって築かれ、慶長2年(1597)に完成したとされる。

城主の並び 小出家が入ったのは、はじめの3代

岸和田城の城主は、小出秀政、吉政、吉英と小出家が3代続き、そのあと松平(松井)康重・康映を経て、寛永17年(1640)に岡部宣勝おかべのぶかつが6万石で入城した。以後は明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を治めている。吉政は、小出家3代のまん中にあたる。

龍野から出石へ——空いた但馬に、6万石で入った

文禄3年(1594)6月、吉政は播磨の龍野城に入った。龍野へ置かれた経緯については、公的資料には記述がない。翌文禄4年(1595)、但馬出石を治めていた前野長康が豊臣秀次とよとみ ひでつぐの事件に連座れんざ(他人の罪に巻き込まれる処分)して捕らえられ、子の景定とともに自刃した。出石が空いた翌年、文禄5年(1596)8月、吉政は龍野から出石へ入部にゅうぶ(新しい領地へ入ること)する。龍野にいたのは2年2か月ほどだった。

前任者 5万石の前野長康、6万石の小出吉政

前野長康は天正13年(1585)に5万石で有子城(有子山城)に入り、但馬出石を治めた。文禄4年(1595)に改易され、その跡へ吉政が6万石で入城する。

年の順 出石入部は、関ヶ原より4年早い

吉政の出石入部は文禄5年(1596)8月で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いより4年早い。関ヶ原のあとに但馬出石へ移ったという書き方を見かけるが、年表の順序は逆である。

城の来歴 山名氏が「子盗」を嫌って名づけた城

有子城は、山名祐豊すけとよが天正2年(1574)ごろに築いた城と伝わる。それ以前の山名氏の本城は此隅山このすみやま城で、「子盗」と呼ばれたその名を嫌って「有子」と名づけたという。天正8年(1580)に城主の山名氏政が因幡へ出奔したあとは木下秀長が入り、前野長康、小出吉政と城主が替わった。

山を下りた出石城——中世の山城が閉じた

吉政が入った有子城は、標高321メートルの有子山の山頂に主郭しゅかく(城の中心となる区画)を置き、西へ6段の区画が階段状に続く山城だった。吉政はこの山上の城に代わる城を山麓に築き、有子山城は廃城になった。中世の城から近世の城への移行にあたる出来事だが、築いた時期は資料によって書き方が分かれる。

年を示さない書き方 入城のあと、やがて

前野長康の改易のあとに吉政が6万石で入城し、やがて吉政による近世出石城の築城によって有子山城は廃城になった、という書き方がある。入城から築城までの年は挙げられていない。

1604年ごろとする書き方 伝聞の形で置かれた一行

年表に年を示す書き方では、慶長9年(1604)の項に「このころ、有子山城を廃し、ふもとに移ったと言われている」という一行が置かれている。年を断定せず、伝えられている話として記す形である。この項は、吉政が父の死によって岸和田を継いだ年と同じ位置にある。

山に残ったもの 山頂の石垣と、過渡期の形

有子山の山頂には、みごとな石垣が残っている。織豊期(信長・秀吉のころ)のいずれかの大名によって築かれたものとみられ、中世の城郭が近世の城郭へ移るまでの過渡期の形をよく示す例とされる。有子山城跡は、山名氏の前の本城である此隅山城跡とあわせて「山名氏城跡」の名で、1996年11月13日に国の史跡に指定された。

1600年の田辺城——但馬・丹波の大名とともに動いた

慶長5年(1600)7月、吉政は但馬・丹波の諸大名とともに田辺城を攻撃した。同じ年の9月、関ヶ原で石田三成らが徳川家康の軍に敗れる。年表に残るのは7月の攻撃という行動そのもので、吉政がどちらの陣営に属したと明記した公的な資料は、今回あたった範囲では確認できない。

7月の攻撃 近隣の大名がそろって動いた

記録の書き方は「但馬・丹波の諸大名とともに」であり、吉政ひとりの動きとしては記されていない。近隣の大名がそろって同じ城へ向かった動きのなかに、出石城主としての吉政の名が並ぶ。

戦いのあと 出石も岸和田も、家に残った

関ヶ原のあとも小出家は但馬出石を保ち、慶長9年(1604)には和泉岸和田も継いでいる。戦後に領地を取り上げられたという記録は見当たらない。

父の死と岸和田——但馬と和泉、離れた二か所

慶長9年(1604)、父・秀政が岸和田城主のまま死去した。吉政は岸和田藩を継ぎ、出石藩は嫡男の吉英に譲る。但馬の出石と和泉の岸和田は大きく離れており、小出家はこの二か所を親子で分け持つ形をとった。吉政が城主を務めた城の順は、龍野、出石、岸和田である。

岸和田の位置づけ 父の代からの城に戻った

岸和田は父・秀政の代からの小出家の城である。吉政は慶長9年(1604)、その岸和田へ入る形で家督を継いだ。

譲った先 嫡男・吉英が出石に残った

吉政が岸和田へ移ったあと、出石藩を継いだのは嫡男の吉英である。吉英はのちに岸和田城主としても名を残し、岸和田城の城主の並びでは小出家3代目にあたる。

1613年・二つに分かれた小出家——出石から岸和田へ移された石高

慶長18年(1613)、吉政が岸和田城主として死去した。岸和田藩は吉英が継ぎ、出石藩は弟の信濃守吉親が継ぐ。このとき出石領のうち約2万5千石が岸和田領へ組み入れられ、出石領は約2万石にとどまった。

石高の付け替え 家のなかで、領地が移動した

1613年の相続では、家督が二人に分かれるとともに、領地の一部が兄の側へ移された。出石を継いだ吉親と、岸和田を継いだ吉英は兄弟であり、この付け替えは小出家の内側で起きた移動にあたる。

小出吉政の疑問に答える

岸和田から出石へ移った? それとも出石から岸和田?

出石が先である。吉政は文禄5年(1596)8月に龍野から出石へ入部し、慶長9年(1604)に父の死をきっかけに岸和田を継いだ。関ヶ原の戦いは1600年なので、出石入部は関ヶ原より前、岸和田は関ヶ原より後にあたる。「関ヶ原のあとに但馬出石へ移った」という書き方は、年の順序が入れ替わっている。

出石城を築いたのはいつ?

築いたのは吉政で、時期は資料によって書き方が分かれる。年を示さずに、入城のあとやがて吉政の築城によって有子山城が廃城になったと記す書き方と、慶長9年(1604)の項に「このころ、有子山城を廃し、ふもとに移ったと言われている」と伝聞の形で置く書き方がある。どちらか一方に決められる材料は見当たらない。

関ヶ原で、吉政はどちらに味方した?

確認できるのは、慶長5年(1600)7月に但馬・丹波の諸大名とともに田辺城を攻撃したという年表の記録だけである。吉政個人を東軍あるいは西軍と明記した公的な資料は見つかっていない。関ヶ原の後も出石は小出家に残り、1604年には岸和田も継いでいる。

出石と岸和田の両方に小出家がいたのはなぜ?

1604年に吉政が岸和田を継いだとき、出石を嫡男の吉英に譲ったためである。さらに1613年に吉政が没すると、岸和田は吉英、出石は弟の吉親が継ぎ、二つの家に分かれた。同じ小出家が但馬と和泉に並び立つ形は、この二段階の相続から生まれている。

大坂の陣に、吉政は出た?

大坂冬の陣が起きた慶長19年(1614)の前年、慶長18年(1613)に吉政は没している。冬の陣で天王寺口へ向かったのは、岸和田藩主の吉英と出石城主の吉親、つまり子の代である。吉英は大坂方からの加勢の誘いを断ったうえで参陣した。

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参考にした資料