人物ページ / 1569〜1649年 / 若狭小浜・伏見城・木下長嘯子

木下勝俊きのした かつとし

木下勝俊は、豊臣秀吉とよとみ ひでよしの正室ねねねねの甥として若狭小浜の領主となり、慶長5年(1600)の関ヶ原の前哨戦で伏見城を退去した人物です。戦後は木下長嘯子と号し、和歌に生きた文化人としても知られます。

木下勝俊とは?

  • 豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたり、秀吉に仕えて若狭小浜の領主になった。
  • 慶長5年(1600)、鳥居元忠とともに守っていた伏見城を、関ヶ原の前哨戦の直前に退去した。
  • 戦後にその対応を厳しく指弾され、政治的に失脚した。
  • のちに木下長嘯子と号し、京都で和歌に生きる文化人となった。

何をした人物か

勝俊は、豊臣秀吉の正室ねねの兄・木下家定の長男です。若い頃から秀吉に仕え、播磨龍野たつの城主(今の兵庫県たつの市)を経て、北国の物資が京都へ入る道筋にあたる若狭国小浜城主(今の福井県小浜市)となりました。文禄3年(1594)の記録には若狭小浜六万二千石の領主として名が見えます(十万石と伝える資料もあります)。勝俊は武人以上に文人としての才能に恵まれ、若い頃から細川幽斎に入門して和歌を学び、文禄の役で秀吉に従って九州へ赴いた際は、その道中を「九州のみちの記」という紀行文に残しました。

勝俊の運命を決定づけたのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでした。戦乱が起こったとき、勝俊は鳥居元忠とりいもとただとともに徳川方の拠点であった伏見城を守っていましたが、開戦前に突如、城を退去してしまいます。理由については、そのとき西軍の主力に実弟の小早川秀秋こばやかわひであきがいたためとも、元忠が勝俊を退去させたためとも伝わり、はっきりしません。勝俊が去った後、西軍がこの城を攻め立てると、元忠は奮戦したのち自刃し、城は落ちました。

関ヶ原の決戦で東軍が勝利すると、勝俊が伏見城を退去した対応は厳しく指弾されるようになり、妻からも離縁されました。慶長13年(1608)、兄家定が死去すると、江戸幕府は勝俊と弟利房への分割相続をいったん認めますが、叔母のねねが勝俊ひとりへの相続を望んだため、家康はこれを退け、備中足守(今の岡山県岡山市北区)の所領は没収されてしまいます。利房はのちに慶長19〜20年(1614〜15)の大坂の陣で徳川方に加勢して軍功を挙げ、父の旧領を認められて足守藩の初代藩主となりました。

こうして数え年33歳で政治的に失脚した勝俊は、長嘯子ちょうしょうしと号し、ねねが京都東山に開いた高台寺の近くに挙白堂きょはくどうという山荘を建てて隠棲し、文芸の道に没頭しました。それでも彼の学識と風雅を慕う人は絶えず、林羅山はやし らざんや藤原惺窩ふじわらせいか、小堀遠州こぼりえんしゅうらが訪れ、後水尾天皇ごみずのおてんのうとも親しく交わりました。晩年は洛西へ移り、慶安2年(1649)に81歳で没しています。没後、弟子の山本春正が遺作を精選して『挙白集』全10巻を刊行し、俳人の松尾芭蕉は長嘯子の和歌に深く傾倒したと伝わります。

年表で追う

1594年
若狭小浜の領主

「伏見普請役之帳」に若狭小浜六万二千石の領主として名が見える。

1600年
伏見城退去

鳥居元忠とともに守っていた伏見城を、関ヶ原の前哨戦の直前に退去する。

1608年
所領没収

兄家定の死後の相続争いの末、足守の所領を没収される。

1649年
長嘯子として死去

京都で和歌に生きた末、81歳で没する。

読み直す視点

一門

秀吉の正室ねねの甥として重んじられたが、血縁は政治的な失脚を防がなかった。

伏見城

京都と大坂を結ぶ要地で、鳥居元忠が命がけで守った城。

長嘯子

政治を退いた後は和歌に生き、後水尾天皇や松尾芭蕉にも影響を与えた。

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参考にした資料