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片桐貞隆かたぎりさだたか

片桐貞隆とは?

片桐貞隆は、大和の小泉(今の奈良県大和郡山市)に陣屋を構えて町のもとを作った、片桐且元の弟にあたる大名です。

片桐且元の弟・貞隆が、小泉の周辺を含めて1万5000石余を与えられ、大名に列します。本拠はしばらく摂津の茨木城(今の大阪府茨木市)に置かれました。
領地を治める都合から、台地の先端で崖に守られた土地として小泉を選びます。そこに住んでいた農民を街道筋に移したことが、小泉町ができるもとになりました。
台地の先端の急な崖の上に、長辺150メートルの長方形の堀で囲む陣屋が構えられます。富雄川沿いに整えられた町の地割りは、今日までそのまま残っています。
寛文3年(1663)、子の片桐貞昌が亡父貞隆のために慈光院を建てます。

且元の弟——生没年ははっきりしない

片桐貞隆は、片桐且元の弟である。兄の且元は豊臣秀吉とよとみ ひでよしに仕え、秀吉の死後は豊臣秀頼とよとみ ひでよりの傅役もりやく(主君を補佐し育てる役)・家老として大坂城を支えた。貞隆の名は、この兄と並ぶ形で「片桐且元の弟」として記録に現れる。

貞隆がいつ生まれ、いつ没したかは、細かい年まではたどれない。没年については、子の貞昌が寛文3年(1663)に「亡父貞隆」のための寺を建てているので、この年より前に没していたことが分かる。生年と没年の代わりに手がかりになるのは、慶長6年(1601)に1万5000石余を与えられて大名に列した、という一点である。

兄弟の関係や、且元が豊臣家中で担った役割は、且元の側で詳しくたどれる。

1601年——1万5000石余を与えられ、茨木城に入った

慶長6年(1601)、貞隆は大和の小泉の周辺を含めて1万5000石余を与えられ、大名に列した。関ヶ原の戦いの翌年にあたる。与えられた領地は小泉の周辺を含むものだったが、本拠はしばらくの間、摂津の茨木城に置かれた。

1万5000石余 大名として扱われる石高

石高こくだか(領地の大きさを米の量で表す仕組み)で1万5000石余という規模は、大名として扱われる範囲に入る。領地の中心は大和の小泉の周辺だった。

茨木城にいた間 領地と本拠が、離れていた

大名に列してからしばらく、貞隆の本拠は摂津の茨木城にあった。年貢を取る領地は大和の小泉の周辺にあり、支配する土地と、そこを差配する場所とが離れていた。この状態を解くために、貞隆は領地の中へ役所を移す道を選ぶ。

小泉へ——役所を置くために、農民を街道筋へ移した

知行地ちぎょうち(実際に年貢を取る領地)を治める都合から、貞隆は領地の中に役所を置くことにした。陣屋じんや(城を持たない大名の役所)を構えるのにふさわしい土地として選ばれたのが、小泉である。小泉は台地の先端にあたり、東側が急な崖になっている。

その土地には、すでに農民が住んでいた。貞隆は彼らを街道筋へ屋敷替え(住まいをまとめて移すこと)させ、空いた土地に陣屋を構えた。移された先の街道筋には、やがて家並みが伸びていく。小泉町という町ができるもとは、この一度の移動にある。

小泉という土地 中世から、館と城があった

小泉には中世から小泉氏という地侍がいて、館を構えていた。永禄4年(1561)2月、松永久秀の軍がこの地に向かい、激戦の末に5月、小泉城は落ちる。このとき城主をはじめ17人が切腹したと伝わる。のちに豊臣秀長に仕えた羽田長門守がこの地に入り、古い館の跡を広げる形で外側の堀を造ったといわれる。貞隆の陣屋は、この積み重ねの上に置かれた。

屋敷替え 人を動かして、町の骨格を決めた

陣屋を置くには、崖の上のまとまった土地が要る。そこに住む者を街道筋へ移すという判断が、結果として道沿いに人家を並べ、町の骨格を決めた。城下の並びは、その後に整えられていく。領地支配の都合で下された一つの決定が、町の形として残った。

陣屋と町割り——堀と道の形が、今日まで残った

陣屋の地は台地の先端部で、急な崖に接している。地形から、内側の区画は西側に屈曲があり、長辺150メートルの長方形の堀で囲まれていたと推定されている。東の崖下と西南の谷には、その堀の池が今も残る。陣屋を取り巻く内堀が完成したのは延宝元年(1673)といわれ、費用は銀4貫目かかったと伝わる。呼び名は陣屋だが、構えは城郭に近い規模を備えていた。

城下の並び 富雄川に沿って、三つの町が整えられた

城下は、東を流れる富雄川に沿って南北に北ノ町・中ノ町が並び、東西に本町が通る形に整えられた。この地割りは今日までそのまま残っており、現地の道の形をたどれば、当時の町の区画をなぞることができる。北ノ町からは大手道が陣屋の内へ通じ、調練場は陣屋の外に置かれた。幕末の姿を復元した地図では、外堀が陣屋を取り巻き、その内側に家中屋敷、さらに内堀の内側に藩主の居館が置かれていたことが分かる。

大手門と桝形 東西80メートルを、三度折り曲げた

大手門は北ノ町の南端に突き出す形で開き、その内側は東西80メートルほどの区域が3回屈曲する桝形ますがた(門の内で道を折り、進入を鈍らせる造り)になっていた。石垣を積まず、塀で囲う造りだったとみられる。

残った門 一つが、小泉神社の山門になった

陣屋には大手門のほかに北・西北・南の3か所に門があった。そのうちの一つが、現在は小泉神社の山門として残っている。冠木かぶき(門柱をつなぐ横木)の上に切妻の屋根をのせ、控柱にも小さな屋根を付けた形式で、高麗門と呼ばれる。

亡父のための寺——子の貞昌が建てた慈光院

寛文3年(1663)、貞隆の子・片桐貞昌が、亡父貞隆の菩提ぼだい(死後の冥福)のために慈光院という禅寺を建てた。貞昌はこのとき小泉藩主である。

書院と茶室 二つとも、国の重要文化財

書院はもと方丈といい、寛文3年の建立である。間口14メートル、奥行10メートルほどの入母屋造いりもやづくり(屋根の形式の一つ)・茅葺で、開放的で簡素な造りになっており、庭を眺めるのに都合のよい構えを取る。茶室は寛文11年(1671)に書院の東北隅へ付け足された。書院と茶室は、どちらも国の重要文化財に指定されている。

庭と借景 大和の東に連なる山並みを、庭に取り込んだ

慈光院の庭園は、寛文3年の創建にあわせて作られた枯山水かれさんすい(水を使わず石と砂で山水を表す庭)である。刈り込んだ生垣越しに大和の東に連なる山並みを取り込む借景しゃっけい(外の景色を庭の一部として扱う手法)の庭として知られ、大和平野を隔てた遠くの山の四季を室内から直接眺められる点に特徴がある。

貞昌と茶の湯 石州流を興したのは、子の代である

貞昌は茶の湯に通じ、一派を興した人物として知られる。石州流茶道の開祖として名が挙がるのは、この貞昌である。父の菩提寺に書院と茶室を備え、庭を作らせたことも、この関心とつながっている。

片桐貞隆の疑問に答える

兄の且元とは、どう違った?

且元は豊臣秀頼の傅役・家老として大坂城の政務と対外交渉を担い、その動きは記録に多く残る。一方の貞隆については、豊臣家の中でどんな役職を務めたのかを示す公的な資料が見当たらない。確実にたどれるのは、慶長6年(1601)に1万5000石余を与えられて大名に列し、大和の小泉に本拠を置いたことである。二人の立場や選択がどこで分かれたのかを説明する資料も、今のところ見つからない。

どこの大名だった?

大和の小泉(今の奈良県大和郡山市小泉町の周辺)を中心に、1万5000石余を領した。ただし大名に列した当初の本拠は摂津の茨木城(今の大阪府茨木市)で、小泉へ役所を移したのはその後である。同じ大和には郡山城があり、小泉はそこから離れた位置にあたる。

小泉城と小泉陣屋は、同じ場所?

重なっている。小泉には中世から小泉氏の館があり、その跡を含む形で貞隆の陣屋が構えられた(詳しい経緯は「小泉へ」の章を参照)。今も残るのは、東の崖下と西南の谷の堀池、城下の地割り、そして小泉神社の山門になっている陣屋の門である。

石州流茶道を興したのは片桐貞隆?

石州流茶道の開祖として知られるのは、貞隆の子の片桐貞昌である。貞昌は寛文3年(1663)に亡父貞隆の菩提のため慈光院を建て、寛文11年(1671)にはその書院へ茶室を付け足した。貞隆自身が茶の一派を開いたと記す公的な資料は見当たらない。父子で名が近いため、まとめて語られやすい点にあたる。

跡は誰が継いだ?

子の片桐貞昌が継ぎ、小泉藩主として慈光院を建てている。何代目にあたるかという数え方は、使える公的資料に明記が無いため、ここでは「貞隆の跡を子の貞昌が継いだ」という形にとどめる。

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参考にした資料