『信長公記』に残る猪子兵介の姿
- 『信長公記』には「猪子兵介」(「猪子兵助」とも書かれる)の名で登場します。「高就」の名は『信長公記』には出てきません。
- 天正4年(1576)には大坂の天王寺の砦へ、天正7年(1579)には播磨の三木城攻めの砦普請へ、いずれも検使(信長から現地へ遣わされた使い)として、もう1人と組んで遣わされました。
- 天正9年(1581)には、長岡(細川)藤孝が明け渡した城に、城代として入るよう命じられました。
- 天正10年(1582)6月、本能寺の変のさなかに、二条の新御所に立て籠もった織田信忠のもとで戦い、討死しました。
何を担った人物か
『信長公記』には、信長が美濃の斎藤道三と富田の正徳寺で対面した記事があります。4月下旬のこととされるこの会見の帰り道、あかなへという所で、猪子兵介が道三に「何と見ても上総介(信長)はたわけ(愚か者)だ」と申し上げると、道三は、無念なことに自分の子どもたちはそのたわけの門の外に馬をつなぐ(家来になる)ことになるだろうと答えたと記されます。
天正4年(1576)4月14日、信長は荒木村重・長岡藤孝・明智光秀・原田備中に命じて大坂へ攻め寄せさせました。原田備中は天王寺に砦を構え、その天王寺の砦には佐久間甚九郎と明智光秀が置かれました。そのうえで検使として猪子兵助と大津伝十郎が遣わされ、砦の普請が行われました。5月3日、原田備中らが木津を攻めたところ、大坂方の1万ほどに取り囲まれ、原田備中らは討死します。一揆勢はそのまま天王寺の砦へ向かい、佐久間甚九郎・明智光秀・猪子兵介・大津伝十郎と近江の兵が立て籠もる砦を取り巻いて攻めました。砦からは、数日も持ちこたえられないとの知らせが何度も届きます。信長は5月5日に京都から救援に出て、7日、1万5千ほどの敵に3千ほどで攻めかかったと記され、一揆勢を切り崩して天王寺へ駆け入り、砦の味方と合流しました。
播磨では天正6年(1578)3月、三木城(今の兵庫県三木市)の城主・別所長治が毛利方に味方し、羽柴秀吉を主将とする織田方との三木合戦が始まっていました。天正7年(1579)4月12日、信長は織田信忠・北畠信雄・織田上野守・織田信孝を出陣させ、猪子兵介と飯尾隠岐の2人を、三木表で進める砦(取出)の普請の検使として付けて遣わしました。この月に信忠らが再び播磨へ遣わされると、三木城を囲む付城(城を囲むための砦)が新たに6か所築かれ、包囲はいっそう厳しくなりました。三木合戦は、天正8年(1580)1月17日に終わります。
天正9年(1581)3月25日の記事では、前年に丹後国を与えられた長岡兵部太輔(細川藤孝)父子が、それまでの城を明け渡しています。長岡京市の資料によると、細川藤孝は元亀4年(1573)に姓を長岡と改め、天正8年(1580)8月に丹後の宮津城へ移っていました。信長は、矢部善七郎と猪子兵助の2人を城代として青龍寺へ遣わし、長岡の知行分(領地)を改めて、その城に住むよう命じました。
天正10年(1582)6月、明智光秀が本能寺の信長を襲うと、妙覚寺にいた織田信忠は二条の新御所に移って立て籠もりました。まもなく明智勢が押し寄せると、猪子兵介は福富平左衛門・野々村三十郎らとともに斬って出て戦いました。『信長公記』は、このとき討死した者の一人として猪子兵介の名を挙げています。
時系列
会見を終えた斎藤道三に、信長の印象を申し上げました。
大津伝十郎とともに砦の普請を見届け、5月には一揆勢に囲まれた砦の中で信長の救援を待ちました。
飯尾隠岐とともに、三木へ出陣する織田信忠らに付けて遣わされました。
矢部善七郎とともに、長岡藤孝が明け渡した城へ城代として遣わされました。
本能寺の変のさなか、織田信忠が立て籠もった二条の新御所で戦い、討死しました。
読み違えないために
『信長公記』では、この人物は「高就」ではなく「猪子兵介」(天王寺と青龍寺の記事では「猪子兵助」)の名で記されています。正徳寺の会見の帰り道で道三に話しかけた猪子兵介と、のちに信長方の検使や城代として出てくる猪子兵介との間で、どのような経緯があったのかは、『信長公記』の記事からは確かめられません。また、検使として遣わされるときは、天王寺では大津伝十郎と、三木では飯尾隠岐と、どちらも2人組でした。生年は分かっていません。
参考にした資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之上」(太田牛一著、1881年刊)(9コマ、「山城道三と信長御参会之事」に、4月下旬の正徳寺での会見と、帰り道のあかなへで猪子兵介が道三に信長を「たわけ」と申し、道三が答えたこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之中」(太田牛一著、1881年刊)(巻之九〔天正4年〕13〜14コマに、4月14日の大坂攻めの命令、天王寺の砦へ検使として猪子兵助・大津伝十郎が遣わされ普請が行われたこと、5月3日の木津攻めと原田備中らの討死、一揆勢による天王寺の砦の包囲と籠城した顔ぶれ、5月5日の信長の出陣と7日に1万5千ほどの敵へ3千ほどで攻めかかって天王寺へ駆け入ったこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之下」(太田牛一著、1881年刊)(巻之十二〔天正7年〕6コマに、4月12日の信忠らの出陣と、猪子兵介・飯尾隠岐が三木表の砦普請の検使として遣わされたこと。巻之十四〔天正9年〕29コマに、3月25日、丹後を与えられた長岡父子が明け渡した青龍寺へ矢部善七郎・猪子兵助が城代として遣わされたこと。巻之十五〔天正10年〕48〜49コマに、明智光秀の挙兵、信忠の妙覚寺から二条新御所への籠城、猪子兵介らが斬って出て戦ったことと、討死した者の列記)
- 三木市立みき歴史資料館「国指定史跡 三木城跡及び付城跡・土塁」(三木合戦が天正6年3月から天正8年1月17日までの別所長治と織田方の合戦であること、長治が毛利方に味方したこと、天正7年4月に信忠らが再び播磨へ遣わされ付城が新たに6か所築かれたこと、三木城が三木市にあること)
- 長岡京市「京都防衛の要 勝龍寺城」(永禄12年正月に細川藤孝らの軍が勝龍寺城に入ったこと、元亀4年に藤孝が姓を長岡と改めたこと、天正8年8月に藤孝らが丹後の宮津城へ移ったこと)