人物ページ / 生年不詳–1582年 / 検使・天王寺・三木・二条

猪子高就いのこ たかなり

猪子高就は、『信長公記』に「猪子兵介」の名で記される信長方の人物です。天正4年(1576)と天正7年(1579)に砦の普請へ検使として遣わされ、天正10年(1582)の本能寺の変で、織田信忠が立て籠もった二条の新御所で討死しました。

この人物を先に理解する

『信長公記』に残る猪子兵介の姿

  • 『信長公記』には「猪子兵介」(「猪子兵助」とも書かれる)の名で登場します。「高就」の名は『信長公記』には出てきません。
  • 天正4年(1576)には大坂の天王寺の砦へ、天正7年(1579)には播磨の三木城攻めの砦普請へ、いずれも検使(信長から現地へ遣わされた使い)として、もう1人と組んで遣わされました。
  • 天正9年(1581)には、長岡(細川)藤孝が明け渡した城に、城代として入るよう命じられました。
  • 天正10年(1582)6月、本能寺の変のさなかに、二条の新御所に立て籠もった織田信忠のもとで戦い、討死しました。

何を担った人物か

『信長公記』には、信長が美濃の斎藤道三さいとう どうさんと富田の正徳寺で対面した記事があります。4月下旬のこととされるこの会見の帰り道、あかなへという所で、猪子兵介が道三に「何と見ても上総介(信長)はたわけ(愚か者)だ」と申し上げると、道三は、無念なことに自分の子どもたちはそのたわけの門の外に馬をつなぐ(家来になる)ことになるだろうと答えたと記されます。

天正4年(1576)4月14日、信長は荒木村重あらき むらしげ・長岡藤孝・明智光秀あけち みつひで・原田備中に命じて大坂へ攻め寄せさせました。原田備中は天王寺に砦を構え、その天王寺の砦には佐久間甚九郎と明智光秀が置かれました。そのうえで検使として猪子兵助と大津伝十郎が遣わされ、砦の普請が行われました。5月3日、原田備中らが木津を攻めたところ、大坂方の1万ほどに取り囲まれ、原田備中らは討死します。一揆勢はそのまま天王寺の砦へ向かい、佐久間甚九郎・明智光秀・猪子兵介・大津伝十郎と近江の兵が立て籠もる砦を取り巻いて攻めました。砦からは、数日も持ちこたえられないとの知らせが何度も届きます。信長は5月5日に京都から救援に出て、7日、1万5千ほどの敵に3千ほどで攻めかかったと記され、一揆勢を切り崩して天王寺へ駆け入り、砦の味方と合流しました。

播磨では天正6年(1578)3月、三木城(今の兵庫県三木市)の城主・別所長治が毛利方に味方し、羽柴秀吉はしば ひでよしを主将とする織田方との三木合戦が始まっていました。天正7年(1579)4月12日、信長は織田信忠・北畠信雄・織田上野守・織田信孝おだ のぶたかを出陣させ、猪子兵介と飯尾隠岐の2人を、三木表で進める砦(取出)の普請の検使として付けて遣わしました。この月に信忠らが再び播磨へ遣わされると、三木城を囲む付城(城を囲むための砦)が新たに6か所築かれ、包囲はいっそう厳しくなりました。三木合戦は、天正8年(1580)1月17日に終わります。

天正9年(1581)3月25日の記事では、前年に丹後国を与えられた長岡兵部太輔(細川藤孝ほそかわ ふじたか)父子が、それまでの城を明け渡しています。長岡京市の資料によると、細川藤孝は元亀4年(1573)に姓を長岡と改め、天正8年(1580)8月に丹後の宮津城へ移っていました。信長は、矢部善七郎と猪子兵助の2人を城代として青龍寺へ遣わし、長岡の知行分(領地)を改めて、その城に住むよう命じました。

天正10年(1582)6月、明智光秀が本能寺の信長を襲うと、妙覚寺にいた織田信忠は二条の新御所に移って立て籠もりました。まもなく明智勢が押し寄せると、猪子兵介は福富平左衛門・野々村三十郎らとともに斬って出て戦いました。『信長公記』は、このとき討死した者の一人として猪子兵介の名を挙げています。

時系列

信長の若いころ(4月下旬)
正徳寺の会見の帰り道

会見を終えた斎藤道三に、信長の印象を申し上げました。

天正4年(1576)4月〜5月
天王寺の砦へ検使として

大津伝十郎とともに砦の普請を見届け、5月には一揆勢に囲まれた砦の中で信長の救援を待ちました。

天正7年(1579)4月12日
三木表の砦普請の検使

飯尾隠岐とともに、三木へ出陣する織田信忠らに付けて遣わされました。

天正9年(1581)3月25日
青龍寺の城代

矢部善七郎とともに、長岡藤孝が明け渡した城へ城代として遣わされました。

天正10年(1582)6月
二条の新御所で討死

本能寺の変のさなか、織田信忠が立て籠もった二条の新御所で戦い、討死しました。

読み違えないために

『信長公記』では、この人物は「高就」ではなく「猪子兵介」(天王寺と青龍寺の記事では「猪子兵助」)の名で記されています。正徳寺の会見の帰り道で道三に話しかけた猪子兵介と、のちに信長方の検使や城代として出てくる猪子兵介との間で、どのような経緯があったのかは、『信長公記』の記事からは確かめられません。また、検使として遣わされるときは、天王寺では大津伝十郎と、三木では飯尾隠岐と、どちらも2人組でした。生年は分かっていません。

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